S時代、何か違和感があって質問した時、とても丁寧に親身になって答えてくれる幹部の人はたくさんいた。
私の経験上、無視されたこともはぐらかされたこともなくて大変よろしかった。
が、今思うと全部それはこれは絶対という押しても引いても動かない「ありき」があってのことだった。
その「ありき」に沿ってならば、人によっては矛盾も澱みもない明瞭明快なアンサーをくれた。
ごちゃごちゃ言う人も、やり方がどう、組織がどう、誰それがという枝葉に文句を言ってるだけで、ありきは絶対だった。
ありきがそもそも間違いなんてことは、万に一つもあり得なかった。
信じるってそういうことなんだよね。
コロナウイルスが「数々のウイルスの中で世界中を巻き込んだくらいなんだから特別に怖くて厄介。ここまで重篤に騒いで正解」という、おそらく正しい、動かしがたい絶対の事実、前提、ありきが、今回私の心の奥底には何故か、どうしても入ってこない。
違う景色になったスーパーを見ても、テレビが煽っても、少なくとも人を怖がらせようとする人の言葉はいくら重ねてられても響いてこない。
何かにひっかかる…そんな気がどこかにしてならない。
いやホントに自分でもまいった。
世界中で信じられていることが私には信じられないという、無力感のような疎外感のような絶望感のような……
その正体は、おそらく、突き詰めれば、私の大事な娘と夫の日常を変えたという反発心だろうか。
報道のされ方が納得いかないからだろうか。
ウイルスそのもにではない、何かに乗せられているような強い違和感。
信じるということは誰にもどうしようもないけど、「信じられない」というのも同じく致し方ないもんである。
そうではなくてウイルスというものの性質から、今回の騒動を無駄に煽ることなく、そのままを常に隈なく、丁寧に発信されていた人がネットの中で一人おられましたね。
いろんなネディアの報道が全然入ってこない中で私には納得できた。
人柄もよく伝わった。
今回の騒動がなければ知らなかった人に出会えて、これは本当に本当に嬉しいなあ。