ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

ペルーの旅(8)

2012-03-18 07:00:00 | 旅日記


少し下った丘の上にあるサクサイワマン城塞址です。三層の石の壁からできている長さ360mの城塞は、インカ帝国軍と征服者スペイン軍の最初の戦いの場となったところです。

クリックして大きいサイズでご覧ください。



砦とも宗教施設だったともいわれていますが、ここにも巨大な石積みが見られます。



中でも一番大きいのが高さ5m、重さは推定300トン近い、この石。これだけの人数で押してもびくともしませんでした(笑い)。何でも一日3万人を動員して80年かかったとか。車輪を持たないインカの人たちが、こんなに大きい石を運んできて組み上げた組織力と技術にはただただ驚くばかりです。



再びバスに揺られて、人も通るし羊さんがのんびり草を食べていたりする、カーブの多い道をクスコ市街へ降りて行きます。



今日最後の観光地点、サント・ドミンゴ教会は、バスを下りて少し坂を上ったところにあります。



ここにはインカ帝国の政治と宗教の中心「太陽の神殿」コリカンチャ<コリ(Qori)=黄金、カンチャ(kancha)=ある場所の意味>がありました。侵略者たちは神殿を破壊し金銀財宝を奪ったあと、石積み土台の上に教会を建てました。その後の大地震で教会は崩壊しましたが、土台の石積みはびくともせず、インカの技術の素晴らしさを証明したのです。

内部は写真撮影禁止なのでごく一部しか紹介できないのが残念です。



いくつもの部屋の窓を通して一番奥の部屋の壁が見えることからも、石積みに一分の狂いがないことが分かります。



「虹と稲妻の部屋」壁の窪みには黄金の神像が置かれ、中央の石台に生贄の動物が捧げられたと考えられています。



この入口を入ったところにも多角形の石があります。奥にインカの宇宙観を表した銀河図が見えます。



中世スペイン風の典型的な建物を巡らした中庭です。



裏庭に出ました。基礎の石積みが見事なカーブを描いています。



マルサス広場の方を見たところです。



見下ろす広場ではインカ時代に様々な儀式や祭祀が行われました。



今、辺りには南国の美しい花々が咲き乱れています。



明日はいよいよマチュピチュへの早朝の出発なので、美しいクスコの夜の町を楽しむ間もなくホテルに帰ります。



ホテルのレストランでの夕食。例のどろっとしたスープに 



ロモ・サルタード。牛肉と野菜の炒めものですが、ペルーの伝統料理・クリオージュと19世紀、ペルーに移民した中国人がもたらした中華料理の調理法や味付けが融合したチファ(CHIFA)料理で、私たちには食べやすい味でした。



ロビーの一角には高山病になったお客さんのための酸素ボンベが備え付けられています。中二階には、夜通し使えるようにコカの葉とティーパックが置いてありました。さすがに夜になると冷えてきて、電気ストーブを点けました。夜中に到着する人の足音やシャワーの音などで眠りの浅い夜でした。

ペルーの旅(7)

2012-03-17 07:00:00 | 旅日記


クスコの町歩きを続けます。カテドラルの右角を左に折れて



両側に古い民家の立ち並ぶ狭い通りに入りました。



舗道にこんな標識がありました。クスコは神聖な獣・ピューマに見立てて作られ、アウカイパタ(マルサス広場)が心臓、このあと向かうサクサイワマンが頭部にあたります。アンティスーユとは中心のアウカイパタから四つの地域(スーユ)に通じるインカ道の一つで、北東を指しています。(他の三つは南西へのクンティスーユ、北西へのチンチャイスーユ、東へのコリャスーユです。)



宗教美術博物館。もとは第6代皇帝インカ・ロカの宮殿でした。



博物館の前を通るハトゥン・ルミヨック通りには美しい石畳の道と石組の壁が続きます。鉄と車輪を持たなかったインカの人たちは、青銅や石で作った道具だけでこの精巧な石組を作り上げました。剃刀の刃も通らないというほど密着された石には、セメントなどの接着剤は一切使われていません。



なかでも驚異的なのはこの「十二角の石」。隙間もなくぴったりと他の石を組み合わせた高度な技術力には舌を巻きました。



別の道を通ってマルサス広場に帰り、迎えに来たバスでサクサイワマンへ向かいます。何度もカーブしながら高度を上げていくにつれ、赤茶色の屋根が並ぶスペイン風の町並みが下になっていきます。



インカ風の民家が見られるようになりました。壁には動物などの形が浮き彫りにされています。屋根の上に置いてあるのは



トリート・デ・プカラ。沖縄のシーサーのような家の守り神で一対の牛の置物でです。二匹の間に十字架が付いているのが宗教の融合を表しています。



クスコの土産物屋さんで買って帰ったプカラです。



クスコの北約4km。ウルバンバ渓谷にあるインカ時代の沐浴場「タンボ・マチャイ」の入口です。バスを下りると富士山の標高に近い高地で、ゆっくり歩かないと息切れします。



最終目的地の沐浴場。四段の石の壁から滝のように落ちる水は、いくら雨が降らなくても年中同じ量で変わらないそうです。



後にある人影の見える小山に登りたかったのですが、団体行動なので許されません。ここが今回の旅行の最高到達点になった、ほぼ標高3800m地点です。

ペルーの旅(6)

2012-03-16 07:00:00 | 旅日記
クスコ CUZCO



7時、リマのホテルを出てバスで空港へ向かいます。



空港でガイドのマルコ君とお別れしたあと、空港内のお店でコカとマカの入ったキャンディーを買いました。どちらも高山病に聞くといわれていますが、効果のほどは分かりません。まあ、お守りのつもりで…。



9時半、離陸。クスコまでは約1時間15分のフライトですが、軽食が出ました。サンドウィッチの入ったパッケージには野生動物で有名なビーチリゾート・パラカスが描かれています。そしてビスケットとチョコレート。飲み物はインカ・コーラにしました。



美しい山を背にしたクスコ空港に着きました。



これまでより、ずっと小型の迎えのバスで空港を後にして市の中心部に向かいます。ここでのガイドはエンリケ・カワムラさんという日系三世。お祖父さんが山口県出身の移民でした。
 世界遺産の古都・クスコはケチュア語(インカ帝国のインディオが話していた言語)で「ヘソ」を意味します。スペインの侵略によって滅亡するまで、太陽の子である王が支配する世界の、いや宇宙の中心と考えられた黄金の都・インカ帝国の中心でした。



アルマス広場。インカ帝国の時代から続く市街の中心です。ペルー国旗に並んで掲げられている七色の旗はクスコ市旗。インカ帝国の旗が起源で「虹」をモチーフにしています。



この日はたまたま「聖週間」という祭日で、観光客はもちろん地元市民も大勢広場に集まってコーラスを捧げたり、花火を打ち上げたりしていました。



広場は美しい緑の公園を中心に、カテドラル(大聖堂)などの教会、レストラン、土産物屋が取り囲んでいます。ちなみに「アルマス広場」と「カテドラル」はリマや他の都市(カハマルカ、イキトスなど)にもあります。16世紀後半、ペルーを侵攻したスペインは、それまでのインカの町の中心地に「アルマス広場」と「カテドラル」を造り、そこを拠点に植民地化を進めたのです。クスコでは、ここはアウカイパタというインカの人たちにとって神聖な広場でした。



さて、広場に面したレストランに入り、フォルクローレの演奏を楽しみながらの昼食です。



ソパ・デ・キヌア(キヌアのスープ)。キヌアはアンデス原産の穀物で栄養価が高いことで知られています。



それと、トマトのパスタ。飲み物は…今日から二日間は断酒です。この高度で飲んでも大丈夫とは思うのですが大事をとりました。



レストラン二階からの眺め。左手に見えるのがカテドラル(大聖堂)、右はラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会。



もとはインカ第11代皇帝の宮殿跡に建つラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会。美しいファサードには二つの鐘楼を持つ塔があり、その後ろにドームが見えています。



カテドラル。インカ時代のビラコチャ神殿の後に1550年から100年の歳月をかけて建設されました。



荘厳なルネサンス式のコロニアル(植民地的)建築物です。



ファサードの精緻な装飾です。内部の装飾は金色に輝き、中央の祭壇は銀300トンを使った豪華なものだそうです。また数々の宗教画など見どころも多いようですが、残念ながら外から眺めるだけでした。(続く)

ペルーの旅(5)

2012-03-15 08:00:00 | 旅日記
パルパの地上絵

3月3日の旅はまだ続きます。ナスカからパン・アメリカーナ・ハイウエイを30分ほどリマの方に引き返したところに、もう一つ地上絵が残されています。



バスを下りて教えられた山の斜面を見ると、なるほど人物らしい絵が見えます。



レンズを望遠側にして撮ったものです。パルパの地上絵は、1~6世紀に描かれたとされる「ナスカの地上絵」よりもさらに古いと言われています。しかし一説によると、近年になって突如出現した偽物も含まれているそうです。そう言われるのも、この地上絵があまりにも鮮明に残り過ぎているためです。私たちは目を凝らしても遠くてよく見えませんでしたが、別の場所にある観測塔の上から取った写真をネットで見ると、そう疑われても無理はないほど鮮明に家族らしい人物が描かれています。



その上、ここは竜巻がしょっちゅう起こる場所なのです。私たちが眺めているうちにも小さな砂煙が起こったと思うと



大きく砂塵を捲き上げて通り過ぎて行きました。しかしナスカでも竜巻はしょっちゅう起こり、ライへ女史が箒を使ってせっせと地上絵を掃くのを見た地元の人は、はじめ「魔女」だと笑っていたと聞きました。地上近くの空気の層が絵を守っているそうですが、いずれにせよ、ナスカもパルパも夢を掻き立てる謎が多い地上絵でした。



さてバスは昨日きた道を一路リマへ帰ります。サボテン畑が続く中で突然バスを止めて、ガイドのマルコ君がサボテンから何か獲ってきて、客席を回って見せてくれました。



コチニール(別名エンジムシ・臙脂虫)というウチワサボテンの実に寄生するカイガラムシの一種です。インカ帝国では染料として養殖されてきました。押しつぶすとこのように赤紫色に染まります。



荒涼とした土地に植えられているのは、ペルーの砂漠を象徴する木…ワランゴです。根がなんと地下100mまで伸びて水を吸い上げるといいます。



小さな町を通過します。庶民の足になっているのは、この安くて小回りの利く三輪タクシーです。



手作りのような家がポツポツ見えてきました。



往路でも紹介した不法占拠者の住宅です。ともかく獲ったもの勝ち。大らかというか、いい加減というか…。そういえばペルーでは時間についても凄くアバウトです。



でもツァーでは、ほぼ時間通りにリマに着きました。レストランで夕食です。ペルーのパンも結構美味しかったです。



名物のセビーチェ、いわば白身魚のマリネです。黒鯛にトウモロコシと変愚院の苦手な香草が入っていました。



これは何という料理でしょう。例のカレー風ですが白身魚にパプリカ、タマネギなどが入ったドロリとしたソースがかかっています。



長い一日が更けていきます。明日はアンデス山中にある標高3600mのクスコまで一気に飛行機で行きますので、高山病予防にダイアモックスを半錠づつ飲みました。しかし副作用の利尿作用で何度かトイレに通う羽目になりました。

ペルーの旅(4)

2012-03-14 20:46:11 | 旅日記


3月3日(続き)ホテルに帰って遅い朝食を取った後、出発までしばらく休憩です。広い敷地内にはブーゲンビリアなどの美しい花々が咲き乱れています。



部屋の前に装飾品として古いストーブが置かれていました。



二羽の赤ちゃんを連れたクジャクのお母さんが歩いています。



お父さんは広い中庭を悠々とお散歩。



その向こうにはアルパカや白い馬が遊んでいます。このアルパカ君はおとなしそうに見えますが、すぐそばまで近寄ると急に攻撃的な目付きになって首をもたげました。ヤバイと思って後ずさりしましたが、後で聞くと、やはりラクダと同じように敵と思うと唾を吐きかけるそうです。

11時ホテルを出発。また450km・8時間、バスに揺られてリマに帰ります。



40分ほど走ったところで昼食のレストランへ。お馴染みの味になったピスコサワーです。



クスコ生まれで今やペルー全国区になったビール「クスケーニャ」。瓶の模様がきれい。コクがあり乾いた喉に甘露の味です。



野菜サラダ。トマトは昔の日本のトマトの味でした。



日本でいえば五穀米をココナツミルクで炊いたような、甘いお粥風ご飯。



それにビーフとマッシュドポテト。先ほど朝ご飯を食べたばかりなのに、どれも美味しく頂きました。



外に出ると庭にたわわにアボカドが実っていました。



町から15kmのハイウェイ沿いに、マリア・ライへの建てた観測用のミラドール(展望塔)があります。



高さ約10mの高さの展望台から周囲を見渡すと…



木や



手の地上絵や、他にも直線や曲線がたくさん描かれていました。



観測塔の下で売っていた小石に描かれた地上絵をお土産に買いました。
サルは変愚院の誕生月の星座・さそり座のお守り?だそうです。サソリとサルにはどんな関係があるのでしょう?

ペルーの旅(3)

2012-03-13 10:22:03 | 旅日記
3月3日 ナスカの地上絵



地上絵を見るには、太陽光線の当たり具合のいい朝早くか夕方が最適と言われます。モーニング・コーヒーを頂いて5時45分に出発、飛行場は近くで6時過ぎに到着してバスをおりました。抜けるような青空です。



事務所で乗機手続きをします。パスポートを提示して6ソルの空港税を支払い、ひとりづつ体重計に乗りました。



搭乗券の人物はマリア・ライへというドイツ人女性。地上絵を発見したのはアメリカの考古学者コソック(1939年)ですが、クスコで教師をしていてコソックと出会ったライへはコソックの研究を引き継いで、死ぬまで地上絵の調査研究を続け、その保護を訴えてきました。地上絵の近くに埋葬を希望した彼女の希望は、一帯が世界遺産に指定されたため叶いませんでしたが、「マドレ・デ・パンパ(大平原の母)」と呼ばれて敬慕されています。



地上絵は高いところからでないと「絵」には見えないので、小型機による空からの観光が一般的です。このセスナ機は定員12人、私たちが今日の一番乗りでした。



天井で頭を打たないように体をかがめながら機内に入ります。指定された席は右側の前から二列目。すぐ目の前が操縦席です。左側がパイロット、右がコ・パイロット。エンジンがかかると短い滑走で軽やかに空に舞い上がりました。



眼下に乾燥した大地が広がりますが、この座席は残念ながら翼の支柱の真横で視野がよくありません。



コ・パイロットがマイクで「オハヨゴザイマス」と挨拶して絶叫調の案内を始めました。「トモダチ!」「ミギ!」「コンドハヒダリ!」「イタ!サル」「ミテミテ」「イタイタ!」(「毎日同じところにいるのにきまってるやろ」とツッコミを入れたくなる)、「アネノシタ!」?「カニノシタ」?…これはようやく「羽根(翼)の下」の意味だということが分かってきました。



数百あると言われる地上絵は殆どが意味不明の直線や曲線の一筆書きで、一体誰が何の目的で書いたものか、まだはっきりした定説はありません。(このレポートでは各説を紹介するのが目的ではありませんので省略します)。



そのうち有名なのは動物などを描いたものですが数が少なく、「イタ!」といわれても探すのがかなり大変で、カメラを構えるともう行き過ぎたあとだったりします。さらに両側の座席の人に見えるように旋回する時はかなり機体が傾くので、カメラのファインダーを見つめていると酔いそうになります。ビデオに切り替えましたが、とうとう写真は諦めて自分の目にしっかり焼き付けて帰ることにしました。



「ハチドリ」全長96m。
地上絵で一番美しいと言われるこのハチドリが奇跡的に?きれいに撮れたので十分満足です。



「コンドル」全長135mもあります。この地域に棲む別の鳥がモデルとも言われています。



渦巻き(案内では「グルグル」)。複数個見られました。



「手」なぜか右手の指は4本しかありません。これで空からの観光は終わりました。他にも写真には撮れませんでしたが、クジラ、サル、宇宙飛行士?など、しっかりこの目で見てきました。



30分ほどの飛行を終えてパイロットと記念撮影。



搭乗証明書です。間違いもあると聞いた手書きの名前は、ちゃんと書いてありました。

ペルーの旅(2)

2012-03-12 14:23:14 | 旅日記
3月2日 午後は山越えでナスカに向かいます。



海岸を離れて農作地帯に入りました。黄色く見えるのは収穫されたトウモロコシです。アジアや北米、ヨーロッパでは米や小麦が主食として人口増加を支えてきましたが、ここアンデスの地で主食となってきたのはトウモロコシとジャガイモです。



アンデス山地がもたらす豊富な水で様々な農作物がいきいきと育っています。これは見渡す限りのブドウ畑。囲いがないとすぐに実がなくなるそうです。



バスは曲がりくねった山道を登っていきます。荒々しい山肌を間近に見ながら峠を越えると、



再び美しい穀倉地帯にでました。次第に夕暮れがせまり



美しい夕焼けが明日の好天を約束してくれているようです。



夕闇迫る頃、ナスカの地方色豊かな落ち着いたホテルに着きました。庭にアルパカ君が放し飼いにされています。



途中でトイレ休憩に立ち寄ったホテルもそうでしたが、ロビーには恐らくホテル建設の時に発掘されたと思われる古い壺や人形などの遺物がたくさん飾られています。寝室は緑の中庭を巡る回廊に並ぶコテージ風ですが、ただ蚊が多いのには参りました。キーと一緒に渡された電気蚊取り線香(日本のベープマットに似ています)を点けましたが、翌朝、話をしていると口の中にまで飛び込んできたのには驚きました。



ホテルのレストランでの夕食です。小さなグラスに入っているのは食前酒のピスコサワー。白ブドウ酒を蒸留した「ピスコ」にレモンジュースや卵白、ガムシロップなどを加えたカクテルで、上にシナモンが乗っています。とても口当たりがよく美味しいのですが、アルコール度は高そうです。



前菜の細い麺の入ったスープ(カルド・デ・カシーナ?)



飲み物は赤ワインにしました。Tacamaはペルーの代表的なワインです。



チキン、タマネギ、卵などにスパイスの効いたクリーミーなソースが付いています。カレーのようにご飯に混ぜて食べました。(アヒ・デ・ガジーナ?)



食事の始まる頃からフォルクローレの演奏がはじまりました。哀愁を帯びたチャランゴやケーナの音色が旅情を高めてくれます。そして、ペルー初めての夜は更けていきました。明日は早朝からナスカの地上絵の観光です。

ペルーの旅(1)

2012-03-11 17:00:54 | 旅日記
3月2日 リマ~ナスカ



伊丹から羽田、ロス、さらにリマへと実質20時間近くのフライト、通関時間や待ち時間やを入れると一日近く費やして、やっとアンデスの国の地を踏みました。飛行機の外に出るとどっと暑さが押し寄せてきます。上着を脱いでザックに押し込みました。



出国手続きを終え、円からソルに両替を済ませてホルヘチャペス国際空港を出ます。迎えの大型バスは人数の倍近くの座席数があり、ゆったり座ることができました。マルコ君という現地ガイドの青年がペルーの現状などを話し始めました。あとで聞くと横浜の高校に留学して大学生活も日本で送ったそうで、道理で流暢に日本語を話す筈です。(このあとの写真は殆どバスの窓越に写したため、青みがかった色になっています)



車の行き交うリマ市郊外から太平洋の荒波が打ち寄せる海岸に出ました。サーフィンの盛んな処や、



波が穏やかな海水浴場などが点々と続きます。
ペルーは、フジモリ大統領の時代に破綻しかけていた経済が回復して、今や高い成長率を誇っています。しかし都市への人口流入が続き、貧富の差が次第に激しくなっているそうです。またフジモリ氏は現政権により汚職や虐殺の罪で有罪判決を受けた犯罪人とされましたが、今でも貧困層を中心に大きな支持を受けているといいいます。「彼に対する評価で日本への情報の伝わり方が正確ではない」と後に代わった二人のガイドも口を揃えて言っていました。例えば、犯罪人の家族の雇用を勧め、また出獄後の元犯罪者を刑務所の看守にするなど、経済・治安の両面で大きな役割を果たしたので、とても人気があるそうです。



ここでしばらく海岸を離れて曲がりくねった山道を登って行き…



丘の上にある小さな町を通ります。向こうに見えるキリスト像の立つ小山の斜面にはびっしりと貧しい人たちの家が立ち並んでいます。



いつ崩壊するか分からない崩れやすい斜面ですが、もともとは無人地帯に無断で入り込んで住んでいる人たちは4年間住めば占有権を認められるため、立ち退く気配は微塵もありません。



これは昔、金鉱があったところです。ここにも無断で入り込んだ人たちが住みついて、ひょっとすると残っているかもしれない金を見つけようと無数の穴を掘り続けています。



再び海岸に下りて南に走る高速1号線パナアメリカナ・スールに入ると、建設中のリゾート地や



美しい岩礁を背にした町を走り過ぎていきます。ここもホテルなどの建設ラッシュです。

ところでこの写真を見ると砂丘のような感じで砂が海岸近くまで迫っている様子が分かります。地図を見るとペルーは海岸からあまり遠くない東側にアンデス山脈を控えています。国民の半数以上が暮らしているのは、地形上、コスタと呼ばれる海から50km~150kmの間の細長く狭い砂漠の上なのです。



日本でも同じ名前の、ASIAという高級住宅地に立ち並ぶ家々は、手入れの行き届いた緑の芝生にプールなども備えています。土地の価格は計り知れず、庶民には見当もつかないそうです。



入り江と砂漠に挟まれた狭い土地に緑の色が見えます。再び貧しい人たちの住む地域に入りました。ブロック塀などに「KEIKO」と赤い字で書いてあるのが目立ちます。前の大統領選挙で最後の決戦投票で敗れたフジモリ氏のお嬢さんの名前です。マルコ君は「今の大統領はお金や物品で有権者を誘導して当選した」と話して憤っていました。



そろそろ昼時です。しばらく走って小さなレストランに案内されました。天井は風通しのよい竹で出来ていました。



ペルーで初めての昼食です。まず、エビや輪切りのトウモロコシが入ったスープがでます。



メインディッシュ。白身の魚の上にニンニクを置いて焼いています。



デザートにフルーツポンチ



飲み物はビールとインカ・コーラ。もとはレモングラスの花粉を使って着色した(現在は着色料)黄色いコーラです。甘くて炭酸はあまりきつくなく、思ったより美味しい飲み物でした。

9日間ペルーの旅から帰りました

2012-03-10 16:11:02 | 旅日記
3月1日から9日までペルーに行ってきました。そのうちホテル4泊、機中4泊で実質ペルーは4泊5日の旅。しかし今回も新しい仲間と出会いや、初めての土地での珍しい見聞や経験があり、とても充実した楽しい旅でした。

1日目(3月1日)
20時20分発のANA機で伊丹発。今回のJ社のツァー参加者は21名。羽田で出国手続きのあと(3月2日)0時5分発でロサンゼルスへ。約10時間のフライトですが、日付変更線を通過するのでロスへ着いたのは1日の17時でした。時間が後戻りしたような変な感じです。
 アメリカの入国審査は非常に厳重で、すでにESTA(電子渡航認証システム)の申請をして許可を取っています。また機内預けのスーツケースなどの荷物はキーロックできず、破損・紛失しても責任は取ってくれません。飛行機を降りて入国審査でパスポート、アメリカ出入国カード、帰りの航空券(E-TICKET)を見せ、スキャナーで両手親指と残り4本の指の指紋、目の(虹彩?)写真を取られます。
 次にターンテーブルで荷物を受け取って関税審査場へ。怪しいと思う荷物は開いて中味を確かめられます。身体検査も厳重でベルトを取り、靴を脱いで裸足で歩かされます。どうも例の9.11テロのあと、かなり神経質になっているようです。ようやく全員が入国手続きを終えて、乗り継ぎのLAN(チリ最大の航空会社)の搭乗手続き。荷物を預けて、ようやくほっとしました。
 伊丹で取った座席はふたりが遠くに離れていたのですが、なるべくグループが近くに座れるように、添乗員さんが他のグループのお客さんにも懸命に交渉。おかげで隣同士に座ることができました。21時15分発のLAN機でリマまで8時間半のフライト。

2日目(3月2日)



9時頃、快晴のリマ着。気温24度。大型バスに乗って途中のレストランで昼食のあと、450km離れたナスカへ。途中で日没を迎えて19時頃ホテルに入りました。

3日目(3月3日)



快晴。5時45分ホテル発でセスナ機で「地上絵観光」。探すのに苦労したが思ったより鮮明に見えた。ホテルに帰って朝食後、2時間ほど休憩。11時昼食。バスでリマへ帰る途中、ナスカの地上絵を観測塔から、さらにバスを下りてナスカより古いパルパの地上絵を見ました。19時頃、リマのホテルに着きました。

4日目(3月4日)



曇り空のリマからLAN航空機で標高約3600mにあるクスコへ約1時間15分の空の旅。アルマス広場を見下ろすレストランで昼食後、世界遺産のクスコ市街見学。写真は驚異的な石積みの代表作「12角の石」です。さらに標高3800m近くにあるインカ時代の沐浴場・タンボマチャイまで登りました。

5日目(3月5日)



いよいよ待望のマチュピチュ観光の日を迎えました。早朝ホテルを出るときは激しい雨で、がっくりしましたがバス、列車、さらに混乗バスに乗り継いで遺跡に着く頃から晴れてきました。広い遺跡を全て歩き終える頃から再び雨になり本当にラッキーでした。駅前で昼食後、バザールでお土産を買って再び高原列車、バスに乗ってクスコに帰りました。夜はフォルクフォーレを聞きながらの夕食でした。

6日目(3月6日)


朝、ホテルを出てクスコの空港へ。9時半のLAN機に乗ると1時間半ほどでリマへ帰れる筈が、二度にわたるトラブルで2時間ほど空港で足止め。遅い昼食のあとリマの歴史地区(旧市街)と新市街を観光してレストランで夕食。空港へ向かいました。

7日目(3月7日)
早朝1時5分発のLAN機でロサンゼルスへ9時間のフライト。3時間の時差があるので7時過ぎにロスに着き、空港近くのホテルで旅の汗を流しました。夜まで部屋が使え、ゆっくり休んで20時半、ホテルを出て空港へ。

8日目(3月8日)
0時10分発のANA機で帰国の途に就きました。羽田までは12時間を超す空の旅です。今回も席がバラバラで二人とも窓側と通路側に挟まれたB席に前後して座りました。前の♀ペンの窓側の席は気難しそうな日本人男性。帰るまで一言も話しかけなかったようです。右通路側はとても太った白人の大入道。座席からはみ出しそうな図体がイビキをかいて寝ているので、トイレに行くにも声を掛けられず困っていました。
 それに比べると私の相席になった人は二人とも日本語が通じます。左側は東京の恋人に1年ぶりに会いに行く24歳のアメリカのハンサムな青年「アダム」。向こうから自己紹介して「名前教えてください」と日本語で話しかけてきました。右側はアメリカ国籍を持つ中年の女性・美丹さんで横浜育ち。今も横浜にいるお母さんに会いに里帰りするとのことで、もちろん日本語ペラペラ。ご自身の生まれ育ちから、ご主人とのなれそめ、これまでの職業歴、最後は家族の写真まで見せてくれて、初対面なのにここまでプライバシーを公開していいのかと思うほど。また中国と台湾の関係・両国人の対日本観の相違、明治から戦後までの日台間の関係…と話は尽きません。特に「台湾人は日本人を尊敬している。統治時代もむしろ恩恵を受けたと恨んでいない。日本人が好きだから東北大災害の時に、あんな小さな国が世界で一番たくさん寄付したのよ」と言われたのが、とても印象的でした。
 始めのうち私の発音がアダムに通じないときは美丹さんが英語で通訳してくれていましたが、途中から日本語での3人の会話になり、「なんていったかなあ」と美丹さんが忘れた単語や、アダムに分からない言葉は私が英語で言い換えるようになりました。機内食がでるとすっかり意気投合したアダムと何度もワインで乾杯。長いフライトも全く退屈せずに過ごせました。

3月9日(金)
英語では「International Date Line」というとアダムから教わった日付変更線を通過。5時、雨の羽田に着き、手荷物受取所でアダム、美丹さんと別れを惜しみました。機内手荷物を宅急便に預け、8時発のANA機で9時過ぎ大阪伊丹空港着。最初から最後まで何かとお世話になった添乗員さん、すっかり親しくなったグループの皆さんとお別れしてペルーの旅を終えました。
飛行時間の長いことや入出国手続きの煩雑さを差し引いても、とても充実した楽しい旅でした。

<次回からはペルー滞在中の5日間を詳しくレポートしていきます>