ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

奈良の戦争遺跡を訪ねて(3)

2015-12-12 20:25:51 | 奈良散歩

荒池から眺める興福寺五重塔は四季それぞれに美しい。行く手に奈良ホテルが見えてきた。昔は興福寺の塔頭・大乗院があった小高い丘に建つている。1909年(明治42年に営業開始したが、永らく国営(鉄道省)で関西において国賓・皇族の宿泊する迎賓館に準ずる役割を果たし「西の迎賓館」と呼ばれた。



吹き抜けのあるエントランスから赤絨毯の階段を登ると、



春日吊灯籠を模した和風のシャンデリアなど各所に和風装飾が取り入れられている。このホテルには皇族始め国内、海外の著名人が宿泊した。



大正時代、アインシュタインが若き日の西堀栄三郎を通訳にして泊まった部屋には、彼が奏でたというピアノも残されている。
   昭和10年(1935)に満州国皇帝・溥儀を迎え、その後も要人の来訪が相次いだ。



太平洋戦争を迎えて防空壕が彫られ、空襲警報が発令されると、現在も階段の踊り場にある銅鑼(ドラ)を鳴らして客を誘導した。
 


ちなみに空襲警報は敵「航空機ノ来襲ノ危険アル場合」に発令されるもので、その前の段階に「航空機ノ来襲ノ虞(おそれ)アル場合」に発令される「警戒警報」と併せて「防空警報」と呼んだ。二つの警報は違うサイレンで知らせた。河内へ移ってからは、家から国民学校(小学校)までは30ほどかかり、登校中に警戒警報が出ると帰る準備、空襲警報が来ると即刻帰宅ということになっていたが、時には間隔がごく短い場合もあって、登下校も命がけだった。大げさでなく、山へ松脂取りに行って艦載機から機銃射撃を受けたこともある。警戒警報が鳴ると夜は電灯に黒い布で作った覆いを被せたりして暗くしたが、面倒なのでいつも覆いは付けたままだった。
 


戦局悪化に伴う金属供出の際には、奈良ホテルでは門扉の鋲まで外された(現在は復旧している)。



また、階段の柱頭に装飾として付けられていた真鍮製の擬宝珠まで供出され、代わりに赤膚焼の7代目大塩正人に依頼して製作された陶製のものが取り付けられた。
  この金属供出は、武器生産に必要な金属資源の不足を補うため官民を問わず所有の金属類を国が回収する制度で、役所などのマンホールの蓋や鉄柵などの鉄製品回収から始まり、寺院の鐘から学校の二宮尊徳像、家庭では鍋釜から箪笥の取手まで根こそぎ動員された。我が家では親父が秘蔵の日本刀をどこかへ隠していたようである。
 


荒池の方から見える北側客室は終戦の年(1945)にフィリピン大統領ホセ・ラウエル一家が亡命した宿舎である。ラウエルは太平洋戦争勃発後の日本軍政下で大統領に選出されたが、日本の敗色が濃厚となったので台湾へ逃れ、次いで日本で亡命生活を送ったのである。ホテルは、45年11月に重装備のアメリカ軍によて接収され、ラウエルは戦犯として捕らえられた。


奈良の戦争遺跡を訪ねて(2)

2015-12-11 09:50:28 | 奈良散歩

奈良の戦争遺跡を訊ねて (2)
興福寺の境内に入ると、日曜日とあって外国からの観光客の姿も多かった。穏やかな冬の日差しを浴びて、シカと戯れたり、仲良く二人で自撮りするなど、いかにも平和な光景である。



しかし、先生のお話を聞くと、ここにも戦争の爪痕が残っていることに気付かせられる。北円堂の前に防空壕があったことなどを伺いながら、南大門跡の「扇芝」を見下ろす中門跡に来る。



現在は毎年5月第3金、土曜日に、ここで「薪御能」が行われているが、明治以来途絶えていた。それが1943年、「決戦下神事御能」として復活した。「敵国降伏祈願」など国威発揚に利用されたのである。
 


東金堂前の石灯籠横にある弘法大師手植えの伝説を持つ「花之松」。昭和12年に枯死したので、現在ある松が植栽された。その横に立つ由来を記す碑は何度も見ているが、碑文の最後に「紀元二千六百年昭和十五年三月吉辰 花之松献木翼賛会長 奈良県知事…」の文字があることを始めて知った。昭和15年(1940)は太平洋戦争の始まる1年前。
私は小学校入学前だったが、神武天皇即位から数えて2600年目ということで、各地で奉祝行事が行われたことを子供心にも覚えている。この年は辰年で、今の長居競技場近くの桃ヶ池の中に、大きな竜の模型が横たわっていた。その前にも確か「奉祝・紀元二千六百年」の文字があったようだ。「翼賛」という言葉は今は殆ど聞かないが、当時はナチスに倣って一国一党の「大政翼賛会」組織が幅を利かせていた。
 


昭和19年、各地で空襲が激しくなると興福寺の建物にも偽装網をかぶせ、多数の国宝を個人宅などに避難させた。



余談であるが、偽装網といえば我が母校の四条畷高校の校舎にも、まだ乳牛のような白黒模様のカモフラージュが残っていたことを思いだす。 



昭和20年には奈良公園や東大寺の松を造船用に供出することを軍から命じられ、これは知事ら関係者の努力で回避されたが、松脂が採取された跡は今に残っている。松脂からは飛行機のガソリン代わりの燃料となる油が取れた。本来は「松根油・しょうこんゆ」として切り株などから採取されたが、実用化には程遠かったらしい。疎開した河内では、裏の山に行って松の幹に縦に一本、あとは交互にV字型の傷をつけて流れる樹液を缶詰の空缶に受ける。朝、小学校の校庭に置かれたドラム缶に集めるのだが、果たして役に立つほど集まったのか疑問に思う。
 また旧帝室博物館(現国立博物館)には地下に収蔵庫が設けられ、東京の帝室博物館から国宝などが疎開してきた。これも東京などに比べて奈良は安全と考えられたためだろう。
 


公園を出て春日大社一の鳥居前を南へ向かう。横のモミジが赤い鳥居と色を競っていた。


奈良の戦争遺跡を訊ねて(1)

2015-12-09 13:27:43 | 奈良散歩

奈良の戦争遺跡を訊ねて (1)
「平和のための戦争遺跡めぐり」という趣旨で、奈良県内の戦争遺跡を克明に調査してガイドを続けられている吉川好胤先生とご一緒に、奈良市内の戦争遺跡を訪ねる会に参加させて頂いた。
 


12月6日午前10時、奈良女子大正門前に集合。今はナラジョで知られる大学は明治41年「奈良女子師範学校」として創設された古い歴史を持っている。紅葉したカエデやメタセコイヤをバックに美しい造形美を見せる正門、



守衛室は国の重要文化財である。
 


構内に入ってまず左手(南側)の「奉安殿」をを見学。御真影(天皇・皇后の写真)や教育勅語が収められた、私たちの世代にはよく知られた施設である。毎日、前を通る時には頭を垂れ、紀元節、明治節などの式の日には扉が開かれて、白い手袋の校長が恭しく押し頂いて教育勅語を取り出し、「朕惟(おも)フニ我カ皇祖皇宗國(くに)ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠ニヲ樹(た)ツルコト深厚(しんこう)ナリ…」と朗読したものである。この勅語は登校前に家の神棚から下して朗読したので、今でも殆ど諳んじている。どこの学校にもあった奉安殿は戦後、殆どが取り壊されたが、ここではショウジョウバエの飼育室にするということで、残ったそうだ。



女子師範には高等女学校が付属したが、戦後の学制改革で付属中学校・高等学校となり、昭和33年、現在の紀寺町(米軍キャンプ跡)に移転する。



構内の今を盛りの紅葉、黄葉を愛でながら、前の池に美しい姿を映す旧本館の前を通る。



創立当時の面影を残す重文指定の建物で現在は「奈良女子大学記念館」として保存されてる。





裏門を出ると正面の通りは「きたまち」。右手の崇徳寺は同じ通りの旅館・大佛屋とともに戦時中の学童疎開の受け入れ先だった。私は昭和19年(1944)に大阪市内から北河内郡へ疎開した。いわゆる家族疎開(一家転住)だったので不自由の程度も少なかったが、親元を離れて集団で疎開した子供たちは大変だったと思う。

通りを抜けると近鉄奈良駅で、東向商店街から観光客で賑わう興福寺へ向かう。