今まで団結していたグループなりコンビが、その親密度と同じくらいの嫌悪を持って分断するのを見るたび、愛と憎は表裏一体で、誰人もその法則から逃れられないのかと思っていたら、「感情ではない愛」というものが存在することを知って、先日書いた記事。
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私が今、何とか言語化しようとあがいている、ワタシという幻想が作った架空の物語は、しばしば人間関係のトラブルを起こしてしまう。
私も経験あるけど、一つの出来事があっても見方はいろいろで、10人いれば10人の正義(善悪)がある。
その正義ってやつが強ければ強いほど、それは燃え上がって一帯を焼き尽くし、焼野原にまたガソリンを注ぐくらい強情なもの。
言い換えればそれがアイデンティティってやつなんだよね、当人にとっては。
他人のそれを眺めて「ワタシはこっち側」と、自分に感情移入するのも同じ。
でも「出来事」というのは一つであって、ありのままというのは「出来事」以外に存在はせず、ありのままが10種類も存在するわけない。
存在しないんだけど各々は、自分の思考こそが絶対的な真実だと信じ切ってしまうので、「ありのまま=自分だ」と固く思いこんでしまう。
ありのままの「出来事」は終わってしまって、指一本触れられない、変えようもない過去なのに、消えた過去やら来てもいない未来からワタシ(要は記憶の断片や想像という幻)をかき集めて語る話が、「ありのまま」のはずがなく、
「幻想じゃない、ありのまま」というものがあるなら、この事実をただ見ることしかない。
私たちは幻想をジブンと思ってそこに情熱を注いでしまうけど、ありのまま(本当の自分)というものがあるなら、少なくとも過去や未来という幻を行き来する思考とは無関係である。
(焼野原をさらに燃やし尽くすような、自分もどきから解放された自分ね)
ずっとスピチュアル界隈ってよく知らなかったけど、そういえば揉めたとか分断したとか聞かないなあと思っていたら、そういうことを解っていたんですね。
誰が誰の愛人だとか、誰が昔、あー言ったこー言ったということは知らなくても、もっと人の本質を見ていたんだろうか。
知識って、この世をラクに楽しくいけるように役立つものじゃないと。わざわざ争うために博識になっても…と思う次第。