荒池から眺める興福寺五重塔は四季それぞれに美しい。行く手に奈良ホテルが見えてきた。昔は興福寺の塔頭・大乗院があった小高い丘に建つている。1909年(明治42年に営業開始したが、永らく国営(鉄道省)で関西において国賓・皇族の宿泊する迎賓館に準ずる役割を果たし「西の迎賓館」と呼ばれた。
吹き抜けのあるエントランスから赤絨毯の階段を登ると、
春日吊灯籠を模した和風のシャンデリアなど各所に和風装飾が取り入れられている。このホテルには皇族始め国内、海外の著名人が宿泊した。
大正時代、アインシュタインが若き日の西堀栄三郎を通訳にして泊まった部屋には、彼が奏でたというピアノも残されている。
昭和10年(1935)に満州国皇帝・溥儀を迎え、その後も要人の来訪が相次いだ。
太平洋戦争を迎えて防空壕が彫られ、空襲警報が発令されると、現在も階段の踊り場にある銅鑼(ドラ)を鳴らして客を誘導した。
ちなみに空襲警報は敵「航空機ノ来襲ノ危険アル場合」に発令されるもので、その前の段階に「航空機ノ来襲ノ虞(おそれ)アル場合」に発令される「警戒警報」と併せて「防空警報」と呼んだ。二つの警報は違うサイレンで知らせた。河内へ移ってからは、家から国民学校(小学校)までは30ほどかかり、登校中に警戒警報が出ると帰る準備、空襲警報が来ると即刻帰宅ということになっていたが、時には間隔がごく短い場合もあって、登下校も命がけだった。大げさでなく、山へ松脂取りに行って艦載機から機銃射撃を受けたこともある。警戒警報が鳴ると夜は電灯に黒い布で作った覆いを被せたりして暗くしたが、面倒なのでいつも覆いは付けたままだった。
戦局悪化に伴う金属供出の際には、奈良ホテルでは門扉の鋲まで外された(現在は復旧している)。
また、階段の柱頭に装飾として付けられていた真鍮製の擬宝珠まで供出され、代わりに赤膚焼の7代目大塩正人に依頼して製作された陶製のものが取り付けられた。
この金属供出は、武器生産に必要な金属資源の不足を補うため官民を問わず所有の金属類を国が回収する制度で、役所などのマンホールの蓋や鉄柵などの鉄製品回収から始まり、寺院の鐘から学校の二宮尊徳像、家庭では鍋釜から箪笥の取手まで根こそぎ動員された。我が家では親父が秘蔵の日本刀をどこかへ隠していたようである。
荒池の方から見える北側客室は終戦の年(1945)にフィリピン大統領ホセ・ラウエル一家が亡命した宿舎である。ラウエルは太平洋戦争勃発後の日本軍政下で大統領に選出されたが、日本の敗色が濃厚となったので台湾へ逃れ、次いで日本で亡命生活を送ったのである。ホテルは、45年11月に重装備のアメリカ軍によて接収され、ラウエルは戦犯として捕らえられた。