英語と書評 de 海馬之玄関

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企業内英語研修の<窓>から覗く国際化の波高し

2006年02月05日 18時50分14秒 | 英語教育の話題



英語の<社会的な効用>が変わってきている。特にここ数年そう感じます。「建前が本音というか現実になってきたね」という感じでしょうか。

企業内の英語研修は、ある意味、人事研修の定番であり今までも多様なスタイルの研修が、逆に言えば、どこが研修を担当しようともあまり代わり映えしない研修が行われてきました。狭い範囲の多様性? 退屈な定番商品の品揃え? 自虐的かもしれませんがそう思わないではない。

しかし、不思議なことに英語研修がその企業の比較優位性や競争力向上にどのように貢献するのかということについて、実は、今まではあまり追及されてこなかったと思うのです。顧客のせいにするわけじゃないけれど、「退屈な定番商品の品揃」は、率直に言って企業側に新しい商品ニーズがなかったからでもある、と。企業研修の舞台裏で20年近く世過ぎ身過ぎしてきた私にはそう見えるのです。

企業人事研修担当者は馬鹿じゃないです。「馬鹿」などとは失礼な!! 彼等の大部分は駆け出しの英語教育屋や文字通り10年一日のごとく研修を流している研修師よりも英語研修を取り巻く状況をよく研究しておられる。実際、社会人スタート時のポテンシャルの差は不問にするとしても、語学研修にしても中国語や韓国語の研修、労働法規や著作権の研修、更には、PC研修からISOの研修までも掛け持ちで担当する方も少なくない人事研修担当者が、英語研修と人事戦略の関連について井の中の蛙の英語研修屋よりもーーしかも、そのほとんどが所謂「英会話」とビジネスレターライティングの研修に限られている英語研修屋よりもーー広く深いパースペクティブを獲得される蓋然性が高いのは当然でしょう。

率直に言えば、英語研修の発注側と受注側の双方にとって、「英会話レッスンは効果が乏しい」とか「TOEICで450点未満の社員にTOEICの模擬試験&解説タイプのテストゼミ形式のレッスンに参加させてもほとんど効果がない」というのはむしろ常識と言ってもいい。他方、この常識と裏腹にこれらの無駄な研修(?)が企業研修の定番メニューであり続けてきたのも現実です。日本語の「サラリーマン」的にこの経緯を図式化すると次のようになると思います。

どうせ成果がでない→ならば、(受注発注側双方ともに)前任者と違う研修を企画提案するリスクは負いたくない→退屈な定番商品の品揃→成果が出ない→しかし、幾らなんでも「英語研修をやめる」=「我が社は英語なんか重視しない企業です」というメッセージを世間(顧客・労働力市場・投資家・社員やその家族・取引先・コンペティター)に発信することはできない→前年度と代わり映えしない予算と曖昧な研修目的および到達目標が担当取締役からおろされる→最初に戻る♪


けれども、この現実はここ数年で確実に変わってきている。そう思います。


◆日本人はなぜ英語が苦手なのか?
私のサイトやBLOGのタイトル「海馬之玄関」の名前の由来は、人間の脳内で記憶を司る部位、「海馬」です。そして、脳生理学者で海馬の専門家、東京大学の池谷裕二さんの著書を数年前に読んで以来、「日本人はなぜ英語が苦手なのか」が話題になると私はいつも海馬の話をすることにしています。以下引用開始。

脳のハードディスクの容量はそれほど大きくはありません。コンピューターのようにメモリーを増設できればよいのですが、脳ではそんなわけにはいきません。限られたメモリーをうまく活用するために、脳は「必要な情報」と「必要でない情報」の仕分けをします。では、その仕分け作業、つまり、必要・不必要を判定する「関所役人」とはいったい誰でしょうか。それは脳の「海馬」という場所です。

どんな情報が海馬の審査に通りやすいのでしょうか。通行許可の判定基準はなんと「生きていくために不可欠かどうか」なのです。英単語が覚えられなくて切羽詰っている自分にとっては何よりも必要な情報なのに、海馬はそんな私たちにとても残酷です。「英単語のひとつやふたつ覚えなくても命に別状はない」といって通してくれません。(『最新脳科学が教える 高校生の勉強法』(東進ブックス・2002年4月)p.26)


実は、私は「日本人は英語が苦手」とは必ずしも言えないと思っているのですが、この文書を読んで「日本のビジネスマンは英語が苦手だ」とか、「企業内英会話研修の効果はほとんどない」としばしば世間で語られることの原因がはっきりしたように感じました。

日本では本当の所、英語ができなくとも生きていけるのだ;少なくとも、大部分のビジネスマンにとって今までは英語ができなくともビジネスに決定的な支障が生じることはなかったのだ、と。


ならば、海馬が英語の知識を脳のハードディスクに蓄えるほどに「必要な情報」と判断するはずがないではないですか。しかし、21世紀初頭の日本人の大部分にとっても、英語の知識や英語を運用するスキルは生きていくためにあまり重要な情報ではないのでしょうか。更には、その解答がもしそれが「肯」だとしても、その麗しい状況が向こう10年や15年先も変化しないのでしょうか。皮肉ではなく、大変残念ながら私にはそうは見えません。


◆国際的競争の波は日本人の足元に迫っている
現在、ほとんどの日本企業は国際的な競争にさらされています。否、国際的な競争自体は日本の企業は明治時代から経験済みでしょう。ならば、現在進行中の変化の特徴は、国際的な競争に拮抗するために企業組織の組織原則から組織のメンバーの構成にいたるまでの変化を企業が強いられていることにあると思います。

繰り返しますが、明治の御世の変化も日本の組織や地域コミュニティーにとっては組織論的な変容をともなっていました。それに対比すれば、現下の変化の特徴はその原因が経済のグローバル化にある点、そして、日本人の多数が不特定多数の外国人とフェース・ツー・フェースの状態で協働したり競争しなければならなくなった国際化の現実相の違いにあると言うべきでしょう。

実際、私が知りうるごく限られた範囲でも、例えば、英語研修実施前の「仕事での英語の使用頻度調査」の結果を見れば、メールを含め月に1回以上外国人と仕事でコミュニケートしなければならない日本人の割合は10年前・5年前・3年前に比べて加速度的に増えていると断言できます。統計資料的な価値は皆無ですが、ある大手製造業3社の製造現場付きエンジニア職で比較しても5%→33%→60%と推移していますから。

これまで書いてきたことは、最早、国民の共通認識だと思います。それは、構造改革の必要性が叫ばれた1980年代以降、大前健一さんや堺屋太一さんなど多くの方が繰り返し主張してこられたことであり、私のような経済学の素人がいまさら言うまでもないことでしょう。

要は、大相撲が外国人のプレーヤーに門戸を開放しなければその名声を保てない状況とパラレルで;組織が変わらなければ組織自体が生き残れないということ。10年前のように、市場と工場だけではなく、プレーヤーの調達もファンドの調達も世界に門戸を開けなければ企業活動は成り立たなくなっているということでしょう。


◆日本企業にとっての英語の効用
21世紀初頭の日本企業にとって英語はどのような経営戦略的な意味を持つのでしょうか。このポイントに関して私は次の二つの軸から考えています。すなわち、

(1)人的資源管理と組織論における組織内の効用
(2)比較優位性を具現する情報戦略という対外的な効用


組織内のコミュニケーションコストの削減ならびに人事戦略の透明化および臨機応変さの具現が第一点。そして、国境を越える競争においてコンペティターとの勝敗を決する要因の一つは情報調達の優位性と情報調達コストの削減であることは間違いないでしょうから、その情報調達のパフォーマンスの向上が第2点です。実際、これらの両面から私は英語研修のパフォーマンスを考えています。

グローバルに展開する企業はその拠点も販路も顧客も競争相手も、ということは当然、顧客や競争相手に関する情報もワールドワイドに広がっています。そのようなグローバルに分散分布する経営的に意味のある情報をコンペティターよりも早く正確に低コストで入手できるかどうか;次に、その情報を組織全体ですばやく共有化できるかどうかが国際的競争における企業の優位性を決定するといってよいと思います。

ならば、実質的な世界共通語としての英語を組織内共通語(あるいは公用語)とするメリットは、この組織内のコミュニケーションのパフォーマンスの向上にあることは間違いないでしょう。他方、再度書きますが、コンペティターとの競争の勝敗を決するクルーシャルな情報を、いかに(虚偽や陳腐な情報をエリミネートしつつ)素早く入手するかは経営のパフォーマンス自体を左右する重要な課題でしょうし;而して、この課題の達成において英語という<情報の乗り物>が他の言語に優っていることもまた間違いと思います(★)。

★註:英語とエスペラント
自ら国際語を標榜する言葉に「エスペラント語」があります。話者人口は最大値で200万人、推定でも100万人の言語ですが、本来、理想的な「国際語」を目指して人工的に作られた言葉ですからエスペラントには熱烈なサポーターがおられます。しかし、そのサポーターのお一人の次のような主張を読むと、私は経済・経営や政治を語るための「国際語」としてエスペラントを考慮する余地は皆無と思います。以下、この方のエスペラントを巡る欠点-反論形式の記事です(言語の経済的価値ならびに政治と言語に対する私の基本的考えについては下記URLの拙稿参照)。


・イデオロギーとしての英語とイデオロギーを解体するものとしての英語


●使用人口と実用性
(欠点)
エスペラントの使用人口は約100万人といわれる。使用人口が少ないので、実用性が低い。一方、英語は約10億人の使用人口がある。話者の数、書籍などの活用資源も多くあり、実用性が1000倍あるといえる。学習するために、エスペラントの10倍かかったとしても、英語を学ぶ価値の方が高い。

(反論)
実用性という点では、エスペラントを学ぶ価値は、今のところ少ないといえる。しかし、エスペラントの価値は実用性だけにあるわけではない。エスペラントが作られた根本的な理由は、言語による差別をなくすことであった。現在、英語が世界に広まっているのは、英語が国際共通語としてふさわしいという理由からではない。英国による植民地支配によって、強制的に英語を話すことを押し付けられた人々が多くいた。現在はアメリカの経済的な強さのため、英語を学びたい人を増やしている。人が英語を学ぶのはお金儲けに役立つからである。



◆英語の効用を企業が享受するための苦闘の歴史
企業はどうすれば英語を組織内の公用語にできるでしょうか。労組の反対とかのマイナーなファクターを除外して考えれば、組織内公用語を英語にする手順は実は簡単です。それは、英語ができるメンバーだけで組織を構成することです。

しかも、これについて、個々のメンバーが本当に英語ができるかどうかはそれほど重要ではありません。何を言いたいのか? それは、実際に英語を使って担当業務をこなせるかどうかという事実に着目するのではなくて、「英語でビジネスができる/仕事を英語でできる」という条件で雇用されていることが労使双方の間の前提になれば、組織内の公用語を英語にすることはなんら難しいことではないということです??? 取りあえず、ポイントは次の3点。この3点が満たせれば、<英語による人事制度>が一応運用可能になるということです。

・TOEIC等の英語力の客観的で明確な証明
・業務分野分掌決定前の英語力証明の提出
・英語力情報の組織内での共有化(=透明化)


要は、「何をもって英語ができるとするか」の物指を明確にし、その基準を通過したメンバーだけで組織を構成すれば、たちどころに(!)その企業は「英語を公用語とする国際的でハイカラな企業」になれるということ。具体的には、次のような100字足らずの通達1本出せば、即座に、その企業は国際的企業に変身できることになります(?)。

社員は全員TOEIC600点を来年の11月本試験までには取得すること、また、今後、新卒・第二新卒を含め新規採用の社員はTOEIC730点以上のスコアを呈示した応募者の中からのみ採用するものとする。

「国際的な企業なるもの」がどんなもので、また、「国際化することが企業にとって良いことなのか」どうかは置いておくとして、100字で企業を国際化できるならそれをやらない企業はないと思いませんか。ところが問題はそう簡単ではありませんでした。その問題として指摘したいポイントは次の二つです。

・TOEIC等の基準点をクリアできない、しかし、<優秀>な社員の存在
・担当業務を英語で遂行できるコミュニケーション能力はTOEICなどの客観テストで、事前に測定することが困難


武士の情けでどことどこだとは固有名詞は出しませんが(何度か新聞で取り上げられたので隠す必要もないのでしょうが)、華々しく、TOEICスコアによる採用・昇進・職種変更の人事制度を導入した企業の少なからずは、そのルールを厳格に適用することが困難な状況に陥りました。

簡単な話しです。社員集団の両端:スコアも高く業績も上げている社員、ならびに、スコアも低く業績劣悪な社員に対する取り扱いについてもともと企業は悩みなどしません。ならば、社員の英語力向上、ならびに、社員の英語力の情報の明確化と透明化によって企業が達成しようとした国際化推進の目的の達成は、これら両者の中間を占める(おうおうにして)大多数を占める社員の動向にかかってくる。

企業にとって付加価値を生み出してくれる「宝」である社員;そして、企業の文化を支えてくれる忠誠心の高い社員が、必ずしも、英語テストの基準点をクリアしてくれるわけではなかった。よって、<英語による人事>を厳格に適用して彼等のモティベーションを下げたり、あるいは、彼等が退社するリスクを鑑みれば背に腹は変えられず、ルールの厳格適用を断念せざるをえない企業が続出したということです。

よって、これまた少なくない企業においては、TOEIC等の取りあえずの機能は、これまた皮肉ではなくて、人事評価全体において低い判定を受ける社員に対する言い訳防止機能;つまり、「貴殿は英語の基準スコアを満たしておられないので昇進予定者のリストに掲載するわけにはまいりません」→「英語の基準点クリアが昇進の条件になること、英語による人事を行うということは事前に説明していますよね」→「そして、英語力向上のために会社は(成果の上がらない研修だけれど!)少なくない予算を投じ6ヶ月毎週2回のTOEIC対策講座に出席するチャンスも与えましたよね」・・・というような、問題社員のexcuse封じの機能しかなかった。そんな時期が数年前まで続いていたと思います。

尚、現在の日本を取り巻く国際化の進行が与える、日本社会と日本の人的資源開発への影響については下記の拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・ライブドア事件が象徴するもの☆企業内研修制度の揺らぎと格差社会
 


◆英語の効用を企業が享受するための現下の課題
英語による人事の厳格な徹底:社内文書の英文化比率の50%到達:海外拠点&海外子会社と日本国内の事業所間の人事異動の透明化(=「オークション化」「ポスティング化」)の推進、等々の流れの定着の中で、英語による人事導入の挫折という前節で述べた状況は、この10年・5年・3年で少しづつ変化していると思います。

それは、日本人の英語力がこの10年・5年・3年でに向上したからでしょうか? 断言はできませんが(ゆとり教育の傷跡がまだ生々しい現在、日本人総体の英語力が向上したとは言えないと私は思っていますが)、おそらくそんなハッピーな理由ではなく、英語ができなければ業績を上げることが困難な職場が増えてきたからだと私は単純に考えています。そう、海馬の逆襲、です。

つまり、社員の多くが「TOEIC等の英語基準をクリアした証明」を取得できる程度の英語力がなければ、ご自分の業務が滞るような状況に日本企業の少なからずが移行したかもしれないということです。原因はともかく、人事研修担当者を悩ませてきた「仕事はできるがスコアのでない社員」は数年前と比べ漸次減少したことは間違いない。そうでないならば、北風と太陽の喩えでもないですが、<英語による人事の厳格適用>などできるはずはないからです。正に、海馬の逆襲! 

英語力を基準にした人事制度の導入:もう一度書きますが、それはTOEIC等のスコアという客観的で明確な物指を用いた:業務分掌の前の英語力把握と情報の透明化(=共有化):ならびに、そのスコアを資料とした人的資源の臨機応変な配置管理の導入は、多くの企業では2006年の現在、一応、到達目標に近づきつつあるのだと思います。蓋し、国際化に向けて日本社会の視界は良好、天気晴朗♪

ならば、現状をどう変えるかということに関してビジュアルなイメージを提供することを「思想」という言葉の意味と捉えれば、最早、日本企業の国際化推進に関してはTOEICの思想的役割は終ったと言うべきでしょう。ご苦労さまTOEIC! 蓋し、今年、2006年の5月実施の公開テストからTOEICが、より実践的なコミュニケーション能力を測定する新ヴァージョンに移行するのも(若干我田引水的ですが)日本の企業社会におけるTOEICの役割の変化を象徴しているのかもしれません。天気晴朗なれど国際化の波は益々高し、でしょうか。

天気晴朗ナレド国際化の波高シの現在。日本企業の国際化推進のための英語教育を巡る課題は、「TOEIC等のスコアは低くても業績を上げている社員」から「TOEIC等のスコアは低くても英語を使って業績を上げている社員」であり、逆に、「TOEIC等のスコアは高いのに(MBAは持っているのに)英語を使って業績を上げられない社員」に移行していると思います。

ならば、今後ともTOEIC等の客観的な数値は使われるとしても、企業内英語研修を巡る現下の思想的な課題は、「何をもって英語ができる」「英語でビジネスが遂行できる」と判定するかという基準や物指の再構築だと思います。而して、このテーマを考える鍵は、同じく「英語で業務を遂行できる」と言ってもそこには目も眩まんばかりの多様性があるということではないでしょうか。

例えば、私は、常々、<金を借りるために必要な英語力>と<金を貸すために必要な英語力>は本質的に異なると、顧客企業の人事担当者に言ってきました。会社乗っ取りに至るような行き過ぎを警戒しつつ世界中の投資家から資金を調達するために必要な英語力と、有利な投資先を選択決定するために必要な英語力には天と地ほどの差がある。こんな抽象的な話をするまでもないですよね。

要は、工場現場で英文マニュアルを読むために必要な英語力と、他方、英語圏でのコンペで競争相手に伍して自社のソリューションの優位性を<聴衆=潜在的顧客>に納得させる、そんなプレゼンテーションを敢行するための英語力は異なる。知的財産権や製造物責任を扱う英文契約をタフなネゴシエーションを経て締結するために要求される英語を使った交渉力と、片や、イントラネットを通して所定のフォーマットに日次の業務報告をフィルインするのに必要な英語力は全然異なる。

これらの差異は高さ低さだけの違いではない。それは最低でも、読む・聞く・話す・書くの4技能、更には、文法力・語彙力・英語圏の文化への理解等々の多元的な差異の総和だと思います。否、その差異は「英語力」の違いだけに収まってくれる保証はまったくない。実際、<英語→日本語の翻訳>に必要な能力は、英語力:日本語力:当該の専門分野の知識と三つに分けた場合、「どう英語に贔屓目につけても(2:3:5)くらいだろう」とはプロの翻訳者の方からしばしば聞く話ですから。

いずれにせよ、これらの英語力の差異をTOEICやGRE、GMATやTOEFLのスコアの差に還元することはあまり意味はないでしょう。ならば、日本企業の求める英語力の次世代の物指は(あくまで、それを業務分掌の割り当て前に求める場合には)、単なる英語力ではなく、むしろ、<英語で表現されたビジネスマンとしての総合力>の指標になるのではないか。それは、最早、英語教育プロパーの守備範囲を遥かに超えるものだと思います。

ならば、日本人は国際化の波に拮抗するためには、英語にとどまらない自己開発が要求されていることになる。それは実にchallenging& interestingな事態ではないか。私はそう考えています。蓋し、そこでは、企業内英語研修は独立自存社員の総合研修というべきものの一分野に変わるのでしょう。畢竟、日本企業と日本人の前途は、天気晴朗ナレド国際化ノ波高シ!







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