3月1日から9日までペルーに行ってきました。そのうちホテル4泊、機中4泊で実質ペルーは4泊5日の旅。しかし今回も新しい仲間と出会いや、初めての土地での珍しい見聞や経験があり、とても充実した楽しい旅でした。
1日目(3月1日)
20時20分発のANA機で伊丹発。今回のJ社のツァー参加者は21名。羽田で出国手続きのあと(3月2日)0時5分発でロサンゼルスへ。約10時間のフライトですが、日付変更線を通過するのでロスへ着いたのは1日の17時でした。時間が後戻りしたような変な感じです。
アメリカの入国審査は非常に厳重で、すでにESTA(電子渡航認証システム)の申請をして許可を取っています。また機内預けのスーツケースなどの荷物はキーロックできず、破損・紛失しても責任は取ってくれません。飛行機を降りて入国審査でパスポート、アメリカ出入国カード、帰りの航空券(E-TICKET)を見せ、スキャナーで両手親指と残り4本の指の指紋、目の(虹彩?)写真を取られます。
次にターンテーブルで荷物を受け取って関税審査場へ。怪しいと思う荷物は開いて中味を確かめられます。身体検査も厳重でベルトを取り、靴を脱いで裸足で歩かされます。どうも例の9.11テロのあと、かなり神経質になっているようです。ようやく全員が入国手続きを終えて、乗り継ぎのLAN(チリ最大の航空会社)の搭乗手続き。荷物を預けて、ようやくほっとしました。
伊丹で取った座席はふたりが遠くに離れていたのですが、なるべくグループが近くに座れるように、添乗員さんが他のグループのお客さんにも懸命に交渉。おかげで隣同士に座ることができました。21時15分発のLAN機でリマまで8時間半のフライト。
2日目(3月2日)
9時頃、快晴のリマ着。気温24度。大型バスに乗って途中のレストランで昼食のあと、450km離れたナスカへ。途中で日没を迎えて19時頃ホテルに入りました。
3日目(3月3日)
快晴。5時45分ホテル発でセスナ機で「地上絵観光」。探すのに苦労したが思ったより鮮明に見えた。ホテルに帰って朝食後、2時間ほど休憩。11時昼食。バスでリマへ帰る途中、ナスカの地上絵を観測塔から、さらにバスを下りてナスカより古いパルパの地上絵を見ました。19時頃、リマのホテルに着きました。
4日目(3月4日)
曇り空のリマからLAN航空機で標高約3600mにあるクスコへ約1時間15分の空の旅。アルマス広場を見下ろすレストランで昼食後、世界遺産のクスコ市街見学。写真は驚異的な石積みの代表作「12角の石」です。さらに標高3800m近くにあるインカ時代の沐浴場・タンボマチャイまで登りました。
5日目(3月5日)
いよいよ待望のマチュピチュ観光の日を迎えました。早朝ホテルを出るときは激しい雨で、がっくりしましたがバス、列車、さらに混乗バスに乗り継いで遺跡に着く頃から晴れてきました。広い遺跡を全て歩き終える頃から再び雨になり本当にラッキーでした。駅前で昼食後、バザールでお土産を買って再び高原列車、バスに乗ってクスコに帰りました。夜はフォルクフォーレを聞きながらの夕食でした。
6日目(3月6日)
朝、ホテルを出てクスコの空港へ。9時半のLAN機に乗ると1時間半ほどでリマへ帰れる筈が、二度にわたるトラブルで2時間ほど空港で足止め。遅い昼食のあとリマの歴史地区(旧市街)と新市街を観光してレストランで夕食。空港へ向かいました。
7日目(3月7日)
早朝1時5分発のLAN機でロサンゼルスへ9時間のフライト。3時間の時差があるので7時過ぎにロスに着き、空港近くのホテルで旅の汗を流しました。夜まで部屋が使え、ゆっくり休んで20時半、ホテルを出て空港へ。
8日目(3月8日)
0時10分発のANA機で帰国の途に就きました。羽田までは12時間を超す空の旅です。今回も席がバラバラで二人とも窓側と通路側に挟まれたB席に前後して座りました。前の♀ペンの窓側の席は気難しそうな日本人男性。帰るまで一言も話しかけなかったようです。右通路側はとても太った白人の大入道。座席からはみ出しそうな図体がイビキをかいて寝ているので、トイレに行くにも声を掛けられず困っていました。
それに比べると私の相席になった人は二人とも日本語が通じます。左側は東京の恋人に1年ぶりに会いに行く24歳のアメリカのハンサムな青年「アダム」。向こうから自己紹介して「名前教えてください」と日本語で話しかけてきました。右側はアメリカ国籍を持つ中年の女性・美丹さんで横浜育ち。今も横浜にいるお母さんに会いに里帰りするとのことで、もちろん日本語ペラペラ。ご自身の生まれ育ちから、ご主人とのなれそめ、これまでの職業歴、最後は家族の写真まで見せてくれて、初対面なのにここまでプライバシーを公開していいのかと思うほど。また中国と台湾の関係・両国人の対日本観の相違、明治から戦後までの日台間の関係…と話は尽きません。特に「台湾人は日本人を尊敬している。統治時代もむしろ恩恵を受けたと恨んでいない。日本人が好きだから東北大災害の時に、あんな小さな国が世界で一番たくさん寄付したのよ」と言われたのが、とても印象的でした。
始めのうち私の発音がアダムに通じないときは美丹さんが英語で通訳してくれていましたが、途中から日本語での3人の会話になり、「なんていったかなあ」と美丹さんが忘れた単語や、アダムに分からない言葉は私が英語で言い換えるようになりました。機内食がでるとすっかり意気投合したアダムと何度もワインで乾杯。長いフライトも全く退屈せずに過ごせました。
3月9日(金)
英語では「International Date Line」というとアダムから教わった日付変更線を通過。5時、雨の羽田に着き、手荷物受取所でアダム、美丹さんと別れを惜しみました。機内手荷物を宅急便に預け、8時発のANA機で9時過ぎ大阪伊丹空港着。最初から最後まで何かとお世話になった添乗員さん、すっかり親しくなったグループの皆さんとお別れしてペルーの旅を終えました。
飛行時間の長いことや入出国手続きの煩雑さを差し引いても、とても充実した楽しい旅でした。
<次回からはペルー滞在中の5日間を詳しくレポートしていきます>
1日目(3月1日)
20時20分発のANA機で伊丹発。今回のJ社のツァー参加者は21名。羽田で出国手続きのあと(3月2日)0時5分発でロサンゼルスへ。約10時間のフライトですが、日付変更線を通過するのでロスへ着いたのは1日の17時でした。時間が後戻りしたような変な感じです。
アメリカの入国審査は非常に厳重で、すでにESTA(電子渡航認証システム)の申請をして許可を取っています。また機内預けのスーツケースなどの荷物はキーロックできず、破損・紛失しても責任は取ってくれません。飛行機を降りて入国審査でパスポート、アメリカ出入国カード、帰りの航空券(E-TICKET)を見せ、スキャナーで両手親指と残り4本の指の指紋、目の(虹彩?)写真を取られます。
次にターンテーブルで荷物を受け取って関税審査場へ。怪しいと思う荷物は開いて中味を確かめられます。身体検査も厳重でベルトを取り、靴を脱いで裸足で歩かされます。どうも例の9.11テロのあと、かなり神経質になっているようです。ようやく全員が入国手続きを終えて、乗り継ぎのLAN(チリ最大の航空会社)の搭乗手続き。荷物を預けて、ようやくほっとしました。
伊丹で取った座席はふたりが遠くに離れていたのですが、なるべくグループが近くに座れるように、添乗員さんが他のグループのお客さんにも懸命に交渉。おかげで隣同士に座ることができました。21時15分発のLAN機でリマまで8時間半のフライト。
2日目(3月2日)
9時頃、快晴のリマ着。気温24度。大型バスに乗って途中のレストランで昼食のあと、450km離れたナスカへ。途中で日没を迎えて19時頃ホテルに入りました。
3日目(3月3日)
快晴。5時45分ホテル発でセスナ機で「地上絵観光」。探すのに苦労したが思ったより鮮明に見えた。ホテルに帰って朝食後、2時間ほど休憩。11時昼食。バスでリマへ帰る途中、ナスカの地上絵を観測塔から、さらにバスを下りてナスカより古いパルパの地上絵を見ました。19時頃、リマのホテルに着きました。
4日目(3月4日)
曇り空のリマからLAN航空機で標高約3600mにあるクスコへ約1時間15分の空の旅。アルマス広場を見下ろすレストランで昼食後、世界遺産のクスコ市街見学。写真は驚異的な石積みの代表作「12角の石」です。さらに標高3800m近くにあるインカ時代の沐浴場・タンボマチャイまで登りました。
5日目(3月5日)
いよいよ待望のマチュピチュ観光の日を迎えました。早朝ホテルを出るときは激しい雨で、がっくりしましたがバス、列車、さらに混乗バスに乗り継いで遺跡に着く頃から晴れてきました。広い遺跡を全て歩き終える頃から再び雨になり本当にラッキーでした。駅前で昼食後、バザールでお土産を買って再び高原列車、バスに乗ってクスコに帰りました。夜はフォルクフォーレを聞きながらの夕食でした。
6日目(3月6日)
朝、ホテルを出てクスコの空港へ。9時半のLAN機に乗ると1時間半ほどでリマへ帰れる筈が、二度にわたるトラブルで2時間ほど空港で足止め。遅い昼食のあとリマの歴史地区(旧市街)と新市街を観光してレストランで夕食。空港へ向かいました。
7日目(3月7日)
早朝1時5分発のLAN機でロサンゼルスへ9時間のフライト。3時間の時差があるので7時過ぎにロスに着き、空港近くのホテルで旅の汗を流しました。夜まで部屋が使え、ゆっくり休んで20時半、ホテルを出て空港へ。
8日目(3月8日)
0時10分発のANA機で帰国の途に就きました。羽田までは12時間を超す空の旅です。今回も席がバラバラで二人とも窓側と通路側に挟まれたB席に前後して座りました。前の♀ペンの窓側の席は気難しそうな日本人男性。帰るまで一言も話しかけなかったようです。右通路側はとても太った白人の大入道。座席からはみ出しそうな図体がイビキをかいて寝ているので、トイレに行くにも声を掛けられず困っていました。
それに比べると私の相席になった人は二人とも日本語が通じます。左側は東京の恋人に1年ぶりに会いに行く24歳のアメリカのハンサムな青年「アダム」。向こうから自己紹介して「名前教えてください」と日本語で話しかけてきました。右側はアメリカ国籍を持つ中年の女性・美丹さんで横浜育ち。今も横浜にいるお母さんに会いに里帰りするとのことで、もちろん日本語ペラペラ。ご自身の生まれ育ちから、ご主人とのなれそめ、これまでの職業歴、最後は家族の写真まで見せてくれて、初対面なのにここまでプライバシーを公開していいのかと思うほど。また中国と台湾の関係・両国人の対日本観の相違、明治から戦後までの日台間の関係…と話は尽きません。特に「台湾人は日本人を尊敬している。統治時代もむしろ恩恵を受けたと恨んでいない。日本人が好きだから東北大災害の時に、あんな小さな国が世界で一番たくさん寄付したのよ」と言われたのが、とても印象的でした。
始めのうち私の発音がアダムに通じないときは美丹さんが英語で通訳してくれていましたが、途中から日本語での3人の会話になり、「なんていったかなあ」と美丹さんが忘れた単語や、アダムに分からない言葉は私が英語で言い換えるようになりました。機内食がでるとすっかり意気投合したアダムと何度もワインで乾杯。長いフライトも全く退屈せずに過ごせました。
3月9日(金)
英語では「International Date Line」というとアダムから教わった日付変更線を通過。5時、雨の羽田に着き、手荷物受取所でアダム、美丹さんと別れを惜しみました。機内手荷物を宅急便に預け、8時発のANA機で9時過ぎ大阪伊丹空港着。最初から最後まで何かとお世話になった添乗員さん、すっかり親しくなったグループの皆さんとお別れしてペルーの旅を終えました。
飛行時間の長いことや入出国手続きの煩雑さを差し引いても、とても充実した楽しい旅でした。
<次回からはペルー滞在中の5日間を詳しくレポートしていきます>