無煙映画を探せ  

映画のタバコシーンをチェック。FCTC(タバコ規制枠組条約)の遵守を求め、映画界のよりよい発展を願うものです。

よみがえりのレシピ 特別論評

2012-10-28 | 無煙映画特別論評
 山形県鶴岡市の周辺で、在来作物を守り育ててきた農民と、在来作物をイタリアンに変身させるレストラン「アル・ケッチアーノ」の名シェフ奥田政行さんとの出会いを、在来作物の研究をしている山形大学江頭宏昌准教授の解説で紹介しているドキュメンタリーです。
 在来作物と言うのは「ある地域で、世代を超えて、栽培者によって種苗の保存が続けられ、特定の用途に供されてきた作物」のことで、「生きた文化財」とも言われています。
それぞれの品種を守る人々は「おいしい」と言ってもらえることが嬉しくてお金にはならないけれど細々と栽培しています。しかしながら、その表情はとても生き生きとしています。映画の命でもある映像も山形の美しい自然を絡ませ、どの場面も美しく映っています。特に焼畑で栽培されるカブの場面は10年ほど前に「牛房野のカノカブー山形県尾花沢市牛房野の焼畑―」(六車由実と東北芸術工科大学の学生たち制作)という焼畑農法を撮ったビデオに比べると、今回の撮影方法は素人でも「焼畑農法」がよく理解できる秀逸な展開となっています。「焼畑農法を後世に伝える」という文化映画としての価値もあります。
在来作物と言うその地域でしか育てられない作物はとても不思議な魅力にあふれています。筆者も貴重種と言われる品種を人づてに手に入れ栽培していますがどうしても同じようには育ちません。その土地の気候と土壌、まさに「風土」が育んでいるのです。本物が食べたかったらその土地に赴くしかありません。その場を提供している「アル・ケッチアーノ」は、在来作物をかつて農家で食べていた食べ方とは全く異にした食べ方で紹介し、街に住む人々にそのおいしさを再認識させています。また、レストランの繁盛は作物だけでなく在来作物を守り育てる次世代の人材を育成するという目的に大きく貢献しています。
今後は「昔からの食べ方が一番おいしいね。」とかつての食べ方がよみがえってきて、その地域の食文化の継承につながっていくことを願っています。

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ツナグ 特別論評

2012-10-17 | 無煙映画特別論評
「ツナグ」 平川雄一朗監督

 死んだ人と一度だけ会うことができるというおとぎ話です。「ツナグ」と呼ばれるのはその仲介人のことで、祖母からその役割を引き継ぐための修行をしている高校生が主人公です。母親に病名を告知せず死なせたことを後悔する中年の男、交通事故で急死した親友の最後の言葉が気になる女子高生、行方不明になって7年にもなる婚約者のことが忘れられない青年などがオムニパス形式で登場します。どの逸話もありふれたものではありますが、樹木希林、仲代達矢、八千草薫といったベテラン俳優の安定感ある演技と松坂桃季、橋本愛、桐谷美玲、大野いとなどの期待の若手俳優たちの熱のこもった競演で感動させます。また、仲代達矢の「見えるものだけが真実ではない。本当に大切なものはこころの中にある」という言葉が重く響きます。
 演技だけでなくひとつひとつの小道具がとても気が利いていて生活感がありました。映画は映るものすべてに心がこもっていることで完成度が高くなり、だからこそ人の琴線にふれる作品になるのだと思います。 
「ツナグ」などという存在は科学的にはあり得ないことかもしれません。しかし、私たちはいつも亡くなった人々に守られて、というか一緒に生きています。別に「ツナグ」の力を借りなくてもその場にいない人を思って行動することもしばしばあります。ですから「ツナグ」は決しておとぎ話ではないことに気づきます。そして今、生きていることを再確認することができます。死んでしまった人々からパワーをもらってくじけそうになっても生き続けることができるのです。
 なお、この作品の見どころはエンディングクレジットの日蝕の太陽です。輝いていた太陽が消え再び現れることで「再生」の象徴としたラストは最後まで席を立たずに観ていた人だけに与えられる感動です。


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新しい靴を買わなくちゃ 特別論評

2012-10-17 | 無煙映画特別論評
「新しい靴を買わなくちゃ」 北川悦吏子監督

 物語は恋人に会うために日本からパリへやってきた妹の付添いの兄がセーヌのほとりで置いてきぼりにされ、たまたま通りかかったパリ在住の日本女性と出会い、そして恋をする3日間を描いています。
 宇宙人が攻めてくるわけでもなく、CIAが暗躍することもなく、エイリアンもバンパイアも出てきません。アクションもバイオレンスもハダカもありません。近未来を暗示するテーマもなく変身ロボットやヒーローもいません。おまけにギャグで笑わせることもせず、シニカルなユーモアもありません。と評すると「退屈な作品」と思われそうですが意外にそうでもないのです。
 オープニングが抜群にいいです。モノクロの写真が次々登場し、そのテンポが早くなりいつのまにか普通に動きだし色もついています。バックに流れる音楽が心地よく「いい曲だな」と思う頃クレジットに「音楽 坂本龍一」と出て、「なるほど」と納得し物語の世界に期待して入り込めます。
 主人公のふたりの行動を通してパリの観光名所も随所に紹介され、その上ちょっとさみしい年上の女性と素敵な若者との恋だから女性客には嬉しい設定です。素晴らしいのは主役の若者もその妹の恋人も料理を率先して自分でするところです。妹が恋人とすっきり別れるのも潔くて好感が持てます。女性監督らしい細やかな演出です。主人公のふたりも靴のヒールが折れたことがきっかけで出会い、最後に新しい靴が届いて新しい人生がそれぞれ前向きに始まる予感で終わりあとくされもなくさわやかです。
 映画の基本である映像がまれに見る美しさで、その場に合ったいい曲が流れゆったりと落ち着いた気持ちになります。常にガチャガチャとにぎやかに動き回っている騒々しい作品ばかりが大宣伝して観客を呼び込んでいますがそのわりに若者の洋画離れに歯止めがかからないと聞きます。ハリウッドだけが映画ではないことをもっと伝えてほしいものです。
 



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よだかのほし

2012-09-25 | 無煙映画特別論評

中国での反日暴動のニュースを見ると心が痛む。領土問題についての言及はここではしないが、仮に相手が100%悪かったとしても、私には物を壊したり燃やしたり相手を傷つけるようなことはできない。それを日本人の甘さと分析する人がいるかもしれないが、他人の所有物に手を出してまで自己主張することには抵抗がある。
 日本でも毎週金曜日に官邸前でのデモが行われているが、完全に非暴力である。多少は過剰警備の警官との陣取りのようなことはあるかもしれないが、物を投げたりましてや略奪などはありえない。
 なぜかその理由の一つは私たちが「宮澤賢治を知っている」ということがあげられる。「不幸な人がいたら真の幸福はありえない。」とか「自分を勘定に入れず」などの賢治の哲学が心にある。その世界に触れる時私たちは利己主義を顧みることができる。そして人間性を取り戻す。
 この作品には恋もアクションもエイリアンも出てこない。波乱万丈なストーリーもない。ちょっと母親との関係にわだかまりがあり、不器用に生きている28歳の女性が同郷の花巻出身の高齢の女性と出会うことで10年ぶりに故郷に帰省することになりそこで自分を取り戻すというだけの内容だ。賢治の作品は子供のころ父親が読み聞かせてくれたという形で「よだかの星」が紹介されるだけで、賢治の作品そのものを映画にしたわけではない。けれど主役の菊池亜希子のあまり自己主張をしない雰囲気や映画全体のトーンがおだやかで宮澤賢治の世界に近いものがある。ドラマチックな展開はないが退屈なわけではない。風景や静かな会話が観ているものを癒す。
 わたしたちは様々な機会や媒体で賢治の哲学と再会することで精神の浄化をはかっているのであろう。そのおかげで非暴力という行動を続けることができるのだ。

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桐島、部活やめるってよ

2012-09-25 | 無煙映画特別論評

 一般的な大人たちは15~18歳までを過ごした高校時代には、それぞれが甘酸っぱい思い出をもっている。勉強もしなければならないのだが、恋をしたり破れたり部活に励んだり、一生の友ができるのも高校時代かもしれない。少なくとも昭和の高校には自殺やひきこもりはまだあまりなく、嫌なこともあったのだろうが記憶の結晶作用できらめいていた日々の思い出が残っている。生涯の中でもいい時代なのだ。
 桐島君がバレー部のエースということでバレー部は当然だが、他にも野球部バドミントン部剣道部吹奏楽部ちょっと異質だが帰宅部、そしてわが映画部の面々が活躍する。事件は一つ起こるだけだ。「桐島君が欠席し、部活もやめるといううわさが流れる。」だけだ。桐島君の不在は所属していたバレー部や交際相手の女子高生だけでなく学校全体の空気を変えてしまう。
 桐島君とは全く関係がなさそうな地味な映画部(部室をみれば一目瞭然だ)の監督前田君も間接的ながら微妙に影響を受け撮影もそのことで振り回されてしまう。しかし、その前田君も初めは交渉する勇気もなかったが、数日の間にたくましく変化しクライマックスではきちんと自己主張できていて、あの年代の可能性を表現していて好感が持てる。
冒頭に金曜日の出来事を複数の視点から描いたことで登場人物の立ち位置を観客に明らかにする手法は新鮮なだけでなくとてもわかりやすい演出だった。
 高校物の多くは見るからに20代の成人俳優がそれらしく演じる無理があるが、前田を演じる神木をはじめ、ベテランでありながらまだ初々しさを感じさせるところがいい。あの初々しさが演技だとしたらそれはそれで頼もしい。
 帰宅部を含め部活を中心に描いたことが、成績や進路などの高校生活にありがちなことを削ったところがすっきりしてよかった。現役の高校生よりもかつて高校生だった大人たちのための作品だ。

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メランコリア

2012-09-25 | 無煙映画特別論評
 地球に他の惑星が衝突するという設定で映画を作るとします。アメリカですと、大軍団が登場し、山ほどの武器をビュンビュン飛ばして最終的には核爆弾を使用して惑星を爆破してしまうでしょう。その結果、地球が放射能で汚染されたとしてもです。
 日本の場合は自発的に何人かの若者が犠牲的精神で家族や恋人に涙で見送られて、惑星めざして突撃する特攻隊もどきの内容になるでしょう。
 一方、この監督の考えは全く違います。主人公のジャスティンは少しばかり心を病んでいて自身の結婚披露宴でとんでもない行動をとってしまいます。姉のクレアは内心ハラハラしながらも妹の気持ちを優しく受け止めます。披露宴が終了するとともに夫となったばかりの人が別れて去っていく場面で第1部が終わります。空には見たこともない赤い星が輝いていました。
 第2部はひとりではタクシーに乗ることもできないほどの状態になってしまったジャスティンをクレアが自分の屋敷に引き取るところから始まります。その頃には「メランコリア」と名付けられた赤い星は日に日に大きく見えるようになり、地球最後の日が迫ってきました。それが現実となるとジャスティンはなぜか心が解放され食欲も出て元気になっていきます。一方クレアやその夫はとり乱し自滅的な行動を取ってしまいます。そして映画は予想を超えたラストを迎えます。
 プロローグの病んだジャスティンの心を表す美しい映像と荘厳な音楽が観客を映画の世界に引き込みます。
 すべてを破壊してしまう相手をも静かに受け入れるという強靭で寛容な精神は、目の前の敵は力でねじ伏せるという価値観だけが世界を支配している今こそ人類が取り戻さなければならない魂を救済するものなのではないでしょうか。

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テルマエ・ロマエ

2012-09-25 | 無煙映画特別論評

 奇想天外な物語です。古くは「バックトウザフューチャー」から最近の「ちょんまげぷりん」などタイムスリップ物はいろいろありますが、時空つまり時間と場所をともに超えるというのは珍しいのではないでしょうか。
 テルマエと呼ばれるローマ時代の大衆浴場の設計技師ルシウス(阿部寛)は紀元128年のローマから現在の日本各地に数回移動するのです。銭湯、家庭の風呂、入浴用品の展示場、温泉旅館で日本の様々な入浴スタイルに感動し、ローマ時代に戻るとそれを生かした設計をして皇帝ハドリアヌスの信頼を得ます。たかが風呂ですがそれが世界の歴史を変えてしまうかもしれないという意表をついたおもしろさがあります。
 温泉には実際に傷や打撲などの故障を治癒する効果もありますが、それ以上に精神的な癒し効果は絶大なものがあります。3・11以降いろいろな問題を抱える日本ですが、ここはひとつこの映画を観てお風呂の良さを見直して温泉に浸かって元気をとりもどしたいものです。また、軍事力や経済力で他国を制覇するよりも温泉文化という日本独特の文化で世界の皆様に喜んでもらえる社会の方が誰かを傷つけることなく幸せになれるのではないでしょうか。
 それにしてもイタリア人って太っ腹ですね。撮影所と1000人ものエキストラを極東の小さな島国の撮影に貸してくれるなんてさすがです。2000年来の大国、尊敬します。軍事協力より文化協力の政策が進んでいるのでしょう。
というわけで是非次回作を期待します。次回はやっぱり麺対決です。イタリアンパスタと讃岐うどんを中心としたそばやそうめんなどの日本の麺と相乗効果でおいしいものを作るというのはどちらの麺も魅力たっぷりでおもしろい作品になるのではないでしょうか。


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ホタルノヒカリ

2012-09-25 | 無煙映画特別論評

 職場ではよく気も付くし責任感もありますが、家に帰るとジャージに着替え縁側でゴロゴロとビールを飲むことが一番の幸せという「干物女」こと雨宮蛍と、同居している「ぶちょお」こと高野誠一のふたりが、なんとローマへハネムーンに出かけます。機内で知り合った若者優とローマで暮らしているその姉莉央(ローマの干物女?)との4人が中心となって物語は進みます。冒頭の蛍の干物女ぶりたとえば2センチ先にあるサキイカも自分で取らず「取って」と言ったり、ホテルの部屋を散らかしほうだい散らかしたり、猫語(~~だニャン)などで笑いをとりますが、中盤以降莉央の悲しい過去が蛍に告げられたあたりからコメディの枠を乗り越え「哀しみを受け入れながらも生き続ける」という3・11以後を生きるわたしたちに問題を提起する内容に変わっていきます。
 愛する家族を亡くし「しょうがなく生きている」という莉央のために池に落ちてしまった大切な写真を蛍とぶちょおが雨の中拾い上げ、きれいに水で洗う場面は、津波の後の写真を処理していた人々の姿と重なります。思いっきり泣くこともできなかった莉央が並んだ写真を見て初めて号泣する場面は、映画の冒頭「2012年 冬」という字幕の意味が「3.11後」ということなのだとあらためて思い起こさせます。「ぶちょお」が女装してダンスを踊る場面も単なる奇抜な笑いを取るアイディアというのではないことも後からわかり「愛するものを亡くした悲しみ」は万国共通なのだと教えられます。ぶちょおがローマに着いたとき出迎えた現地の担当者の濃厚なキスも笑わせるためではなかったのです。このあたりなかなか細やかな演出です。
とっつきは、軽い内容で誰でも楽しめるという印象の作品ですが、実はその中にさりげなく鎮魂の意味を含ませ予想とは違う感動を味わえます。映画は奥が深い。

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