◆「左翼-リベラル」と保守主義
ヘラクレイトスが呟いた如く、万物は流転する。而して、左翼も、よって、「左翼」という言葉の語義も変化しています。実際、現在、「左翼」は「左翼=社会主義」であり、つまり、左翼とは「生産と分配の決定権と責任が個人ではなく「社会=集団」に帰属すべきだとする主張」という、プリミティブというか(そのコミュニティーメンバーが共同で収益可能な入会地等を利用する用益物権が広範に認められていた)プレ近代の社会主義にこそより当てはまる定義を連想する向きはそう多くないでしょう(逆に言えば、そのようなシンプルな「社会主義」は「全体主義」だけでなく「保守主義」ともそう矛盾するものではないと思います)。
畢竟、この項の結論を先取りして言えば、2010年の現在、保守派が対峙すべき<敵の正体>としての「左翼」の語義は、「左翼-リベラル」として重層的に構成せざるを得ないのではないかということ。そう私は考えています。
国家権力と資本主義を否定する左翼は、社会主義体制の崩壊を目撃して、資本主義の打倒が国家権力を手段としては到底不可能な現実に慄然とした一方、例えば、ネグリ&ハート『帝国』(2000年)に端的な如く、資本主義に引導を渡す役目を伝統や文化とは無縁な「普遍的で形式的な価値観」を紐帯とする共同体やネットワークに求めた。他方、(新自由主義を含むレッセフェール的なリバタリアニズムを鋭く批判する)リベラル派は、伝統や文化の多様性に価値を置きつつ、よって、国家権力や国家社会の諸個人に対する文化的介入を忌避しながらも、資本主義下の資源と所得の再配分領域では国家権力の積極的な活動を要求する勢力と規定できるかもしれません。
蓋し、ハーバマスが唱えた(その社会の固有で自生的な伝統や文化とは無縁な、「法治主義」や「適正手続としての法の支配」「法が支配する安定的な社会秩序」等々の形式的な憲法的価値を中核とする)「憲法愛国主義」による社会統合のアイデアは、正に、「左翼-リベラル」を縦断する世界観の社会思想的表現なの、鴨。畢竟、ケインズに対して「知的傲慢」や「理性の濫用」という非難を常套していた、保守主義の代表的論者とされるハイエクの主張が、人間理性への不信にあるとすれば、正に、それが左翼的世界観と対立すること、他方、あるタイプのリベラリズムとは協調の余地もなくはないだろうことは、伝統と文化、および、国家権力の役割を巡る上記の観点から推測できるのではないでしょうか。閑話休題。
蓋し、「左翼-リベラル」と保守主義を巡るこのような概観が満更間違いではないとすれば、現下の「左翼」と「リベラリズム」の事物定義は次のようなものになると思います。
・「左翼」の事物定義
①人間理性と国家権力の万能感、および、社会改革理論の教条主義
②社会に内在する伝統的と文化的な多様性への無関心
③伝統的な「価値観=社会規範」を再生産する(保守政権の)国家権力の介入の忌避
④伝統的な「価値観=社会規範」を脱構築する(左翼政権の)国家権力の介入の容認
⑤形式的な価値を紐帯とする人為的な共同体やネットワークによる資本主義の消滅
⑥国家権力否定のための自己の国家権力の拡大強化
⑦伝統の帰属点であり伝統を紡ぎだす苗床としての国家社会への無関心
・「リベラリズム」の事物定義
①人間理性の万能感もしくは性善説、国家権力に対する性悪説、および、社会改革理論への無関心
②社会に内在する伝統的と文化的な多様性の推奨
③伝統的な「価値観=社会規範」を再生産する(保守政権の)国家権力の介入の忌避
④伝統的な「価値観=社会規範」を脱構築する(左翼政権の)国家権力の介入の忌避
⑤資本主義の活動結果の矛盾の国家権力による解消
⑥国家権力の容認、資源と所得分配の手段としての国家権力の拡大強化
⑦伝統の帰属点であり伝統を紡ぎだす苗床としての国家社会への無関心
而して、保守主義とは、(a)(人間理性と国家権力の万能感を否定し、よって、その人間理性が発見したと称する「普遍的な社会改革の理論」なるものへの不信を露にする)反教条主義的で(b)国家権力に多くを期待しない自己責任の原則を尊ぶ態度であり心性と言えるでしょう。ゆえに、保守主義は、(c)社会的紛争の解決においても可能な限り国家社会や国家権力の作るルールではなく、伝統と慣習に任せるべきだとする態度であり、よって、(次善の策として)国家社会や国家権力の作るルールには可能な限り伝統と慣習がインカーネートされるべきだとする心性とも言える。と、そう私は考えています。
(a)保守主義→反教条主義-漸進主義
(b)保守主義→国家権力からの脱依存-自己責任の原則の称賛
(c)保守主義→伝統と慣習の尊重
白黒はっきり言えば(冒頭に例示した、夫婦別姓法案の是非がその一つの典型事例なのですが)、保守主義は、①②③④「左翼-リベラル」とは異なり、それが自分たちの伝統であり文化であり慣習であると考えるものが、(地域コミュニティーではなく国家社会規模の社会においては次善の策として)国家権力の強制力を用いてでも社会において実現されるべきと考える強面の思想である反面で、彼等が当該の社会に自生する伝統と文化、ルールやマナーに敬意を表する限り、他の伝統と文化を呼吸する人々が彼等の伝統と文化を尊重することを容認、否、賞賛さえする寛容な社会思想でもある。畢竟、保守主義は、伝統や文化に価値を認めない左翼やそれらの価値を相対主義的に容認するにすぎないリベラル派とは鋭く対立することにならざるを得ないのだと思います。
ならば、⑦近代の「国民国家=民族国家」成立以降、<政治的神話としての民族>と<政治的神話としての国民>が自生的な伝統と文化が仕分けされ収納される枠組の単位として確立して以降、(ヘーゲルの謂う「絶対精神」などの観念の空中楼閣ではなく、伝統と文化の帰属点として社会学的に観察可能な機能を発揮している)国家社会に対して保守主義は積極的にその価値を認めることになる。他方、左翼は、(先のハーバマスの憲法愛国主義に顕著な如く)歴史的に特殊な内容をともなった自生的な伝統や文化が帰属する国家社会の価値を否認し、また、リベラル派もそのような国家社会単位の伝統と文化の(他の多様な諸価値や伝統と比べた場合の優越的な)価値を認めようとはしない。而して、保守主義とナショナリズムは戦友であり、それらと「左翼-リベラル」は不倶戴天の関係にあると言えるでしょう。尚、伝統と文化、そして、ナショナリズムを巡る私の基本的な理解については下記拙稿をご参照いただきたいと思います。
・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11146780998.html
保守主義は、健全な保守主義が根づくアメリカ社会に明らかな如く、⑤⑥(個々の企業ではなくマクロ的に観察された場合)本質的に無計画で無制限な資本の自己増殖運動としてのグローバル化の昂進から自分達の生活と生存、伝統と文化を守る国家権力の機能に期待する半面、(例えば、過剰な累進課税制度や過剰な社会福祉政策の如き)自己責任の原則に容喙する国家権力の私的領域への介入を忌避する。土台、社会思想史的に見れば(保守主義やナショナリズムの素材としての伝統や文化は、例えば、日本の場合、文字通り、その起原は神代にまで遡り得るにせよ)保守主義とナショナリズムは、資本主義的な生態学的社会構造(自然を媒介として人と人とが取り結ぶ社会的諸関係の総体)と、伝統と文化に価値を置く、すなわち、家族と地域コミュニティーに価値を置く人々が上手に折り合いをつけた人類の智恵と言うべきものかもしれません。而して、資本主義に取り敢えず代わり得る生態学的社会構造が成立しない限り、(あらゆる社会改革の理論に猜疑の眼差しを向ける)保守主義は資本主義との「平和的共存」を選択するしかないの、鴨。と、そう私は考えています。
以下、「保守主義」の事物定義と(<8・30>のマニフェストとその後に民主党政権が成立させた法案・予算案を見る限りでの)民主党政権の社会思想を理解するための試案を整理しておきたいと思います。
・「保守主義」の事物定義
①人間理性と国家権力へ不信感、および、社会改革理論の教条主義への嫌悪感
②社会のスタンダードな文化と伝統の推奨
③伝統的な「価値観=社会規範」を再生産する(保守政権の)国家権力の介入の推奨
④伝統的な「価値観=社会規範」を脱構築する(左翼政権の)国家権力の介入の拒否
⑤資本主義との「平和的共存」
⑥グローバル化の波濤から伝統と文化を守護する国家権力への一定程度の期待
⑦伝統を紡ぎだす苗床としての国家社会への称賛
・民主党政権の社会思想<試案>
①人間理性と国家権力の万能感、および、社会改革理論の教条主義(左翼)
②社会に内在する伝統的と文化的な多様性への無関心(左翼)
③伝統的な「価値観=社会規範」を再生産する(保守政権の)国家権力の介入の忌避(左翼-リベラル)
④伝統的な「価値観=社会規範」を脱構築する(左翼政権の)国家権力の介入の容認(左翼)
⑤資本主義の活動結果の矛盾の国家権力による解消(リベラル)
⑥国家権力の拡大強化(前代未聞!)
⑦伝統を紡ぎだす苗床としての国家社会への無関心(左翼)
蓋し、このように捉えるとき、民主党政権は「左翼」ですらない。それは、(将来的にせよ)国家権力の死滅を目指し、かつ、プロレタリア独裁の旗幟を鮮明にして、よって、経国済民の責任を自ら自身が担う覚悟がある左翼の矜持すらない、単なる無責任で「親方日の丸」的、かつ、その「日の丸=日本の国家権力」の基盤たる日本の国家社会の伝統と文化を軽視する、統合失調症的で権力志向の反日利益集団にすぎない、鴨。尚、支那の社会思想が、左翼とはかなり異質なものであることは最早論じるまでもないでしょう。而して、私は現下の支那の実定的な社会思想は、<帝国>としての中華主義とは似て非なる、漢民族のウルトラナショナリズムとしての「中華主義」であると考えていますが、このことに関しては上にURLを記した『「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠』をご参照ください。また、民主党政権と民主党政権の誕生をどう捉えるかについては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。
・民主党政権の誕生は<明治維新>か<建武新政>か
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/caa65d231ce5fc4dcfecc426f8c6810a
・政治主導の意味と限界
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/667c6ba4a092a16e5f746fec1ad1cdd7
・「事業仕分け」は善で「天下り」と「箱物」は悪か
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/44d9945d8782c40071e473ca1ef0cf81
・自民党<非勝利>の構図-保守主義とナショナリズムの交錯と乖離(上)(下)
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/ec147be5db8c975465e7bae78039a259
<続く>