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<再論>保守主義の再定義(下)・・・占領憲法の改正/破棄の思想的前哨として

2017年05月20日 13時16分13秒 | 日々感じたこととか

 

◆国家と保守主義
保守主義は国家権力の積極的行使には疑義を呈する社会思想です。この一点では、保守主義は資本主義、就中、自由放任の旗幟を鮮明にした新自由主義と極めて良好な関係にあると言える。他方、保守主義は、地域の文化と生態学的社会構造を解体し伝統と歴史を相対化・無力化する資本主義の傾向(その制御が難しいという意味で盲目的で、かつ、時間的にも地域的にも無限の資本の自己増殖性)とは鋭く対立し、国家による資本主義の制御を正当化する社会思想でもある。蓋し、保守主義と国家は資本主義という与件を仲立ちにして重層的な矛盾の関係にあると言えると思います。
 
 
・英文読解 one パラ道場:英語教材として読む安倍談話
 -余滴-「法と国家」の語源譚的随想(上)~(下)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/b3932ae40ff9b6555e2bb21f7f7286c8
 
・民主主義--「民主主義」の顕教的意味/密教的意味
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/a11036903f28f118f30c24f1b1e9f2bf
 
 
畢竟、元来、「デモクラシー」が、所謂「直接民主制」を理念型とする、小規模の社会集団を想定した社会思想であったのとパラレルに、おそらく、保守主義は伝統と歴史、文化と生態学的社会構造を共有する比較的小規模な地域コミュニティーを苗床として成立したのだと思います。要は、保守主義は国家や民族とは必ずしも論理必然に結びつくものではなかった、と。
 
>けれども、失楽園
 
繰り返しになりますが、「18世紀-19世紀」の近代主権国家の成立以降、すなわち、「民族」なるものが(よって、「ナショナリズム」が)地球上に初めてその姿を現して以降、就中、資本主義が社会主義を崩壊させ、(アメリカを唯一の超大国に押し上げた同じ資本主義が)その唯一の超大国であったアメリカにさえ「大政奉還」を迫りつつあるグローバル化の昂進著しい現在、保守主義は地域コミュニティーの社会統合を専ら担う社会思想ではなくなった。
 
蓋し、保守主義はその具体的の意味内容の供給を、元来、保守主義と親和的ではない「国家=民族」からも受けざるを得なくなったのであり、逆に、保守主義は近代主権国家の社会統合を担う「政治的神話=イデオロギー」としてのナショナリズムをも包含するに至ったの、鴨。それはあたかも、20数億年前の太古の海で、元来、別の生命体であった原ミトコンドリアと原核生物が合体して真核生物が生まれたようなもの、鴨。
 
と、そう私は考えています。整理すれば以下の通り、

◎保守主義の弁証法的変遷と国家との重層的関係の成立
(1)地域コミュニティーの社会思想としての保守主義
    ↓
(2)資本主義の成立
    ⇔資本主義の自由放任性と親和的な保守主義
    ↓
(3)近代主権国家・民族国家の成立
    ⇔国家の権力行使と国家の正当性と疎遠な保守主義
    ↓
(4)主権国家の社会思想としての保守主義
    ↓
(5)グローバル化の時代の保守主義(A+B)

  
▼グローバル化の時代の保守主義-保守主義A
 ・国家に期待せず国家の介入を忌避する社会思想
 ・ヘーゲル的な絶対精神としての国家観念を忌避する社会思想
  
▼グローバル化の時代の保守主義-保守主義B
 ・国家による資本主義の積極的な制御を正当化する社会思想
 ・ナショナリズムを包摂するともすれば排他的な社会思想
 
 
 
 
 
言うまでもなく、「国家」も「民族」もフィクションでありイデオロギーであり、<政治的神話>にすぎません。けれども、ケルゼンが見事に定式化したように(例えば「ソフトバンクホークス」などこの世に物理的に存在しないにもかかわらず、内川や柳田のスリーランホームランが出れば「ホークス」に3点が「記録される=帰属する」ことでも分かるように)それは権利と義務、意味と価値が帰属する(法システムの世界で生成された)「帰属点」でもあるのです。
 
而して、ゲルナーが喝破した如く、「国家」や「民族」、そして、「ナショナリズム」の意義はそれが単なるイデオロギーにすぎないことでは毫も否定されることはない。それは、実際に、(a)国内的には社会統合と社会統制の機能を果たしており、(b)対外的には諸国民の生存と活動を保障し、更に、(c)グローバル化の昂進著しい現在では、それは資本主義から諸個人の生存と生活を守り、加えて、資本主義がもたらす諸個人のアイデンティティクライシスを緩和して、当該の国家社会がアノミー化することを防ぐ所の、近代国家成立以降の人類にとっては死活的に重要な「イデオロギー=世界Ⅲ」だからです。
 
私が--敵将ながら--尊敬してやまない鄧小平先生の顰に倣えば、「黒猫も白猫も鼠を取る猫が良い猫」であるように「人間の社会生活を安定させ、人間の生存と生活を保障するイデオロギーは良いイデオロギー」であり、而して、現在においては、国家も民族もナショナリズムも全体として見れば良いイデオロギーと言える。と、そう私は考えています。
 
蓋し、近代主権国家の成立以降、比喩的に言えば、人間は「ある国家のユニフォーム」を纏わない限り、国内的にも国際的にも行動することが難しくなった。つまり、ユニフォームは単なる記号にすぎないにしても、ユニフォームを着ていることが国の内外を問わず社会的活動というゲームに参画する基本的なルールになっているということ。
 
ならば、どこの国のユニフォームを着るべきかというルールには白黒はっきり言えばほとんど必然性はないけれども、(x)どこかのユニフォームを着用しなければならないというルールと、そして、(y)とりあえずどこのユニフォームを着るべきかのルールが定まっていることには十分な合理性がある。
 
このユニフォームの比喩で述べた如き経緯を英米の「分析哲学-功利主義の哲学」では「選択問題」と言うのですが(要は、例えば、交通信号の止まれの指示を「赤色」で表す必然性はないけれど、社会的な決まりごととして「赤信号」が「止まれ」の意味を帯びていることには意味があるのとパラレルに)、ナショナリズムを包摂する(反インターナショナリズムとしての)現在の保守主義は、そのような、「調整問題」のソリューションとして、国家規模のユニフォームの着用ルールを正当化する機能をも果たしているのではないでしょうか。尚、この点に関しては下記拙稿を是非ご参照いただければ嬉しいです。
 
いずれにせよ、所謂「多様性」なるものの価値や素晴らしさというもの。それを保守派も必ずしも否定はしないでしょう。わが国も、古来、数多の「帰化人」の方々を<新しい仲間>として受け入れてきたし、日本の文化伝統なるものの多くは彼等とのコラボレーションの果実であることを否定するような向きは「保守」などではなく、単なる、「無知」なのだと思いますから。

しかし、「多様性」なるものを具現する道のりやスタイルは、リベラル派がしばしばそう口にするように、別に、すべての国が「その市民社会を<地球市民的>なる無国籍の色合いに染める」ものばかりではないのではなかろうか。個々の国家が、各々、独自の文化と伝統を競いあうことによって、世界の総体としては百花繚乱・千紫万紅の<コラージュ>状況を現出する道のりもありはしないか。而して、保守主義に親和性のある「多様性」は間違いなく後者のスタイルであろうと思います。畢竟、いずれにせよ、リベラル派が主張するような「多様性」だけが<多様性>ではないことは明らかでしょう。

 
 
・揺らぎの中の企業文化
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-199.html
 
・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11146780998.html
 
・日本語と韓国語の距離☆保守主義と生態学的社会構造の連関性
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/b1c5489ebc391c1e9910502fabc69e4f
 
 
 
 
【安達泰盛と竹崎季長の対面の図
 :『蒙古襲来絵詞』より】
 
 
上記の考察を踏まえ、我々保守派が現下の日本において保守主義に盛り込むべき具体的意味内容は如何。このことを最後に一瞥しておきたいと思います。
 
蓋し、それは、①「自己責任の原則」が貫徹される、かつ、誠実さと勤勉さとを備えた敗者には「何度でも勝負する機会」を与える活気溢れ社会、および、②伝統の恒常的な再生、すなわち、日本社会統合のための<政治的神話>として「日本=皇孫統べる豊葦原之瑞穂国」のイデオロギーを常に再構築する社会、更には、③そのような日本社会を統合する<政治的神話>をリスペクトする限り、能力ある善良なる外国籍日本市民を排外することのない開かれた社会、そして、④地方コミュニティー再生にプライオリティーを置く社会思想ではないか。
 
而して、『孟子』「梁上編」に曰く、「無恒産、因無恒心:恒産なくして恒心なし」。そして、『論語』「顔淵編」に曰く、「子貢問政、子曰、足食足兵、民信之矣、子貢曰、必不得已而去、於斯三者、何先、曰去兵、曰必不得已而去、於斯二者、何先、曰去食、自古皆有死、民無信不立」から逆に導かれるように、生存と秩序はすべての社会思想が<政治的神話>として機能する前提条件である。
 
このことを鑑みれば、我々が希求すべき保守主義の意味内容には、
 
⑤国防と食糧は当然、歴史認識を巡るイデオロギー戦を含むあらゆる部面での<国の安全保障>において、自国は自国で守る意思と力の涵養を怠らず、他方、狡猾誠実に同盟国との連帯を維持強化できる現実主義的な国家、そして、⑥国際法と確立した国際政治の慣習を遵守する国家を正当化する内容もまた盛り込まれるべきである。
 
ならば、我々、日本の保守派がその思索と行動の準則とし採用すべきは、蓋し、言葉の正確な意味での「英米流の保守主義」ではないのか。而して、その「保守主義」とは、少なくとも、上でも一瞥を加えたような、(所謂「法の支配」の理解においても、すなわち、何が「法の支配」の原理が価値を認める、伝統の中で守られてきた「法ルール」の内容であるかを発見する司法の介在を考慮することなく)「それが伝統であると自分の信じるものが、他者をもアプリオリに拘束する<伝統>である」とのたまう、日本でのみ散見されるバーク保守主義なる奇想天外・荒唐無稽な「保守主義」などではないことは確実でしょう。
 
畢竟、法律実務の蓄積の点でも法哲学の理論史からも、言葉の正確な意味での「反教条主義としての英米流の保守主義」にこそ、今、日本は学ぶべきではないでしょうか。そして、実際、現象学と言語ゲーム論から基礎づけ可能で、かつ、社会学的に観察可能な、国民の「生きられてある生活世界」の中に自生的に形成され、加之、国民の多数がそれに<法的確信>を抱いている諸規範と諸価値は確かに存在している。ならば、それらの規範と価値を、価値相対主義的な謙虚さの上で選び取る決断を躊躇しない心性、これこそ<保守主義>の真髄であり醍醐である。と、そう私は考えています。
 
・トランプを携えて日本再生―We also make Japan great again!
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/64689a762ef92844d91a75a1df495fe4
 
 
以上の如く、KABUは少し異質な<保守派>ではありましょう。けれど、
 
>占領憲法の可及的速やかな破棄もしくは改正
 
この点は譲れません。
 
而して、私もそのために自分の(残された)全時間を投入するつもりです。
保守派の皆様、今後ともよろしくお願いいたします。 
 
連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして倒れることを辞さないが、
力尽くさずして挫けることを拒否する。共に闘わん!
万国の保守派よ団結せよ~! 
 
共に闘わん~!
 
なにとぞ・・・ご加護を~♪
 
 
 
 
天照大神
 
 
MV full】 僕たちは戦わない / AKB48[公式]
・・占領憲法改正/破棄に向かう日本の7~8割の<市民>のイメージ 
 
・AKB総選挙-海馬之玄関「Oshi-men」決定~!
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/42efc0603567d901519898c371733db7
 

 

 



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