珈琲一杯分の話

2018年2月26日スタートのただのボヤキカフェです。
毒とユーモアを楽しんで頂ければ幸いでございます。

ネットの文章3

2019-05-14 | 思うこと
ネットの文章など、実際は男か女かはわからない。
敢えてそれを伏せるように書かれる場なら尚更である。
が、そういう特例はともかくブログのコメントなどできちんと自己紹介して書くものは、それは顕著と思う。

例えば男は、久しぶりの人がきたら「ああしばらくだな」
ちょっとした勘違いがあった場合「ああそういうことだったのか」
心の中で思う。

しかし女は「きゃーおひさしぶりです~。ずっと来ないから何かあったんじゃないかと思っていたわ」
「ああ、そういうことだったんですねえ。私ったらここを勘違いしちゃった!!そそっかしいわねえ、全くう」
「いーえー。気になさらないで。大丈夫ですから~」
てなことをわざわざ書く(笑)
おそらくリアルでもそんな感じと思う。

男は、かくかくしかじかこうでこうなりと理屈を書いて、結論、結果を書く。
女は結論がどうのと言うより「言ってスッキりするのが目的」(それが最重要)
公共の討論の場だろうがプライベートの茶飲みだろうが、そういう精神?脳のつくり?は不変のようである。

かつて見た会合の場でもそうだった。
とにかく毎度毎度、よーしゃべるおばちゃん。
精神の浄化のためなのか?
男の数倍はしゃべる。
しゃべらないときっと死ぬ( ;∀;)
何とも答えようがなく、忍耐強く聞いている(聞くしかない)壮年部。

女でも端的に、余計な言い回しはしない人もいる。
個人的にメタボリックな文章が好きじゃない私は、さっぱりした人という印象を受ける。

やわらかさ、優しさ、冷静さ、公平さがしみじみ伝わる文章もある。
文章は人そのもの。
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寛容とは?

2019-05-13 | 思うこと
忙しい、忙しいと言っている人に限って暇。
これはかなり言い当てていると思う。

「私たちって超ラブラブ~」とアピールしているカップルに限って、相手の携帯をチェックしていないと不安でしょうがなかったりする。
(他意はないよ(笑))

何が言いたいかというと
人に「排他的、排他的」という人に限って、排他的である。

実際に「あれは排他的だから許せない」と声高に叫ぶ人。
そこまで自分が「排他的じゃない」のなら、誰にも声を荒げないのでは?
許せるのでは?

文化もマナーも考え方も教育も違う隣国や、理解し難い宗教を信じる人や、フレシキブルな政治信条や、ソリの合わない人にも自分の言葉を呑み込んで、相手の立場を譲れるのだろうか?

「日本人は宗教に寛容というのは嘘。よろずの神をよしとしない一神教には不寛容」
と訴える帰国子女の意見を聞いた。
「そういう人たちが八百万の神の名を使って、他の宗教信者を下に見る」
「そんな自分たちの信仰的土壌を誇らしげに話すとき、とても残念な気持ちになる」と。

 排他的を過敏に責める人は、どこかに自分が排他的な部分があるからでは?

 つくづくも「寛容」って難しいと思う。
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そんなことも知らないの?

2019-05-13 | 思うこと
別に宗教的な理由でなくて、私は夫と、神社仏閣のようなところに行ったことがない。
神社仏閣だけじゃなくて、城跡めぐりなんかもそうである。
夫がそういう場所に全く興味がないからで、自然や静かなところに行きたいならキャンプや洞窟になる。

これはおそらく夫が歴史に興味がないこともあるけど、いやそうではなくて、夫いわく自分は「人の歴史」に関心がないだけだと言う。
人類の歴史など恐竜に比べたらチンケなものだし、歴史というのは昆虫や海洋生物や地層、ひいては地球や宇宙の成り立ちのことだそうである。

私の偏見かもしれないが
「えーーーそんなことも知らないのお?」
「歴史に無知すぎるよ」
「思考停止してないで勉強するんだね」
とやたら言いたがる人って、人類の近代史や思想だけに特化している気がする。
そこだけマニアみたいに論じたがって、大袈裟に危機感を煽るようなことを言い、人にも押し付けたがる印象というか。(偏見?)

誰でも興味のある分野とない分野があって、分野によっては「そんなことも知らないことだらけ」である。
だけど「そんなことも知らないの?」「思考停止」と人に言いたがる人は、ある分野に偏っている人だけの気がする。(偏見?)
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どうでもいい話3

2019-05-12 | 日記
一人仕事だからなのか、よくこんな現象が訪れる。
それは「なんでこの曲?」という、何十年も前の歌謡曲が突然出てきて頭の中でリフレインすること。
そうなると、人知れず(これは気をつける)ハミングするしかなくなって充分怪しい人になる( ;∀;)

先日はなぜか、味覚糖の「ソフトいろいろ」というキャンディのCMソングが止まらず、気になってネットで調べたが「ない」ではないかo(T^T)o
昨今はタイムマシーンに乗ったように、何でもかんでもびっくりするくらい引き出せるというのに。
「バスボン」というシャンプーの歌も、シモンズの「チェルシー」も、のチェリーナ(台所洗剤)の「チェリーナ、君のかわいい手♪」も、ネオソフト(マーガリン)の「おいしい顔ってどんな顔♪」もちゃんと見れるのに。

その歌は
「なんて言ったらいいのかな~イチゴにチョコレートにアーモンド。
ちょっぴり私は欲張りなのです。
だから味覚糖~ソフトいろいろ♪」

という歌詞だった。
知っている方がおられたらちょっとうれしい(笑)
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ネットの文章2

2019-05-12 | 思うこと
ネットがなかった頃、何かを読むというと、ふつうはライターなり作家なりのプロの文章だった。
それがネットを読み始めてから、読んでる分野もあって、私をはじめ素人が書いているブログや書き込みばかりを多く読むようになった。
だからか、たまに本当のプロが書いている小説などを読むと、当たり前だけどレベルが違いすぎて呆然とする。

なんて上手いのo(T^T)o
やはりプロ。
これが文章や。

批判する人はどんなに偉そうなことを言っても、それで食べているわけじゃない、タダだから読まれる内容と文章力で書いている。
そんなお金を払ってまで読みたいわけない程度の駄文と内容で、それで食べている人まで、どんだけよ?という度合も知らず言いたい放題する。

プロはやはり「知って」「考えて」書いている。
我の出し加減もわかっている。
まあ、この加減を知らない未熟さも素人ならでは。

ネットってそんなところもある。

以下、駄文を書いている私が素人ながら気をつけていること。
ネチネチクドクドしたことを書く時は、文章をネチネチクドクドさせないのがコツと思う。
内容がネチネチで、文章までクドクド。
これで損をしている人はけっこう多いと思う。
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性格は変わらない2

2019-05-11 | S教団関係
ネットで、本当のところはどんな人かもわからない人は置いておいて、
あなたの実際によく知っている身内など身近な人が、Sをやったやめたやめないで性格が変わりましたか?どうですか?
というと
 

全くもって一ミクロンも変わらない。
だからSと性格など一切無関係。

というのが私の実感である。

そりゃ新聞配達をやっていたのをやめたとか、時間ができたとか生活パターンに変化はあるでしょうが、人の性格なんてそんなことでは変わらない。
独善的な主張が好きな人は、内容を変えただけで全く同じで黙っていない。
人の話を聞くか聞かないかも、噂好きかそうでないのも、そういう性格はどこにいっても同じである。

なので私は、Sのあの人はSのせいで性格がどうちゃら、という部分はだいぶ前から飛ばし読みしている。
それはそう言った方が都合のいい、こじつけと思う。
かつて、何でもかんでも功徳に見えるのと同じである。

いい人はいい人。
変な人は変な人。
それに完璧な人などいるはずもなく、人は多角的なもの。
願望をぶった斬るようで申し訳ないけど、私はあっさりとそう思う。

入会した時
「わあ、Sの人って温かくてさわやか~」
と思ったように
「わあ、アンチブログの人ってちゃんと人の気持ちに寄り添える人ばっかり~」
なーんてファンタジーを思っていたら早く目を覚ますように(笑)

それは今「共通の話題」だけについて話しているからで、ましてや「相手の一部分しか見せ合わずに済むネットの相手」だからである。

そんなふうに、おめでたく感じてしまうことが変わらないのと同じですよ。
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発信する人

2019-05-10 | 日記
夫と二人で映画を観に行った。
なんていうとラブラブなデートみたいだけど、そんなことをするのは今や夫が関わった作品だけである( ;∀;)

自分のやった仕事を「どや?」と私に見てほしい夫に付き合う意味もあるので、半分は妻の仕事のようなもの?なんだけど、でも上映されれば私はただの一視聴者。
専門的な技術などさっぱりわからないので、単純に作品を楽しんで観る。
今日も幸い、楽しんで観れた。

世の中には下手でも微力でも、自分から何かを生み出して発信している人と、
それを見て、批判するだけの人がいると思う。
自分はその世界で何もしていないのに、何かしている人をさも全てわかったように批判ばかりしている人。
「その人がいなかったら」何も言うことないのかな?

本当に世の中に発信をしている人は他人の批判より、そんな暇があったら、自分のより良い発信を考えている。
私はたまたま「映画」というごく一部の分野しか知らないけど、何かを生み出している人は皆そうである。

そうじゃないと、人を魅了させる作品なんて世に送り出せないんだろうなあ。
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よく見た景色

2019-05-09 | 思うこと
思想が違って揉める話はよくある。
私はその最たるものは宗教と思っていて、逆にいえばそこまで揉めるのは宗教くらいかと思っていた。

いやいや、とんでもなかった。
宗教信者が他宗を邪宗と忌み嫌うように、政治思想もそれがものすごかった。
S話ばかり見てきて、少し落ち着いたのもつかの間。
しみじみ知った。
例えば「私の両親は左寄り。でも彼氏は右寄りで何かというと『パヨク、アカ共』と攻撃口調で、親に会わせるか悩む」
といった悩みがあると聞いた。
あるでしょうねえ。

困ったことにこういう人たちは、相反する思想を持つ人を心底嫌っていて「教育してやる」気満々。
自分の政治信条を否定されると、露骨に不愉快になって激昂する。
政治信条など自由なのに、何かに傾倒している人って、自分はそう思うだけにとどまらず、ずかずかと相手の自由を否定したりめちゃくちゃにしようとする。
自分の価値観を押し付けたがる……

政治信条もどこかの世界と一緒なんだなあ。

何かに強く肩入れと何かを強く攻撃は、セットなのか表裏一体なのか。

支援するものには穏やかに温かい言葉をかけて、敵対する者には歯を剥きだして攻撃。
一人が極端に別人のようになる、この落差もよく見た景色である。
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味の記憶

2019-05-09 | 趣味の話
まだ独身でなーーんにもモノを知らない20代前半の頃、美味しいカクテルが飲める南国風のお店にいった時。
何気なく出されたパスタに驚いた。
それは魚介のトマトソースのスープに細麺のパスタだった。

パスタソースがスープのようにサラサラしていて、しかしそのスープがなんとも香り高い。
そして麺がこれまで知っていたナポリタンやミートソースやタラコのそれより
細い。
明らかに家庭料理とは違うもので、スパゲティというものはこんなものもあるんだ?!と思って、それからスーパーでまじまじとパスタのサイズを手にとってみた。
あーなるほど、麺って太さがいろいろあって、それはどんなソースに絡めるかで意味があるのだと知った。

こんなパスタが家でも食べてみたくて、早速作ってみた。
今みたいにネットで簡単に情報がとれる時代じゃなかったから、食べた味を再現すべく、味の記憶だけを頼りにやってみた。
そして、あーこれこれ!!と一応それらしきレシピができた時は感激した。

その思い出のパスタを今日作ってみましたよ。
レシピは秘密です( ;∀;)
なーんて恰好つけてみるほどたいしたものじゃなくて、私は文章同様、シンプルでショートカットなものしか作らない(笑)

魚介から出る旨味と玉葱と、コンソメと塩胡椒とバジルでおーーーっというソースができる。
 麺はいつもあの「ディチェコ」を使っていたんだけど、
 今日はカルディでお勧めの「モンスーロ」(お安いわよ)を使ってみた。

 歯ごたえがあっておいしゅうございましたv('▽^*)


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病まずへたれず

2019-05-08 | 日記
映画「少年H」を観た。(「ぽっぽや」を撮った降籏監督です)
劇場でも観たし、何度も観ている。

この映画のH少年は、激動の時代の中でいろんな価値観を見る。
「他宗を邪宗」というクリスチャンの母親と、それを「そんなふうに言っちゃいけない」とたしなめる父親。
思想によって「犯罪者」になって追われる人。
都合のいい新聞記事で惑わす人、惑わされる人。
出征を拒んで自死を選ぶ人。

ただ異国の絵葉書の一枚もっているだけで、レコードを聴くだけで、スパイと糾弾されて拷問や差別を受ける理不尽。
「正義」に駆られて、年端もいかない少年を何発も狂ったように殴りつける大人。
「君は天皇のために玉砕できるか!!」と、軍国精神に酔いしれるちょっとだけ年上の子どもが叫ぶ。

終戦後、「お国のために」と怒鳴っていた軍曹がコロッと共産主義に転じた。
それを見て、いつか海中で見た右左に揺れるワカメのようだと思う…

様々な正義や欺瞞や偽善をまざまざと見ながらも、H少年は何にも傾倒せず、病まずへたれず、自分本来の強く生きていく価値観だけは失わない。
その姿がどんな思想より、私には圧巻に思えるよ。
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ネット論争

2019-05-08 | S教団関係
ネットでいわゆる過激な独善を言っている人って、よく考えたらそれはネットの上での話である。
自分を正体不明にした途端、あくまで仮想空間で過激になる。
リアルでそんなこと言ったら、誰からも相手にされないからおとなしくて常識的。

それを威勢よく、迷惑行為だ!!と糾弾する人もあくまでネット上のこと。
リアルでそんな人はいないんだから、威勢よくなりたくても相手がいない。

実際は「そんな人いない」のに、仮想空間でどこの誰かもわからない人が独善的な演説をして、そんなバーチャルに一生懸命ムキになるやはりバーチャルな人。

リアルではとっくになくなっている過激思想を叫ぶ人と、それに塩を撒きたい人。
草創期にはあったかもしれない伝聞のあれこれを、仮想空間で体験してみたいんだろうか。

「撲滅させたい」なんて大嘘。
争うことが好きな人は平和になってはつまらないんだろうなあ。
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娘との会話14

2019-05-06 | 娘と夫の話
娘がスマホの調子がわるいと言ってきた。
触っているうちに画面が動かなくなって、一度電源を落としたら今度は暗証番号が利かず、ロックされたままになったという。
サービスセンターに問い合わせして、担当者と話をさせたら、
「初期化しなければいけないかもしれません。その場合はデータが消えるかもしれません。申し訳ありませんが、直接ショップの窓口にお越しください」
と言われた。
そうなると契約者である私も同行しなければならない。

外は雨で雷までなっていた。
娘は「しょうがない、明日でいいよ」そして「ねえ、暇だから映画でも観ない?」
と言った。
「あんなに毎日触っているものなのに明日でいいの?」
私なら速攻で雷の中でもを飛び出したと思うけど、娘は焦るタイプではなかった。

翌日窓口にいったら、残念ながらデータが消えてしまう方法しかなかった。
あんなにたくさん撮っていた何百枚もの写真が無くなるのにやはり娘は冷静。
「友達にまたもらうからいいよ」
「自分で撮った写真はいいの?」
「また撮るからいいよ。どうってことないよ」
そして落ち着いて、新しくいろいろな設定をしていた。
そして友達の数が一気に減っちゃった、とケラケラと笑った。

答えを待てるし、終わったことはサッとあきらめる。
これがうっかり人にやられたことでも、彼女は人を責めずに、全く同じ態度だったと思う。
そういう子である。

こういうところは私は娘に圧倒的に敵わない。
何十年も先を生きている私のずっと先を、あっさりと行っている部分である。
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ネットの文章

2019-05-06 | 思うこと
どこの誰が書いているか、物理的にわからないのがネットの文章である。

100の文章があったとして、理屈からいって、それを書いたのがどこの誰なのか、男なのか女なのか、本当なのか作り話なのか、100人が書いているのか、実は一人が書いているのか、10人なのか30人なのか50人なのか。
それはさっぱりわからない。
エスパーでもない限り、そんなことはわかるはずがない。

ただ私には、入ってくる文章とそうでない文章というのはある。
心地いい文章と違和感のある文章はある。

それは内容には関係なくて、文章が上手い下手でもない。
信じがたくても、自分とは反対意見でも、癖があっても、乱暴な言葉使いの悪口でも、きれいな水のようにスッキリ入ってくるものもある。
そして充分あり得ることで、とても謙虚に書かれているのに、オエッとくるものがある。

なぜかわからない。

それから不快ではないんだけど、何も感じない文章がある。
これはおそらく、自分の体験ではない借り物の言葉だからじゃないかなあ?と思う。

ただの個人的な感覚だけど、言えるのは文章って「その人そのもの」
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なくしてはダメ

2019-05-05 | 思うこと
リアルのみならず、ネットでいろんな宗教や思想を信者さんからの声から聞いて、私はこれでも
大きく認識を改めたことがある。

要はその人にとっての支えや生きがいになればいい。
それを奪ってはいけない。

何度も書いているが、それがデタラメであれ、滑稽であれ、他人には理解できなくても当人には大事なのである。
大嘘だからダメという人がいるが、例えばネットには一人何役もやってそれを楽んでいる人がいる。
バレバレでもアルアルでも、自分の言い分の正当化のためだったり、小細工だったり、憂さ晴らしや気晴らしでも、でもそれは本人には「なくてはならないもの」

悪口や批判の連投がそうである人もいる。
自慢話を楽しそうにする人もいる。
ヒステリーをぶちまける人もいる。
いいわるいではなくて、それがその人にとっては救いになって、精神やプライドを保っている。
宗教の宗派のようなものと思う。(どう違うの?)

それが不快だからくだらないからと撲滅させたら、その人の居場所がなくなってしまうではないか。
好き好んでそんな自由を選択する人もいる。

自分にも同じように生きがいや居場所があったら、そんなの脅威でも何でもないのでは?
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「ブードゥー・ワスプ」の話

2019-05-04 | 娘と夫の話
今日は夫が休みで、私は仕事で、娘は部活と家庭教師と、相変わらず予定が合わない。
でも一日べったりより、共有できる時間で遊ぶのが楽しい我が家である。

今朝は夫の方からわりにテンション高く話しかけてきたので、何の話や?と思ったら
俗称ブードゥー・ワスプという、コマユ蜂の1種の「寄生」についての話だった。

別の生き物に卵を産んで、養分を取って外敵から身を守りながら成虫する生物は多い。
あまり知られていないが、昆虫に寄生するキノコなんかもそうである。

だけどたいていは成虫したら宿主を食い殺してそこで終わるのに、このコマユ蜂の一種は、
蛾のイモムシに寄生して体内でを散々食い殺した挙句、しかし宿主を死なない程度に生き留めさせるそうである。
なぜならゾンビ化したイモムシは、まゆになった蜂を「体内から離れた後も」身体を揺らして外敵から身を守り続けるからである。


なんで?

寄生されていないそのイモムシは本来は温厚で、他の昆虫が近づいてきてもぼーっとして追い払う素振りなど見せない。
だけど寄生されただけで我が子でもない寄生生物が無事に成虫するまで、命を呈する強い母性のような生涯を終えるのである。

その理屈はまだ解明されていないけど、「まゆ」が外に出ても
イモムシの体内には蜂が産み付けた卵が残っていて、その卵があたかも同族を守るべく「イモムシを操っている」かのように見える。
これってちょっと怖いと思いませんか?

コントロールされることを人間の心理からばかり偏って知ったかぶりをしていたけど、「操る」って別の視野からも見てみると面白いかも。

情報、見識は、個人のバイアスに偏りがちなので、たまには目線を変えてみることもお勧めと思う。
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