珈琲一杯分の話

2018年2月26日スタートのただのボヤキカフェです。
毒とユーモアを楽しんで頂ければ幸いでございます。

カテゴリー

2019-05-03 | 思うこと
人に言える私の唯一の取り柄は、何でも食べられることと思う。
何系とかカテゴリーとか、国境も垣根も因縁もない。
「何でも」と「食べられる」の間に美味しくが入る、頑健な食欲と胃袋と歯を持つ私とデートしたい人は(いないけどw)食事処に迷わなくてよい。
食物は皆兄弟。一日一膳\(^▽^)/

偏食で食べ残しが多い娘は、それに文句を言う私に「心が狭い」と言う。
私は心が広ければ何でも食べるだろうとボヤく。
いつか決着をつけたいテーマである。

そのせいか無関係か知らないけど(たぶん無関係)、私はカテゴリー、区別、差別、ランク付けみたいなものが一般に苦手である。

これが好きというと、ああ何系ね。
(生死観にまつわる本を読むと「あースピ系ね~」みたいな?)
誰を支援するというと、ああ「こっちね」
何か一言いうと「アイツってこれか」と、カテゴリー分けをしたがる人がいるけど、
そんなもん知らん!!
と言いたい人も結構いるんじゃないかな。

なんだかめんどくさいんだよね、そういう人。
(そういう人のカテゴリーもわかりませんけど(笑))
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知識はあっても

2019-05-03 | 思うこと
最近はいわゆる観光地へいくと、日本語でも英語でもない言葉をよく聞く。
それ用の文字案内表記も見る。
「ほとんどがそれ」でびっくりすることもあるくらい。

一度レジで会計していたら、まだお釣りを受け取っている最中に後ろかからドンと荷物を置かれたことがあった。
スペースはもう空いているんだから荷物くらい置いたっていいでしょ?という感覚だろうか。
こんな経験は初めてなので振り返ったら日本人ではなかった。
こういうのは個人の感覚なのか、お国柄なのかな?

私がカチンとくるのは気づかいやマナーである。
思想や文化や歴史観は正直、理解できるというか譲れるというか、しょうがないと思っている。
そういう教育を受けてきたというか、それは「知識」だからである。

でも気づかいやモラルというのは、自分で選ぶ感覚と思う。
音楽でも絵でも料理でも、道の歩き方や言葉使い一つでも。
これが鈍いのは、人のせいにしたくない、自分で芽生えて感じて選んで掴む個人のセンスでは。

何万冊の本やネット記事を読んで知識に明け暮れても、もてない人はもてないこの感覚というもの。
思想がどうあれこの感覚が違う人が、私にはよほど尊重は難しい。
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