珈琲一杯分の話

2018年2月26日スタートのただのボヤキカフェです。
毒とユーモアを楽しんで頂ければ幸いでございます。

プロローグ

2024-10-28 | 精神世界
何がいけないって「思考停止はダメ」「自分の頭で考えなさい」と口酸っぱく言われて幾歳月。
そうよ、誰でもない自分の頭から出る自分の思考

この自分の…と思いこんでいたそれがどうも本当の自分(覚醒した自分)とは違うらしい、という初耳を聞いた時、例によって私はシャッターをしなかった。
毎度の「今まで信じてきたものが違うことを受け入れる痛み」なんて、もちろん感じなかった。
それというのも、後出しみたいだけど、「自分と認識しているものなんてとても小さいんじゃないか。完全でそれが本当に自分の全てだったら私はもっとショックを受けるはずだ」という感覚がずっとあったから。

それで、人体に潜む意識というのか仕組みというのか、ネドじゅんさんの言葉を借りれば、右脳さんやら左脳さんやら本体さんやら複数の存在のうち、「ワタシ」と意識しているものは、ぶっちゃけお兄ちゃんやお姉ちゃんに挟まれてオロオロしている末っ子のような存在という例えが、まっすぐ入ってきた。

この「入ってきた」というのもそう。
私はいつも考えるというより、根拠というより、その話が「感覚的に」「生理的に」「違和感なく」心身が受け入れるかを基準にしていたので、何か自分がずっと求めていたこと、その正体がわかるかもしれないという胸騒ぎがした。
そんなベースのようなものがあって、エックハルト・トールさんやネドじゅんさんの主張に魅かれていったのである。

そしたらね…息を呑むほど面白かったんですよ。
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精神世界

2024-10-26 | 精神世界
私はどうも、精神世界のようなものが好きみたいですね。
心理学でも医学でも、宗教でも道徳でもない満足感が得られるので。

で、例えば「ここまで来たら、魂は次のステージに進めます」なんて言われると、ゲームを攻略してアイテムを一つ取ったみたいな、めっちゃ面白いロールプレイングゲームをしているような気になって😆 
いやでも実際話を聞いていると、自分の身体の中には様々なキャラがいて、それらが何者で、どんな仕組みで、こうやったら何を発動するメカニズムというのが面白くてしょうがない。

昔、Sアンチブログを書いていた頃に、最初は皆コメントに書かれている内容に興味をもっていろんな意見を闊達に言い合っていたんだけど、それがいつからか多くが「投稿者の誰々さんてああだよねえ、こうだよねえ」という人間ウォッチングに夢中になり出して、それがどんどんエスカレートしていった。
でもそういうことをブログにコメントすると本題とずれるし、雰囲気も悪くなるから、わざわざ掲示板を立ててナナシになって言いたい放題が始まった。
HNもなくて正体不明になったら、どんな妄想も勘繰りも悪口も中傷もできると錯覚してか、そんなスレッドが一体幾つ立ったであろうか。
要はそのくらい人は、どこぞのどんなキャラが何を言って、それが何を及ぼして、場がどういう展開になってを見るのが大好きなようで、更にそれを引っ掻き回して混乱させたり、ややこしくなるともう嬉しくてたまらないという感じ。
(平和より事件が好き)

私には会ったこともない他人に、なぜにここまで熱狂できるのか不思議でならなかったんだけど、ある時(これはナナシじゃなかったけど)「海さんはなぜ、前はこんなふうな感じだったのに、論調を変えたのですか?何があったのか知りたくてたまらないんです」というコメントを貰って、「えええ?書いてある内容じゃなくて、どこの誰かもわからない私になんでそこまで興味を持つの?!」と、世の中にはそんな嗜好がある人がいるんだと思った。

要するにそれは「いろんなキャラを眺めて、そのキャラが引き起こすいろいろなドラマを観るのが好き」なわけで、ならばですよ?
私は今まで観たどんなドラマより、この精神世界というのか人体を含む生命の成り立ちを説明した話が、どんな連続ドラマよりスペシャルよりスピンより、「ザ・インフィクション」より、キャラもやってることもリアリティがあって刺激的なんだけど、賛同者はいないものか?

エックハルトさんの本を音読してくれる秀逸な動画👇👇

聞いていると、自分の中のいろんなキャラがどうしたこうしたが面白くてたまらないんだけど、実際にこれをマンガに書いて、名前も付けて発信しているのがネドじゅんさん。
(絵が書けたら、マンガにしてキャラを立てたくなる気持ちはよくわかります😅 
そしてエックハルトさんにしてもネドじゅんさんにしても「自分の頭で思考して」発信してるんじゃないんですよ。
二人とも、逆で思考が止まっているからこういう本が書ける。

二人とは全然ちがうけど、一応何年も駄文を書いてる私でさえブログは「考えて書いている」のではないです。
今書いているこの瞬間も頭はカラッポで、ただ浮かんでくるものをキーボードに変換しているだけ。
だから一つの記事ってどれも数分でちゃらっと挙げていて、「ウンウン考えながら」書いたことって一度もない。そんなことしないと書けないならそういう時は書かないです。
だから「思考って自分じゃない」は、すぐ納得がいったというのはあるかな。
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動画紹介36

2024-10-24 | 精神世界
これもお勧め。
わかりやすくて、殊更「右脳が、左脳が、エレベーターの呼吸が~」と悩まなくてもサラッと入るかもしれません。


ところで私が初めて「これ」を知って驚いたのは、2013年の終わり頃に、生まれて初めてネットの書き込みというものを始めた時だった。(対話ブログ)
それは「今まで信じてきたものが違うと思った時の辛いショック」というものが存在するということ。(それもかなり重篤に)
私としては「今まで信じていたことが違って、新たなことを知った嬉しさ」が先立っていたので、それが辛いということに違和感というか、なんで?と思った。

それはその先も、いろんなことが暴露されたり開示されるような時代に入っても同じで、南極大陸に秘密があるとか、NASAの作り話とか、ウイルス感染症がデタラメとか、諸々のウキウキワクワク話は「ショックと激怒と拒否」とセットであり、なぜなら「今まで信じて来たことを否定=自分の否定」になるから。
なんてもったいないことよ。

自分の否定?別にいいじゃん?
自分の判断ってそんなに絶対?そんなに神?

私の中では漠然とそんな感覚があったので、実は「ワタシ」と意識しているものは、諸事情により「大いなる叡智から切り取られて分離している、自分の身体全部からいっても5%くらいの存在にすぎない」とか、「頭の中で流れるもっともらしい思考は更に別モノで、それは幻想でしかない」ということは、「やっぱそうだよね!!」と、さらにさらに飛び上がるほど嬉しいことだった。
「これまで習ってきたことが間違いで、新しく知ったこと」の中で、ブッちぎりでナンバーワンでしたね😆 

辛いわけがない。
元々が、これまでの自分を否定したところで「不完全なんだからいつでも覆って当然。むしろ覆って進化したい」と思ってるんだから。
さらにこういう話が話題になって、自動思考がコワイとか悪とか、なかなか止まらない、流れたらヒエッ、ぴえん💦みたいなしおらしいことも、この歳になるとどうってことなくて(いや歳は関係ないかも)、なんか聞こえたら「何々?どんな妄想言ってんの?」って感じでニヤニヤ聞くのはただの性格というか😅 

ともかく「自分」「ワタシ」と思っているのは、実はいろんな意識の複合体のような感じで、だからすぐ「自分を全否定で生きるか死ぬか」みたいに思うのは的外れ、というのは断固そう思う。

頭の思考が「ワタシとは違う別人で勝手に語る」というなら、ネドじゅんさんの言われる通り、例えば「めっちゃ腹立ったわ。そこまで言われること私した?」という声も
別人の「ワタシ」が聞けば、なんや理不尽なことが「起こった」んだなあと、他人事のように聞ける。
こうやっていらん妄想はシャットアウトして、有能な機能だけが働いてくれる頼れるパートナーに仕立てたら「やったねー」って感じだし、どこの誰かも知らんどうでもいい奴とバトルする暇があるなら、私は勝手に流れる自動思考ってやつとタイマンするわ。

生きるってことは一夜限りのワンナイトショー、矢のように走る時の狭間で踊ること(すいません「今ココ」って言いたかっただけ)を体感するには、シャワーを浴びるとか手を洗う時に、いちいち、お湯に当たる皮膚の感覚とか石鹸の香りを感じるというのはお勧め。単純に超気持ちいいんですよ

ちなみに私は仕事の時に、できるだけこれをやっていて、ひたすら無心で頭カラッポにして、かっこよく言うとゾーンに入って草むしりしたり、モップをかけている。
単純にそうすると疲れなくて、時間がアッと言う間に立つんですよ。
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