中津の歴史上これといって取り上げるものは無いかのようにみえるだろう。
黒田孝高と言うより黒田如水と言ったほうが判る人の方が多かろう。更に言えば黒田官兵衛孝高と言った方がまだ判る方が多くなるかもしれない。稀に見る政略家で豊臣秀吉に天下をとらせたと言っても過言ではないほどなのである。
天下をとることの出来る人物の一人ではあったろうが時代がそうはさせなかったということであろう。
豊臣、徳川がその上をいったということである。
年表中に「宇都宮鎮房が殺される」と書いてあるのが納得いかない。如水が宇都宮鎮房の娘を息子長政の嫁に迎えたいと謀り、城中での酒宴中に長政が宇都宮鎮房を殺したのである。恐らくは戦国時代にあって、頑固なまでの武士道正統派では生きていけず、正統派であった宇都宮が滅びたと言うことなのであろうか。
福岡に封じられて以降は当然のように徳川の天下泰平で波風が立つようなことなどあるわけも無く、中津での悪夢のような出来事などは転地を機会に忘れたかったであろう。と言うよりは記憶から消しさっただろう。
中津城は高瀬川(山国川の支流、現中津川)に沿い、すぐ後背は周防灘である。川と海とを天険とした城であった。
風呂に入りに来たのに母にこのような薀蓄を述べている我輩なのである。母は笑いながら聞いている。