これに惑わされない人じゃないかと思う。
偉そうなことを言ったところで、人は、「大好きだから、信頼しているから、人間性が信用できるから(或いは大嫌いだから)」という理由の前には、簡単に無防備になる。
好きな人でも間違うし、思い込みもするし、気も変わるし、嘘もつくかもしれないのに。
「絶対」なんていう言葉を出す人ほど、信じるなと知ったのに。
そんなことを言った口がまた簡単に言う。
「いや、この人だけは絶対」「あんな人とは違って絶対」(「この教えだけは絶対」どっかで聞いたようなw)
恐るべし「好き」という愛しく、危うい落とし穴。
以前、私が仲良しの友人に、ある話をしたところ
「海さん、わるいけど私はそれは信じません」
とはっきり返された。
普段は優しい人なので驚いた。
だが、確かにその話は私も「聞いた話」で、事実どうかと言われれば確めようのない内容だった。
そんな話をなぜ私は信じてしまったのか?
信頼する人が言ったからである。
私を含め、その話を聞いた全員が鵜呑みにした中で、そう反論したのはその人たった一人だった。
その人は、その話をした人をよく知らなかった。
特別親しくもなかった。
だから入れ込むことなく、冷静に話を聞けたのである。
今思えば、出所の当人も「騙そう」としていたのではなく、信じ切っていた話であることに違いなかったが、それは宗教と同じく「思いこみ」に他ならなかった。
だが、宗教勧誘のように不確かなことを、皆「あの人がそこまで言うなら」とあっさり鵜呑みにしたのだった。
そうやって人数が増えると「皆が言うから」と、それは嘘偽りなど微塵もない事実として確定した。
信じれば事実となるの出来上がりである。
騙されるとか惑わされるって、そういうことでは?
騙そうとしている人に騙されないなんて簡単なことである。