「幸せは未来にあるとして、今をそのための通過点にしてはいけない」と聞いた時、私の思考は、存在しない過去に読んだ童話の「アリとキリギリス」をかき集めてきた。
親からも「キリギリスはダメよ。今より先のことを考えるの。今ガマンすれば将来ラクできるのよ」と教育された記憶の断片と一緒に。
確かに「今を、未来の幸せのための目をつむって耐えなければいけない通過点としたアリが、結果とても幸せになって、今を楽しんでいたキリギリスがその先不幸になった」と記憶していた物語は、一瞬私を惑わせた。
が、私はブン投げるのはもっと速いのだ😆
というわけで幻のワタシ記憶のそれは、もう上書きされている。
キリギリスは寒さや飢えで不幸を感じたのではなく、過去話をかき集めて鳴りやまない思考の声に、自分を責めて苦しんだのだ。
アリが存在しない未来のために、今を「ガマンする通過点」として働いたのなら、間違いなく病んでまうわ。
実際は、アリもキリギりスも今に在って、両方とも生き生きと生命を躍動させているに違いない。
人間だけがそれに気づいておらず、ヘンな解釈をしているだけで。
要は人は「今」にしか存在してないわけで、昔を思い返しているのも先を空想しているのも「今」なのであって、そういう「今意外の妄想」をブン投げて今を見ると(というか、ブン投げないと今は見れない)、物理的に、ありのまましか見えない。
ありのままというのは文字通り「ありのまま」であって、バイアスやフィルターがかかっていない状態のこと。
バイアスというフィルターなしで物事を見ることを覚醒という人がいるなら、これが覚醒なんじゃない?
「ジャッジはいけない」んじゃなくて、ただありのままに受け入れると必然的にジャッジが起こらない。
そうなると自動的に批判や悪口が止まって、それが波動を下げないなら勝手にそうなる。
「存在しないウイルスに、ウイルスに感染しないためのワクチンは不要」というのはただのありのままの事実なら、それを国家が強要したのも、ただのありのままの事実。
そこに「ワタシの正義」が介入すると物語や正しい、間違っているが始まるんだなと。
今にいて、ありのままを見ていると、ここからが面白いんだけど「扉が開く」
意識から物語が消える代わりに、とてつもない別の意識が入ってくる。
これは考えても理解できないけど、感じることができる。
そしていろんなことがリンクして、物事がスムーズに動き出すようになる。
智慧が届けられて、助けがきて、身体の細胞までが活性化されるのだ。
閉じていたら何も起こらなかっただけで、扉が開いたから。
雨が降ったり風が吹いたりと同じように、世の中はそういう仕組みになっているとしか言いようがない。
これを「正座して曼荼羅に題目を唱えるのが唯一の方法」だと信じている人がいるけど、うまいことビジネスにしたもんだなあ。
まさに「お粗末な代用品」と思いますよ。
エックハルトトールさんの「お粗末な代用品」とはよく言ったもんだ。
対話ブログに書いていた時、知っていたらこれを書きたかった。