ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

2015年の想い出(1)

2015-12-21 17:13:19 | 山日記

2015年の正月は義父の喪中で、孫たちが帰ってくることもなく、二人だけで淋しく迎えました。
 三ヶ日が過ぎて間もなくの6日、私が右目の緑内障と白内障の手術で大阪医療センターに入院、幸い早目の治療で経過は順調で、15日に退院することができました。また、
4月には大腸検査の結果、3mmのポリープを一個摘出。また腰痛が再発して、6月初旬から11月中旬まで整形外科へ治療とリハビリに通うなど、加齢による体力の低下を自覚させられる一年でした。しかし、二人とも、まだまだ山歩きは止められません。ここで、この
1年の山歩きを振り返ってみます。

今年の初登りは3月5日になりました。丸さんの車に乗せて貰って、ウメの咲く長岳寺門前に駐車。いつもの道を竜王山へ登りました。



南城跡の山頂からの展望は、春霞か黄砂か、残念ながらぼんやり霞んで、今一つでした。下りは長岳寺奥ノ院へ寄り道してお不動さんを拝んだり、竜王古墳群の穴を覗いたりしながら、湿っぽい道を下って山辺の道にでました。笠蕎麦で遅い昼食後、笠山荒神へ参拝。



そのあと、奇岩の白山(しろやま)にも寄りました。遠来の山友には、狭い山道をあちこち走って貰って本当に悪かったと思っています。

3月12日は壺阪寺から高取山に登りました。前年は一日違いで雪の道でしたが、今年は壺阪門址を過ぎて木の階段を登ると、僅かに一握りの雪が残っていただけでした。



最高所の三角点は「日本三大山城」の一つ、高取城址本丸の一角にあります。



下山は二ノ門址の池と猿石を見て、岩屋不動にも寄り道した後、砂防公園に下って「雛めぐり」を楽しみました。


4月23日、音羽三山。1979年以来、実に36年ぶりの山です。不動滝に車を置き周遊しました。観音寺では十一面千手千眼観音を拝んだ上に、お寺の来歴などのお話を聞き、ゆっくり休ませて頂きました。



展望台から林の中の観音山を経て、



経ヶ塚山、熊ヶ岳と縦走。



山に入っている間は誰にも出会わず、二人で貸し切りでしたが、大峠からの下りの林道は長くて少し消耗しました。

4月28日は丸さん夫婦と比良の打見山から蓬莱山







小女郎池まで往復しました。お目当てのミズバショウは見つかりませんでしたが、青空の下、楽しいハイキングでした。

5月14日も丸さん夫妻と、鞍馬から天ヶ岳へ登りました。



大原の里十名山に数えられる山で、シャクナゲ尾根の名を持つ花の道もありますが、この日は鞍馬から山頂を経て大原の里に下る自然林のコースを歩きました。



 山頂近くの送電線鉄塔の建つ場所からは、竹生島の浮かぶ琵琶湖が霞み、



その左には武奈ヶ岳がくっきりと望めたました。シャクナゲには出会えませんでしたが、不安だった足や腰も痛くならず、ツツジが彩りを添える新緑の中、山歩きの楽しさを満喫することができました。

5月25日は王寺の達磨寺で聖徳太子の愛犬「雪丸」に対面後、2004年以来の明神山へ登りました。三角点は風神社の北側にあり、前とは少し形が変わっていました。



南北二つの展望台から周囲の山々や大和平野をゆっくり眺めて下山しました。


6月17日、 丸さん夫妻と観音峰へベニバナシャクヤクを見に行きました。私たちには4年ぶり8回目になります。



展望台付近は太いロープが張ってありましたが、ベニシャクヤクは数を増やしていました。



三等三角点の埋まる観音峰に登りましたが、無展望の上に霧の粒が大きくなり、肌寒さを感じるほどになったので早々に山頂を後にして、観音岩屋に寄り道して帰りました。駐車場所に着くのを待つように雨‥。

梅雨の晴れ間の僅かなタイミングで旧知の美しい花に出会えて、本当に幸運でした。 <続きます>


奈良の山あれこれ(110)山上ヶ岳

2015-12-21 09:55:11 | 四方山話

「サンジョウサンで大人の仲間入り



吉野郡天川村。広義の大峰山は、吉野山から山上ヶ岳を経て弥山付近までを含めて呼びますが、狭義にはこの山を指します。



登山対象としての山上ヶ岳は、大峰山寺本堂近くのお花畑にある湧出岩(わきで、ゆうしゅつ)横に一等三角点(1719m)を持つ展望にも優れた山です。



ここからは大普賢、弥山、稲村ヶ岳などの大峰の山々を一望することができます。




山上ヶ岳への主な登山道には吉野道、洞川道、柏木道の三つがありますが、「柳の渡し」(↑)近鉄吉野線六田駅近く)を起点とする吉野道は距離が長いので、吉野郡天川村洞川からの洞川道が最もよく使われています(約2時間)。柏木から伯母谷覗き、阿弥陀森、小笹の宿を経て山上に至る柏木道(約5時間)も、かっては良く利用されていたと聞きますが、私は歩いていません。


山上ヶ岳は、神道と仏教の混淆した民俗信仰から発展したとみられる修験道の聖地です。伝説では役行者(小角)が開いたとされていますが、実際の開祖は理源大師・聖宝であり、当初は真言宗(当山派)が勢力を持っていました。 しかし、平安時代中期以降、朝廷の熊野信仰が盛んになるにつれて熊野から大峰山への修験道が開かれ、天台宗系の本山派が勢力を持つようになりました。そのため、熊野から大峰山を経て吉野に至る修行の道筋・奥駆道を「順峰」、吉野から熊野への順路を「逆峰」と呼びます。




修験道の聖地として、山上ヶ岳は今なお「女人禁制」を守り続けています。女人禁制の結界は、吉野側では吉野金峰神社から500m南の大滝への降り口にありますが、現在は五番関(↑)まで通行できます。


2004年4月に柳の宿(靡七五番)をスタートし、2005年6月の熊野本宮証誠殿(一番)まで、日本山岳会関西支部70周年記念行事の一環として、奥駈道を7回に分けて歩きました。(他にこの期間に世界遺産・紀伊山地参詣道の殆どを踏破しています。)この奥駈山行第三回目は、靡六九番の五番関から六二番の笙ノ窟を経て大普賢岳に至る20㎞に及ぶ行程でしたが、山上ヶ岳を通るので参加できなかった妻は今も残念がっています。




山頂にある大峰山寺(↑)の本尊・金剛蔵王権現は役行者が感得したと伝えられています。また弘法大師・空海も、金峰山(吉野山)から高野山への修行をしています。大峰山寺周辺には表行場・裏行場と呼ばれる、合わせて18の行場があり、また奥駆道には一番の熊野本宮から75番の「柳の渡し」に至る、75の「靡(なびき)」という拝所・行場が設けられています。関西の若者にとって、「サンジョウサン詣り」は昭和になっても成人式を兼ねた重要な行事であり、 私の住んでいた河内でも、青年団の先輩などから「西の覗き」での修行の様子や下山時の「精進上げ」の話などをよく聞かされたものです。


この行場に初めて入ったは奈良に来てからで、1975年6月に近所の仲間たちと洞川表行場で修行したあと、稲村ヶ岳へ向かいました。また2003年には町内の山の会で洞川の発菩提心門(↑)から入山して、表行場、裏行場を巡拝しました。行場の様子の一端を古い書物から引用しますと‥
 
平等岩について、天保9年(1838)年に土佐藩士・安田相郎が著した『大和巡日記』に、『扱吉野奥ノ院より女人禁制也』‥いよいよ行場に入って七十九文を払って先達を頼み、「…ビヨフト岩、石の腹を廻る。手足の掛り壱寸ばかりの岩角あり。先達エリツボを取りて引き上げる。夢の心地す。危きことの至極也」と記されています。



また「吉野郡群山記」には各行場の様子が詳しく記されています。一番有名な「西の覗き」(↓)については『 鐘懸岩(↑)を過ぎて、のぞきなり。

西ののぞきは、西南にむかへり。左の方、岩のはなに、山先達足を組み坐してのぞかしむ。のぞく岩の前に、水の少し溜れるはざま有り。そこを越えてのぞかしむ。岩のはな、さがりたるに、はらばひして、先達くびすぢを捕へ、下を望めば、底は深く彼の杉菜のごとき大木の梢を見るに、内のかたにそりし巌なれば、眼くらめきていとすさまじ。』とあります。『かの杉菜の…』というのは鐘掛岩のところで『下は底いと深き谷にて、幾年経しとも知らぬ杉の、ここより見おろせば杉菜といえる草のごとく梢のみ見ゆるにぞ、その深きことを知るべし』と記述したことを受けています。

古い書物からの引用が続きましたので、裏行場の様子は私の山日記(2003年8月24日)と写真でご覧ください。この日は千日山歩渉会11名(もちろん全員男性、L.芳村)で、洞川の清浄大橋から発菩提心門を8時に潜りました。陀羅尼助茶屋から鐘掛岩、西の覗き、日本岩など表行場を経て山上ヶ岳頂上には11時35分に着きました。

昼食後、『下山の前に裏行場巡りをする。難所が多く事故を防ぐため、必ず宿坊に案内を乞うことになっている。

私たちは喜蔵院に案内をお願いした。

 

行は「不動の登り岩」(↑)に始まり、 「押し分け岩」の隙間を通り、



「護摩の窟」(↑)にくる。仏の子として生まれ変わるため、真っ暗な「胎内潜り」を終えて、



笈掛け・衣掛け、袈裟掛けの巨岩に囲まれた通路を通り、



更にいくつかの岩場を経て「東覗き岩」(↑)(危険なため現在は行が行われていない)の横にある「飛び石」にくる。

ここからが核心部の「蟻の戸渡り」(↑)、ついで「平等岩」となる。スタンスもホールドも十分あるのだが、岩登りの経験のない人にはやはり鎖が頼りで、どうしても足運びの順序を教える先達が要るところだ。
 
案内のKさんはそれぞれの行場での技術指導?はもちろん、行場のいわれも分かりやすく解説して、またカメラマンでもあるだけに周囲の山の名前なども詳しく教えてくれた。晴れた日には平等岩の上から白山や富士山まで見えるということだ。



最後に(不動明王と蔵王権現の銅像のある)「本結払い(モッテンバライ)」(↑)の前で全員が「平等岩廻りて見れば阿古滝の捨てる命も不動くりから」と歌を詠み、「南無神変大菩薩・南無アビラウンケンソワカ」と真言を唱えて行を終える。本堂前に出るまでちょうど1時間かかった。』

 

山上ヶ岳については、まだまだ語り尽くせませんが、割愛して次の山に向います。