ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

奈良の戦争遺跡を訊ねて(1)

2015-12-09 13:27:43 | 奈良散歩

奈良の戦争遺跡を訊ねて (1)
「平和のための戦争遺跡めぐり」という趣旨で、奈良県内の戦争遺跡を克明に調査してガイドを続けられている吉川好胤先生とご一緒に、奈良市内の戦争遺跡を訪ねる会に参加させて頂いた。
 


12月6日午前10時、奈良女子大正門前に集合。今はナラジョで知られる大学は明治41年「奈良女子師範学校」として創設された古い歴史を持っている。紅葉したカエデやメタセコイヤをバックに美しい造形美を見せる正門、



守衛室は国の重要文化財である。
 


構内に入ってまず左手(南側)の「奉安殿」をを見学。御真影(天皇・皇后の写真)や教育勅語が収められた、私たちの世代にはよく知られた施設である。毎日、前を通る時には頭を垂れ、紀元節、明治節などの式の日には扉が開かれて、白い手袋の校長が恭しく押し頂いて教育勅語を取り出し、「朕惟(おも)フニ我カ皇祖皇宗國(くに)ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠ニヲ樹(た)ツルコト深厚(しんこう)ナリ…」と朗読したものである。この勅語は登校前に家の神棚から下して朗読したので、今でも殆ど諳んじている。どこの学校にもあった奉安殿は戦後、殆どが取り壊されたが、ここではショウジョウバエの飼育室にするということで、残ったそうだ。



女子師範には高等女学校が付属したが、戦後の学制改革で付属中学校・高等学校となり、昭和33年、現在の紀寺町(米軍キャンプ跡)に移転する。



構内の今を盛りの紅葉、黄葉を愛でながら、前の池に美しい姿を映す旧本館の前を通る。



創立当時の面影を残す重文指定の建物で現在は「奈良女子大学記念館」として保存されてる。





裏門を出ると正面の通りは「きたまち」。右手の崇徳寺は同じ通りの旅館・大佛屋とともに戦時中の学童疎開の受け入れ先だった。私は昭和19年(1944)に大阪市内から北河内郡へ疎開した。いわゆる家族疎開(一家転住)だったので不自由の程度も少なかったが、親元を離れて集団で疎開した子供たちは大変だったと思う。

通りを抜けると近鉄奈良駅で、東向商店街から観光客で賑わう興福寺へ向かう。