ある研究会で席を連ね、現在はブログでの交流をつづけている友人のブログ記事でこの本を知った。その読後印象記事に関心を抱き、地元の図書館に所蔵されていたので借り出して読んでみた。
「こやまさん」と呼ばれる女性がいた。彼女が亡くなってから10年が経とうとしている時点で本書が編纂出版された。2023年10月初版発行。
小山さんはA6サイズのノートをおよそ80冊遺して亡くなった。
小山さんを火葬にする日、火葬に立ち会った「いちむらさんたちはそれらノートも一緒に燃やしてしまおうと考えたが、1行読んで、これは残さないといけない、伝えないといけない、と強く思った」(p6)という。遺されたノートの文字起こしをすることから、ワークショップが始まったそうだ。それが10年の時を経て、本書になった。
小山さんは東京都内のある公園のテント村の住人で公園暮らしの日々を過ごした人。最後はそのテント村の一隅に自分一人が住むテントを設け、テント村の人々との交流は極力避けた生活をしていたようだ。上記引用文中のいちむらみさこさんは2003年に公園のテント村に住み始め、いちむらさんのテントがあったところから少し離れたあたりに、小山さんがひとりでいたという。2013年12月下旬に小山さんが亡くなった当時の経緯は、本書に収録された「小山さんが生きようとしたこと」と題するいちむらみさこさんのエッセイに書き込まれている。
2014年12月27・28日に、テント村で小山さんの追悼展覧会が開かれた。吉田さんが相当な量のノートの文字起こしを手がけてはいたが、「キラキラの紐で結ばれたノートの束はまだいくつもあった」(p19-20)。2015年の春に、追悼展覧会をきっかけに集まった人たちで、残りのノートを文字起こしする「小山さんノートワークショップ」が始まったという。
ワークショップとして確認できたのは1991年から2004年までに書かれたノートの範囲であり、テキストデータにしてみると、A4サイズの用紙に3段組で659ページもの量になった。実際にはもっと多くのノートが存在したと考えられている。
本書はテキストデータ化された小山さんノートから抜粋された2段組で、次の6章に編集されている。小山さんが書き遺した日記の記録である。
序章 1991/1/5~2001/1/31
40代でのアパート暮らし、「共の人/共にいる人」の住居で生活し受けた精神的・
肉体的な暴力について、公園でのテント生活への移行が記されている。
第1章 2001/2/2~4/28
テント生活約半年後に、時折暴力を振るう男(共の人)が小山さんのテントに来
て同居し始める。
この章に次のパラグラフが記されている。
「25歳より、読む書くことを志し、現在こんな環境の中で約2ヶ月で6冊ものノ
ートを書けたら十分だ。きっと、はげまし協力してくれた人も、世に認められず
収入がなくとも喜んでくれるだろう。私も喜んでいる。今日も書けた、読めた、
歩けたと・・・・・。きれいな風景を見て、美しい音楽も聞くことができた」(2001/
3/26,p50)
第2章 2001/5/7~8/21
テントでの同居生活中も、共の人の精神的・肉体的暴力が続く。共の人の人格が
切り替わる局面での落差が幾度も書き込まれている。
遂に共の人と暮らしてきたテントを出る決意をして、公園内の別の場所で一人暮
らしを始める。その経緯が記されていく。
第3章 2001/8/22~2002/1/30
テントでの一人暮らしの状況が綴られていく。だが、2002/2/3以降工事に入るた
めに、新たな地への移動を通告されることに・・・・・。
1/26に共の人のテントのわきに自分のテントを建てて暮らしを再開。
第4章 2002/9/3~10/4
小山さん自身が表紙に「不思議なノート」と記したノート1冊をまるごと掲載。
この章だけ、本紙の色を薄いグレーに変えてある。日々の具体的な生活行動が克
明に綴られている。このノートだけが白い大型ノート。
第5章 2002/10/30~2003/3/16
2002/10/4の数日後、共の人が急死。大型ノートが終わりとなったことで、日記を
書くことも止めようと思ったようだ。だが、10/30に書くことが再開される。
小山さんは2003/2/2の日記に「平十四年十月七日、時計が二時二十分ちょうどの
時、金真の肉体はテントより運ばれた」(p193)と記している。
「共の人」と記してきた男性を日記の再開時点からは「金真(キンマ)」と呼び供養
し始めている。
この章ではテント村の「ボス」の干渉に脅かされ始める経緯が記されていく。
警察の指示があり、金真テントはそのままの状態が維持される。管理事務所の人
々、支援団体、テント村の住人との関わりが増えて行く。
12/16には再び移動地の事前通告を受け、2003/3/10には新たな移動地でのテント
設営となる。
第6章 2003/7/6~2004/10/12
困窮し、精神的にも苦しくなっていく状況が記されていく。2003/10/1の日記に
は、「どっとこみあげる現実を生きることへの不安が胸や背中を突きさし、いた
たまれない迷いと不安に包まれる。孤独と貧しさの究極、ろう人形のように気力
失った我が姿。これではならないと思いつつどうすることもできないもどかしさ」
(p219)と記す。この章の日記には、幻想的な空間に入り込んだ記述が増えて行く。
この『小山さんノート』、小山さんの現在の思いや状況記述の中に、過去の回想が織り込まれて行く。なぜ小山さんがいわゆる通常の生活からテント村での生活に移行したのか少し抽象度の高いレベルでしかわからないところがある。
だが、「文学と芸術に燃えて生き、精神と哲学への尊重」(1991/11/7、p25)を願望し続け、「私は私の心に忠実に生きていきたかった」(1993/12/22~23、p27)と記す。また、「男、女の現実の制約をこえて、人格としての芸術的人間になることが私の夢であった。そして、世界を旅することができたなら、どんなにすばらしいだろうと思っていた」(2001/2/17、p36)とも記す。ここに小山さんの心の根源があるようだ。このノートは、小山さんの夢・希望と現実との落差が克明に綴られている。そこには常に己の思いを見つめ続ける小山さんの姿が浮かびあがってくる。
2000/3/24から、公園でのテント生活を始めたそうだ。そして、第1章が始まって行く。
「小山さんノート」の前半では共の人からの精神的・肉体的な暴力を受けた後、己の精神状態を回復するために馴染みの喫茶店にて一時を過ごす場面が頻繁に記述される。後半は、困窮状況と孤独から、己を取り戻すための喫茶店行きが綴られる。小山さんにとって、喫茶店はいわばオアシスだったようである。
馴染みの喫茶店をフランス風喫茶とかイタリア風喫茶と呼び、己が海外に居る気持ちを重ねて、そこで日記を書き、過去の日記を読み直し、本を読み、心のバランスを回復しようとする。太陽の席、月の席などとも居場所を名付けている。喫茶店は現実の困窮する生活から己を一時的に引き離す時空であったようだ。 日記の中には、小山さんが本について具体的に記している箇所がある。『法華義疏』を読むという記述が2002/9/20(p153)をはじめその後の数カ所に繰り返し記されている。ドンキホーテ新書を読み終え(2002/3/11,p204)と、ベルクソンの本の活字と共に二時間あまり過ごす(2003/2/28,p242)という記述もある。
「小山さんノート」の後には、「小山さんワークショップ」に参画していた人々のエッセイが載せてある。エッセイのタイトルと筆者をご紹介しておこう。
「小山さんとノートを通じて出会い直す」 吉田亜矢子
「決して自分を明け渡さない小山さん」 さこうまさこ
「『ルーラ』と踊ること」 花崎 攝
「小山さんの手書きの文字」 藤本なほ子
「沈黙しているとみなされる者たちの世界」 申 知瑛
この日記に記された状況は、私にはまさに異次元世界といえる。多少はイメージできても、体感的には理解できない状況が連綿と記されていく。
「人が住むような地は皆、古くからいる人、仲間の集団でびっしりとつまっている。人のテントの前を通ることの苦痛は、冷や汗が出てくるほど気づかう。共の人は平気らしい」(2001/1/13、p125)という感性の持ち主なのだ。
「はじめに 小山さんノートとワークショップ」で筆者の登久希子さんは次の諸点を記している。
*ワークショップでは、文字起こしだけでなく、フィールドワークや路上での朗読、座談会をしてみたりもした。小山さあんがよく立ち寄ったらしい神社や常連だったと思われる喫茶店などをメンバーとともに訪れると、ノートに書かれていた状況が違った解像度で見えてくる。 p8
*結局のところメンバーの誰も小山さんではないし、小山さんの真意はわからない。それに「真意」は本人ですら揺れていたり変化するかもしれない。 p10
*小山さんは、ユーモアのある、どこか冷静な記述をとおして、自分自身をある意味でつきはなしてみたり、赦してみたりしながら、悲母を生きつないでいたのではないかと思う。 p11
本書の小山さんの日記からだけでは、小山さん像にどこまで迫れるかはわからない。しかし、テント生活者として生活し、延々と書き残された日記の中に、小山さんの生き方が息づいている。かなえられない願望を最後まで抱きつづけ、書き続けるという生き方をした人が居たという事実。書くことに己の存在を投影していたのではないかと感じる。
いちむらみさこさんのエッセイに、「小山さんは満足してはいなかったかもしれないけれど、死ぬためではなく生きるためにここにいたのだ。ただ、どう生きたかったのか、わたしは十分に理解できていなかった。生きていた小山さんを理解するとは、このノートをどう読むかということでもある」(p20)と記している。
「生きるためにここにいた」その存在を、その証をこの書き遺されたノートが示しているのだと思う。現代の日本社会における極限に近い生き方の一事例がここに遺されている。「生きる」とは何かを見つめ、考えるための鏡にもなる一書と思う。
ご一読ありがとうございます。
「こやまさん」と呼ばれる女性がいた。彼女が亡くなってから10年が経とうとしている時点で本書が編纂出版された。2023年10月初版発行。
小山さんはA6サイズのノートをおよそ80冊遺して亡くなった。
小山さんを火葬にする日、火葬に立ち会った「いちむらさんたちはそれらノートも一緒に燃やしてしまおうと考えたが、1行読んで、これは残さないといけない、伝えないといけない、と強く思った」(p6)という。遺されたノートの文字起こしをすることから、ワークショップが始まったそうだ。それが10年の時を経て、本書になった。
小山さんは東京都内のある公園のテント村の住人で公園暮らしの日々を過ごした人。最後はそのテント村の一隅に自分一人が住むテントを設け、テント村の人々との交流は極力避けた生活をしていたようだ。上記引用文中のいちむらみさこさんは2003年に公園のテント村に住み始め、いちむらさんのテントがあったところから少し離れたあたりに、小山さんがひとりでいたという。2013年12月下旬に小山さんが亡くなった当時の経緯は、本書に収録された「小山さんが生きようとしたこと」と題するいちむらみさこさんのエッセイに書き込まれている。
2014年12月27・28日に、テント村で小山さんの追悼展覧会が開かれた。吉田さんが相当な量のノートの文字起こしを手がけてはいたが、「キラキラの紐で結ばれたノートの束はまだいくつもあった」(p19-20)。2015年の春に、追悼展覧会をきっかけに集まった人たちで、残りのノートを文字起こしする「小山さんノートワークショップ」が始まったという。
ワークショップとして確認できたのは1991年から2004年までに書かれたノートの範囲であり、テキストデータにしてみると、A4サイズの用紙に3段組で659ページもの量になった。実際にはもっと多くのノートが存在したと考えられている。
本書はテキストデータ化された小山さんノートから抜粋された2段組で、次の6章に編集されている。小山さんが書き遺した日記の記録である。
序章 1991/1/5~2001/1/31
40代でのアパート暮らし、「共の人/共にいる人」の住居で生活し受けた精神的・
肉体的な暴力について、公園でのテント生活への移行が記されている。
第1章 2001/2/2~4/28
テント生活約半年後に、時折暴力を振るう男(共の人)が小山さんのテントに来
て同居し始める。
この章に次のパラグラフが記されている。
「25歳より、読む書くことを志し、現在こんな環境の中で約2ヶ月で6冊ものノ
ートを書けたら十分だ。きっと、はげまし協力してくれた人も、世に認められず
収入がなくとも喜んでくれるだろう。私も喜んでいる。今日も書けた、読めた、
歩けたと・・・・・。きれいな風景を見て、美しい音楽も聞くことができた」(2001/
3/26,p50)
第2章 2001/5/7~8/21
テントでの同居生活中も、共の人の精神的・肉体的暴力が続く。共の人の人格が
切り替わる局面での落差が幾度も書き込まれている。
遂に共の人と暮らしてきたテントを出る決意をして、公園内の別の場所で一人暮
らしを始める。その経緯が記されていく。
第3章 2001/8/22~2002/1/30
テントでの一人暮らしの状況が綴られていく。だが、2002/2/3以降工事に入るた
めに、新たな地への移動を通告されることに・・・・・。
1/26に共の人のテントのわきに自分のテントを建てて暮らしを再開。
第4章 2002/9/3~10/4
小山さん自身が表紙に「不思議なノート」と記したノート1冊をまるごと掲載。
この章だけ、本紙の色を薄いグレーに変えてある。日々の具体的な生活行動が克
明に綴られている。このノートだけが白い大型ノート。
第5章 2002/10/30~2003/3/16
2002/10/4の数日後、共の人が急死。大型ノートが終わりとなったことで、日記を
書くことも止めようと思ったようだ。だが、10/30に書くことが再開される。
小山さんは2003/2/2の日記に「平十四年十月七日、時計が二時二十分ちょうどの
時、金真の肉体はテントより運ばれた」(p193)と記している。
「共の人」と記してきた男性を日記の再開時点からは「金真(キンマ)」と呼び供養
し始めている。
この章ではテント村の「ボス」の干渉に脅かされ始める経緯が記されていく。
警察の指示があり、金真テントはそのままの状態が維持される。管理事務所の人
々、支援団体、テント村の住人との関わりが増えて行く。
12/16には再び移動地の事前通告を受け、2003/3/10には新たな移動地でのテント
設営となる。
第6章 2003/7/6~2004/10/12
困窮し、精神的にも苦しくなっていく状況が記されていく。2003/10/1の日記に
は、「どっとこみあげる現実を生きることへの不安が胸や背中を突きさし、いた
たまれない迷いと不安に包まれる。孤独と貧しさの究極、ろう人形のように気力
失った我が姿。これではならないと思いつつどうすることもできないもどかしさ」
(p219)と記す。この章の日記には、幻想的な空間に入り込んだ記述が増えて行く。
この『小山さんノート』、小山さんの現在の思いや状況記述の中に、過去の回想が織り込まれて行く。なぜ小山さんがいわゆる通常の生活からテント村での生活に移行したのか少し抽象度の高いレベルでしかわからないところがある。
だが、「文学と芸術に燃えて生き、精神と哲学への尊重」(1991/11/7、p25)を願望し続け、「私は私の心に忠実に生きていきたかった」(1993/12/22~23、p27)と記す。また、「男、女の現実の制約をこえて、人格としての芸術的人間になることが私の夢であった。そして、世界を旅することができたなら、どんなにすばらしいだろうと思っていた」(2001/2/17、p36)とも記す。ここに小山さんの心の根源があるようだ。このノートは、小山さんの夢・希望と現実との落差が克明に綴られている。そこには常に己の思いを見つめ続ける小山さんの姿が浮かびあがってくる。
2000/3/24から、公園でのテント生活を始めたそうだ。そして、第1章が始まって行く。
「小山さんノート」の前半では共の人からの精神的・肉体的な暴力を受けた後、己の精神状態を回復するために馴染みの喫茶店にて一時を過ごす場面が頻繁に記述される。後半は、困窮状況と孤独から、己を取り戻すための喫茶店行きが綴られる。小山さんにとって、喫茶店はいわばオアシスだったようである。
馴染みの喫茶店をフランス風喫茶とかイタリア風喫茶と呼び、己が海外に居る気持ちを重ねて、そこで日記を書き、過去の日記を読み直し、本を読み、心のバランスを回復しようとする。太陽の席、月の席などとも居場所を名付けている。喫茶店は現実の困窮する生活から己を一時的に引き離す時空であったようだ。 日記の中には、小山さんが本について具体的に記している箇所がある。『法華義疏』を読むという記述が2002/9/20(p153)をはじめその後の数カ所に繰り返し記されている。ドンキホーテ新書を読み終え(2002/3/11,p204)と、ベルクソンの本の活字と共に二時間あまり過ごす(2003/2/28,p242)という記述もある。
「小山さんノート」の後には、「小山さんワークショップ」に参画していた人々のエッセイが載せてある。エッセイのタイトルと筆者をご紹介しておこう。
「小山さんとノートを通じて出会い直す」 吉田亜矢子
「決して自分を明け渡さない小山さん」 さこうまさこ
「『ルーラ』と踊ること」 花崎 攝
「小山さんの手書きの文字」 藤本なほ子
「沈黙しているとみなされる者たちの世界」 申 知瑛
この日記に記された状況は、私にはまさに異次元世界といえる。多少はイメージできても、体感的には理解できない状況が連綿と記されていく。
「人が住むような地は皆、古くからいる人、仲間の集団でびっしりとつまっている。人のテントの前を通ることの苦痛は、冷や汗が出てくるほど気づかう。共の人は平気らしい」(2001/1/13、p125)という感性の持ち主なのだ。
「はじめに 小山さんノートとワークショップ」で筆者の登久希子さんは次の諸点を記している。
*ワークショップでは、文字起こしだけでなく、フィールドワークや路上での朗読、座談会をしてみたりもした。小山さあんがよく立ち寄ったらしい神社や常連だったと思われる喫茶店などをメンバーとともに訪れると、ノートに書かれていた状況が違った解像度で見えてくる。 p8
*結局のところメンバーの誰も小山さんではないし、小山さんの真意はわからない。それに「真意」は本人ですら揺れていたり変化するかもしれない。 p10
*小山さんは、ユーモアのある、どこか冷静な記述をとおして、自分自身をある意味でつきはなしてみたり、赦してみたりしながら、悲母を生きつないでいたのではないかと思う。 p11
本書の小山さんの日記からだけでは、小山さん像にどこまで迫れるかはわからない。しかし、テント生活者として生活し、延々と書き残された日記の中に、小山さんの生き方が息づいている。かなえられない願望を最後まで抱きつづけ、書き続けるという生き方をした人が居たという事実。書くことに己の存在を投影していたのではないかと感じる。
いちむらみさこさんのエッセイに、「小山さんは満足してはいなかったかもしれないけれど、死ぬためではなく生きるためにここにいたのだ。ただ、どう生きたかったのか、わたしは十分に理解できていなかった。生きていた小山さんを理解するとは、このノートをどう読むかということでもある」(p20)と記している。
「生きるためにここにいた」その存在を、その証をこの書き遺されたノートが示しているのだと思う。現代の日本社会における極限に近い生き方の一事例がここに遺されている。「生きる」とは何かを見つめ、考えるための鏡にもなる一書と思う。
ご一読ありがとうございます。