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[再掲]まずは「加憲」でいいのではないですか――改憲派こそ「憲法」に期待しすぎるのやめませよう②

2018年12月31日 13時25分52秒 | 憲法問題

 

◆問題の所在、それは、憲法理解の貧困
加憲に批判的な保守派とリベラル派の議論は--「言語ゲーム」を俎上に載せた際にウィトゲンシュタインの語った--「家族的類似性」を濃厚に帯びる「シャム双生児」であり、それらは議論や理路の出発点を共有してはいないか。すなわち、両者は、「憲法=憲法典」と<憲法=ある国の実定法秩序体系>の双方に関して--次のような当然備えておくべき4個の「パラダイム:認識と常識」を看過する、よって、左右のベクトルの違いこそあれ--ある種の教条主義的の誤謬を暗黙裡に抱えているものではないだろうか。と、わたしはそう考えます。尚、「憲法」と<憲法>を巡るわたしの基本的な理解についてはとりあえず下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

(甲)憲法典と<憲法>は異なるという常識。よって、個々の憲法規範の内容は通時的にも共時的にも<開かれた構造>をなしており、それはある予定調和的に定まっている「正解」にむけて、漸次、線形的=単線的、要は、「その権利内容の変化の、その移行の速度は遅くとも、しかし、不可逆的に進むものなのです」などということはない--例えば、在日韓国人の指紋採取もまた南朝鮮・北朝鮮と我が国との国際関係の変化によつては復活することもありうるし、外国人の公務員としての採用や弁護士資格認定も必要と必然性があればまた否定されることもありうる--という認識
 
(乙)法は不可能な行動を誰にも強制しない/強制できない。而して、この経緯は
「憲法」においても<憲法>においてもパラレルであるという常識
 
(丙)実定法秩序の体系としての<憲法>に基づき当該の政治社会を統治する「国家=国家権力」は--ケルゼンの「法と国家の同一説」の流儀からは、そのような<憲法>こそが<国家>そのものなのでしょうけれども--、(ⅰa)国内の安寧秩序の確保、(ⅰb)国民と外国人たる市民の福祉の維持増進、(ⅰc)社会の--個別日本においては「天壌無窮、皇孫統べる豊芦原之瑞穂国」の日本国の<理念>と<物語>による--イデオロギー的の統合のみならず、
 
(ⅱ)特定アジア3国の如きいま敵対的な/オーストラリアやニュージーランドやカナダの如きいつか敵対的になりうる他国(=他国の国家権力およびそのメンバー)の脅威からも、また、(ⅲ)殺人的な熱波や2ヵ月続く長雨の如き異常気象、巨大地震・巨大津波・スーパー台風や巨大小惑星の落下といった天変地異、(ⅳb)国際的テロ組織の脅威、更には、その国際的テロ組織の反日策動--国連人権理事会やアムネスティ、あるいは、ISや国境なき記者団等々の国際的テロ組織の策動--をも含む(ⅳa)昂進著しいグローバル化の波頭からも--その能力の限りにおいてですよ、もちろん、だって「法は誰にも、よって、国家権力にも不可能を強制しない/強制できない」のですからね!--その国民と外国人たる市民、そして、文化と伝統の帰属点としての<国家=日本>を守護しなければならないという常識
 
(丁)<憲法>も、そして、その<憲法>の一要素である「憲法」も、国家権力の行動を制約する「制限規範」として所謂「立憲主義」の観点から理解できるのと同時に--否、その裏面として--国家権力の権力行使を正当化するものでもある。而して、--その当該の<憲法>と「憲法」がある「主権国家=国民国家」の実定法秩序であるとすれば--これら表裏の「立憲主義」からの理解とは別位相で、しかし、それらと常に同時に<憲法>と「憲法」は、固有の文化と伝統が憑依する歴史的に特殊な、そのある「国民国家=民族国家」の社会統合のイデオロギー的の基軸としても機能しているという認識。
 
逆に言えば、ハーバーマスの言う--人権なるものや民主主義なるもの、多様性の尊重なり相互の寛容さ等々が織りなすものとしての[憲法]に寄せられるものらしい--「憲法愛国主義」なるものや「個性が捨象された個人の尊厳の憑代としてのアトム的個人」なりがなしたらしい「社会契約」、加之、ローズが思弁した「形式的に普遍的な正義のシステム」なるものは、現実のある国の、例えば、日本やアメリカや英国の、台湾やタイやヴェトナムの<憲法>の核心になることはない。ゆえに、「個人の尊厳」なるものや「立憲デモクラシー=狭義の立憲主義」なるものが、現行の占領憲法においてさえその規範意味の中核に来ることなども金輪際ありえないというパラダイム
 
・所謂「憲法典」だけが<憲法>ではなく、憲法は<開かれた構造>をなしている
・憲法は不可能を強制しない
・憲法は外国や自然や宇宙からの脅威にも対処する
・憲法は立憲主義風の<物語>、国内外・自然・宇宙からの脅威に対処する<物語>、
 ならびに、「国民国家=民族国家」をイデオロギー的に統合する<物語>の三部構成
 
・保守主義-保守主義の憲法観
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11144611678.html
 
 
・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65231299.html
 

桃寧さん
 
蓋し、このように--分析哲学系現象学流新カント派アメリカプロセス法学一家の憲法基礎論から、このように「憲法」と<憲法>を--把握する場合。いまだに「自衛隊は違憲/違憲の疑いが拭えない」とか白昼夢を公共の電波や全国紙の紙面で炸裂させている戦後民主主義の憲法研究者の8割の論者と、占領憲法の破棄または改正を期しているはずの--安倍ビデオメッセージに苦言を呈される、おそらく、そう少なくはない--保守派の論者が残念ながらタイ製ソーセージじゃなかった「シャム双生児」の関係にあることは自ずとあきらかであろうと思います。
 
要は、自衛隊が違憲とか、専守防衛以外の武器使用は違憲--北朝鮮の核兵器叩きたかったら、竹島を奪還したいのなら、北朝鮮に1発弾道ミサイルを東京なり柏崎原発施設なりに打たせるしかない、隠岐の島か対馬でも更に占領させるしかない? そうでなけりゃ、まず憲法を改正してそれができるようにしなければ駄目なのですよ、これ立憲主義の基本でしょうが、ってか?--などということは占領憲法9条の解釈などというレベルではなく、法解釈の初手、あるいは、憲法の概念論の初手の段階でなりたたない。なぜならば、「法は不可能を要求できない」からであり、詳述はしませんけれど、「国家=実定法秩序」の地平において占領憲法9条の規範意味が「国家の主権と国家の生存を危うくしても、日本国=日本の国家権力は、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄している」などであるはずはないからです(このイシューに関しては下記拙稿をご参照ください)。

極論すれば、現行の占領憲法の9条が
この(↓)ようなものであったとしても、
 
【参考--思考実験別9'条のイメージ】
・第9条1項 ←変更しない 
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
・第9条2項’←ちょびっと修正(笑)
前項の目的を含めいかなる目的のためにも、陸海空軍・海兵隊、陸海の武装警察、機動隊その他の戦力および組織化された強制力は、これを一切保持しない。国の交戦権は、これを認めない。自衛権は国連憲章上のものを含めすべて日本は放棄するもんね~!
 
この新ゴジラじゃなかった新9条でもなかった別9条(another article 9)は、
現行の占領憲法とそう変わるものではないのです。どういうこと?
 
>やっぱコスパじゃなかった
>やっぱ、現行の9条からは自衛隊も集団的自衛権も違憲なのですね(悔涙)って?
 
ちがいます。別9条がどんなに派手に「平和」「非武装」を条規に織り込もうが、それは単なる「文学的な決意表明」にすぎない。つまり、「日本は武力行使なんかできるだけできるだけできるだけ、できれば、絶対に絶対に絶対にしないとどこまでもどこまでも限りなく真剣に思っているのですよ」という国際的プロパガンダなり情緒の表明にすぎないということ、法理論的には。
 
だから、もし、その別9条をものともせず--これは現行の占領憲法の9条でも、だから、加憲後の安倍9条でも実は同じなのですけれども--日本が北朝鮮や南朝鮮に対して自衛権の発動としての専制敵基地攻撃を行った場合、国内外から政治的に社会学的に批判されることはあっても--そこに重大な結果に結びつきうる危機が切迫しており、日本の攻撃がその危機に対処するものとしてそれほど法外に大規模かつ激烈というわけでもなかったという、国際法上の自衛権行使正当化要因を満たしている場合には--日本の先制攻撃は国際法上合法なだけでなく、国内法的にみても違憲ではないのです。
 
・集団的自衛権を巡る憲法論と憲法基礎論(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65232559.html
 
・国連憲章における安全保障制度の整理(上)(下)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/9a5d412e9b3d1021b91ede0978f0d241 
 
・安全保障関連法案を巡る論評雑感--憲法学者の違憲表明の法哲学
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-12056564512.html
 
 
なぜならば、要は、実定法秩序の体系である<憲法>には「自己:憲法=国家」の生存を難しくするような内容の自己制約ルールを含むことが論理的にできないからです。この点、長谷部恭男さん(東大→早稲田)の有名な「アイスクリームを食べる権利は誰にでもあるが、ある本人が健康のことを考えて自分で自分にアイスクリーム禁止を決めることは非合理ではない。ならば、プリコミットメントとして憲法が個別的自衛権の発動たる武力を用いる自衛措置に一定の自己制約を課すことも非合理ではない」というコメントを引き合いに出す論者もまだみかけます。が、しかし、問題は「国家と憲法の生存と存立が危ういとき」という値から先の定義域における値域(違憲 or 合憲)であって、その定義域にいたらない範囲にあるだろう「アイスクリーム」や「ビッグマック」などはここでの思考実験に登場する<定義域的=数値的>な資格がないのです。
 
ちなみに、集団的自衛権の政府解釈修正の際に、長谷部さんは自民党推薦の参考人として国会で「集団的自衛権の行使は違憲」と述べて話題になりましたね。
 
でもね、長谷部さんは、間違いなく日本の憲法学の現在の第一人者です。
そして、彼は、昔から、少なくともこの30年間くらいは、
 
・自衛隊は合憲
・個別的自衛権の発動たる自衛戦争は合憲
・集団的自衛権の行使は違憲
 
の立場の人でした。だから、しったかぶりのあの船田が「長谷部さんは自衛隊合憲論者」だし、「特定秘密保護法」にも賛成してくれていたのだから、集団的自衛権も容認してくれるだろうとあさはかに考えた。この点は、逆に、長谷部さんには気の毒(笑)だったと思います。だって、圧倒的多数のリベラル派の浮き世離れしている憲法研究者はいまだに、平成ももうあと数年という2017年の現在でも
 
>自衛隊違憲論
 
だから。だから、長谷部さんが逆に浮き上がったから(笑)
 
で、いま、その浮世離れの集団はいよいよ--自衛隊違憲論では世論が相手にしてくれないと流石に悟り(←遅くない~?)--最後の抵抗の種を長谷部説に期待している。これ浮世離れだけでなく姑息だと私は彼等を思います。ちなみに、長谷部さんの「自衛隊合憲論」の理由は、不可能を誰にも要求できない/個人の私的かつ個人的な世界観を縛れない立憲主義の憲法は、「右の頬を打たれたら左の頬も相手に差し出しましょう、なにごとも話し合いで解決しましょう」というような世界観をすべての国民に求めることでしか成り立たない「非武装中立-自衛戦争も禁止-自衛隊も禁止」などの特殊な世界観をその規範意味内容とすることはできないという、本稿の理路と途中までは共通の穏当なものです。
 
 
最後に復習というか敷衍。前節でリベラル派がいい募る安倍メッセージへの他の幾つかの批判についてふれました。そう、例えば、行政の長である内閣総理大臣が「加憲」にせよ憲法改正について述べるのは
 
(イ)→「三権分立」の原則に反する
(ロ)→「憲法擁護義務」に違反する
(ハ)←自民党の党内議論の蓄積を軽視する「安倍一強」の驕りのあらわれだ
 
このような批判も--というか、言うた者の勝ちやででもあるまいに--、このような批判を公共の電波や全国紙の紙面で述べても恥ずかしいと感じないリベラル派の憲法理解、就中、憲法の概念に関する無知にわたしは吃驚します。他人事ながら心配になります。
 
順序倒置になりますが、(ハ)は1自民党員としては自民党内でも遅々として進まない改憲論議を総裁が喝を入れてくださったのは党内民主主義の精華でこそあれ、非自民党のリベラル派に文句言われる筋合いはないと思います。(イ)モンテスキューの最初から「三権分立」というのは三権のプレーヤーの完全な遮断を意味したことなど一度もありません。また、(ロ)「憲法擁護義務」を具体的にはどのような作為と不作為をプレーヤーに求めるのかについては諸説ありますが、安倍総理のメッセージが国会の発議権限を毫も侵害したものではない以上、これこそ論外でしょう。
 
蓋し、リベラル派は--集団的自衛権の政府解釈変更の場合がその典型でしたけれど--「自分たちの考える憲法規範の内容」と違う解釈を政府が採用すると、解釈の齟齬ではなく「立憲主義に反する」とか宣言されるようにも思います。すごいね、憲法の解釈権は朝日新聞と岩波書店にあるんだ(笑) あのー、統治行為イシューに関しては、原則、内閣と国会が有権解釈者であり、その内閣や国会が時代の流れを睨んで--国家の生存と国民の福祉を慮って--適切に過去の自己の解釈を変更することは立憲主義にもそうそう反する、非立憲でさえないケースも十分にありうると思いますけれどもね。特に、安全保障や外国人入国管理の領域では。

 

繰り返しますけれど、「憲法」も<憲法>も閉じた体系ではないですから。もっとも、現在のアメリカではリベラル派の内部でも悪名高い、あのウォーレンコートがやらかしたような「なんでもありの憲法解釈=憲法解釈という名の司法による政治判断」などは論外でしょうけれども。

 

【参考--現行の占領憲法の最高法規条項】
・第99条  
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

 
 
 
詳しくは、別記事にまとめるかもしれませんけれど、要は、リベラル派の法的思考というのは、言葉の正確な意味での「概念法学」--資本主義的な所有権不可侵・過失責任主義・契約自由の原則が「自然法」なるものの内容として確立した19世紀半ばくらいの、「自然法付き法解釈の精密機械」がもてはやされた盛期の概念法学←ちなみに「概念法学」という4文字熟語は、自由法論とか歴史法学右派とかのそれのアンチ側が、法学万能論の微睡にひたっていた当時の法的思考の主流を揶揄侮蔑しディスったネガティブな用語ですよ--なのだと思います。
 
実際、現在、「基本的人権」という5文字熟語は、リベラル派の憲法論議のなかでもあまり使われなくなっているでしょう。お気づきでしたか? そう、その5文字、--アメリカの著名な法哲学者ドウォーキンや、日本では(東京大学→早稲田大学)長谷部恭男さんの影響なのでしょうか、「切り札としての人権」なるものを仮想するにせよ、要は、--単なる「権利」や「憲法的権利」なんちゃらに変わってきている。
 
・ローマ法王曰く、表現の自由は「基本的人権」ではない
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/d28de2d620289f56808b591572c1f87f
 
・国際社会と日本との間で<人権>を巡る認識の落差が拡大しているらしい
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11916348036.html 
 
 
蓋し、「基本的人権・国民主権・平和主義」なるものがかならずしも現行の占領憲法の<根本規範>や<三大原理=基本理念>ではないということ。だから、リベラル派は、共約不可能な価値内容には踏み込まない、而して、そのような私的な世界観を私的領域に--敬して遠ざけて--隔離するタイプの統治の原理として「狭義の立憲主義=立憲デモクラシ-」を、占領憲法を含む(笑)OECD加盟国とかの先進民主主義国の共通の憲法の基本原理だとか盛んに論じているということ。
 
内容のある普遍的価値の後退なり撤退。それが、米国の憲法訴訟理論の浸透(就中、J.H.イリー『Democracy and Distrust』(Harvard University Press・1981)のプロセス法学の洗礼を受けて以後の--プロセス法学に賛成するにせよ反対するにせよ--アメリカ憲法学-憲法訴訟理論-憲法解釈学方法論の理解の浸透)。および、いわゆる憲法訴訟におけるドイツ流の「三段階論」の流通(同理論にご興味のある方は、日本語であれば、例えば、駒村圭吾『憲法訴訟の現代的転回』(日本評論社・2013)の第4-5講を立ち読み(笑)してください。リベラル派-敵側の書籍ながら「サバサバ」した良書です)とともに、もはや、リベラル側でも現在の共通認識になっているということなのです。
 
尚、現在の「アメリカ憲法とその憲法訴訟」に関しては松井茂記『アメリカ憲法入門』(有斐閣・2012)と樋口範雄『アメリカ憲法』(弘文堂・2011)の併読をおすすめします。両書とも良書です。ただ、その併読の後は、可及的速やかに英語でアメリカの判例集・ケースブックにとりくみましょうね。また、阿川尚之さんの『憲法で読むアメリカ史』(PHP新書・2004)と『憲法改正とは何かーアメリカ改憲史から考える』(新潮選書・2016)『憲法で読むアメリカ現代史』(NTT 出版・2017)】もおすすめ、鴨。 
 
・書評予告・阿川尚之「憲法改正とは何かーアメリカ改憲史から考える」
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/7eddb6f57b93ed69fbecdd5f75d06f2a
 
・宗教と憲法--アメリカ大統領選の背景とアメリカ建国の風景
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/3a1242727550e8e31a9133aa154f11bf
 
 
ちなみに、この「三段階論」を、「憲法的権利の絶対性」というポイントに引き付けて(それ、原始仏教と異質な「東アジアの家族道徳やエートス」と整合的な観音系や浄土系の教派が支那ででき、日本で花開いたのにあい似たり?)、天賦人権論と結び付けようとする驚愕すべき論者も(←@@!!)日本にはまだいるにはいるにせよ--そんなあんたたち、ドイツ語原文で判決文・勧告的意見読んだことあんのかいな!--、それは、どう見ても筋悪です。 

換言すれば、--自衛隊は違憲だとか内閣総理大臣が改憲のアイデアを披露するのは憲法擁護義務違反だとか述べている、憲法や法哲学の専門家ではないインテリさん風の如き--彼等リベラル派は、法の支配なり普遍的な人権なり、民主主義、すなわち、寛容や多様性の価値の普遍性とかヒューマンな口ぶりは爽やかで穏やかだけれど、彼等はそれらを(α)「いつでもどこでも誰にでも認められるべき」、かつ、(β)「詰めあがりまでの移行プロセスに時間差は流石に容認するとしても--同性愛者の権利の容認とか外国人の地方自治体における参政権容認、または、死刑廃止や少年犯罪の非犯罪化、社会のあらゆる場面での男女平等の具現、社会における格差の極小化-ゆくゆくは国境を越えて格差の極小化、さらには、ナショナリズムの忌避等々の--ある特定の内容をもった」法規範が存在するという、概念法学と概念実在論の人々なのだと思います。
 
・定義の定義-戦後民主主義と国粋馬鹿右翼を葬る保守主義の定義論-
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0fb85611be79e7a89d274a907c2c51ac

 

だから、彼等は、--国連人権理事会の特別報告者なりのレポートなりに炸裂しているように--彼等の考えるそのような<リベラルで普遍的な憲法規範>から逆算して、現実の、国により時代により、また、その変化も線形の一方方向ではない法規範とその運用をを批判する節がある。正直、歴史の発展法則なるものが、カール・ポパー『歴史主義の貧困』によって完全に否定されて半世紀以上経過した21世紀の現在、彼等がなんの論証もすることなく、保守派に対して「復古調」とか「戦前回帰」とか「時代錯誤」とかのレッテルを貼ればもう批判が完了したと思っているような気配を感じるたびに、そのあまりの無知というか憲法理解の貧困にぞっとします。

 
畢竟、J. ミルトンが喝破した如く、
 
>New Presbyter is but old Priest writ large.
>新しく立ち現れた長老は、大書された、昔の司祭にすぎない。
 
蓋し、
 
>リベラル派の言う「普遍的な人権なり寛容や多様性の価値の普遍性、
>あるいは、立憲主義」なるものは
>キラキラネーム風に彩られた、しかし、
>昔の左翼教条主義的のジャーゴンとタームの言い換えにすぎないの
 
の、鴨。わたしはそう考えないではないです。
 
・立憲主義を守る<安全弁>としての統治行為論
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/d2b014fb5dcdcb6d9260f7aa8eec3c5f
 

・保守派のための「立憲主義」の要点整理 

 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/9256b19f9df210f5dee56355ad43f5c3
 
・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、
 あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0c66f5166d705ebd3348bc5a3b9d3a79
 
・憲法96条--改正条項--の改正は立憲主義に反する「法学的意味の革命」か(1)~(6)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/7579ec5cfcad9667b7e71913d2b726e5
 
・憲法における「法の支配」の意味と意義
 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/5a21de3042809cad3e647884fc415ebe
 
そして、
 
・<改訂版>自薦記事一覧:保守主義の憲法論と社会思想
 -憲法学の再構築と占領憲法の破棄・改正を求めて
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/5f7bef87927eae129943ca8b5bb16a26

 

柏木由紀さん!

 


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