私のパソコン机まわりは、それなりに自分の好み、落ち着ける空間にしてある。
といっても写真でお見せできるような豪華なものじゃないけど、小物入れの引き出しと、YAMAHAのスピーカーとクリップライトを置いて、横にある嫁入り前の古いタンスに、ホワイトボードを貼り付けて、気に入った写真や小物を並べている。
日用品と収納オタクの私は、そういう引き出しやホワイドボードに何をどう配置するかを決めるのが好きであるが、それ以上に小物のどれもを、いつ買ったか、誰に貰ったかを全部覚えていて、それが重要だった。
例えば「食い倒れ太郎のチャチハタ」は大阪に行った時、たこ焼きを食べ歩きした街のお土産屋さんで買ったもの。大切な思い出だから大事なものだなあとか。
それが最近は、人形もマグネットも「そのもの」をただただ味わうだけになった。
好きなものとはいえ、100均のものでさえ、まるで美術館の展示品のように色や形やデザインをじっと見ているだけで退屈しない。
別に精霊が宿っているわけじゃないけど(笑)、可愛いものがより可愛く思えるというか。
人形も写真もマグネットも「今」ここにあるのだ。
「いや、何年何月前からあるよ」と理屈や観念を言われても、私の前に現実として「今」あるんだもん😆
キーボードの手を止めて、ただそれらを見る。
可愛さをしみじみと感じる。
それだけで幸せな気分になる。
世の中というのか外というのか、そこを世界の中心に居座らせて、小さくて無力なタンポポの綿毛みたいな自分が、それにふわふわと飛ばされていた感じ。
それが今は、私がしっかりと根を張ってピクリとも動かない家そのもので、それこそが「世界の中心」
その私という世界に、いわゆる世の中の出来事がタンポポの綿毛のように入ってくる感じ。
これはえらい差だわ🤣
ここまで言う?いや冗談じゃなくて、本当にそんな感じなんですよ。
イメージとしてはっきりくっきりそんな感じ。
私だけじゃなくてこの世の人、全員が一人残らず世界の中心だか地球の中心で、起きることの方がタンポポの綿毛。
実際は思っているのと逆なんですよ。
変なこと言い出したと思うでしょうけど🤣