珈琲一杯分の話

2018年2月26日スタートのただのボヤキカフェです。
毒とユーモアを楽しんで頂ければ幸いでございます。

憎さ余って

2019-01-16 | S教団関係
過剰に批判をしている人ほど、過去は強信者だった。
散々入れ込んで覚めてしまった結果、Sへのアンチ心もまた過剰かもしれない。
それはいいとして、では次にやってくるのは何かというと、けなしすぎたSが好きになるのである。
嘘じゃない。
「それなしではいられなくなる」

望み通り、Sも衰退して、おとなしくなって、もはや書くほどのものでもなくなると落ち着かなくなる。
昔の話をもってきたり、話を盛ってでも叩きたくなる。

当時は、活舌のわるさから殆ど何言ってるか解らない人の話を、大半は欠伸を噛んで見ていたりした。
話長いなあ。足もしびれるし早く終わらないかなあと思っていた。
実際はそんなもんだった。
でも、アンチコメントには「MCされたロボットのように聞き入っていた」なんて書かれたりする。
そんな文章を何度も読み書きしているうちに、記憶はそうだったように上書きされる。

本当はそれほどでもなかったことが、いつの間にか、

あれもこれも取返しのつかない、根深い不幸 のように増幅される。

愛憎はコインの裏表。

本来はつまらないことは、さっさと忘れたいもの。
でも嫌いになりすぎると「あなた無しではいられない」
匙加減にご用心。
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家を継ぐ?

2019-01-16 | 思うこと
私の母親は、男のいない本家の長女しての立場から、否が応でも「先祖代々続いた本家を継ぐ」という任務を課せられた。

好きな人がいなくても家を継ぐために、絶対に結婚しなければならなかった。
宇宙法則のように死守しなければならない絶対的な決まり事として、それは信じられていたのである。

そうやって、恋愛もしていないのに養子をとって、愚痴と嘆きの中で、子どもが生まれた結果。
二人の男は結婚せず、女(私)は嫁に行った。
そこまでしてこだわった「家」なんて簡単に絶えた。

私はそれでいいと思っている。
母も今はそう思っている。
結婚するのもしないも、離婚するのも、子どもを産む産まないも自由と思う。

私は結婚して子どもを産んだ。
「何かのため」でもノルマでもなく、やりたいことがそれだった。
それは生物学的に命のリレーであって、連鎖と思う。
揺るぎない自然の法則と思う。

そして、母にとって唯一の血のつながった孫に対して、「しょせん外孫じゃない」と言った親戚がいた。
自然界と比べて、人間の価値感ってよくわからないなあと思った。
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