隠れ家-かけらの世界-

今日感じたこと、出会った人のこと、好きなこと、忘れたくないこと…。気ままに残していけたらいい。

せめて「人の言葉」で~桐生市の教育委員会、学校の対応

2010年11月11日 13時32分58秒 | 日記

2010.11.9 (火)

 さすがに最近は見なくなったけれど、数年前までは年に何回か見る夢があった。

 どこかののどかな山の上。暖かい風、にぎやかな声。
 どうも私は遠足に来ているらしい。
  こんなのどかな風景の中、私はなぜか不安を感じている。
 誰か一緒に昼食を食べる人がいるだろうか・・・。

 小学校3年まで異常に人見知りだった私は、心の中ではけっこう生意気なことをつぶやくやつだったにもかかわらず、表面的にはいつも誰かのあとをくっついているような、そんな存在だった。
 記憶する限りいじめられていたという事実はないけれど、それでも夢で見るような不安な気持ちは、きっとあの頃の影響だ。成長するにつれて「え、そんな女の子だったの?」と言われるくらいに変貌?してしまったんだから。
 そんな大昔のことだって、無意識のうちに小さなトラウマになっていたりする。
 そう思うと、給食をいつも一人で食べていた桐生市の少女のつらさはどれほどのものだったか。想像するだけで胸が痛い。

 小学校6年生の少女が自ら命を絶ち、たしかにいじめがあった。それなのになぜ、「いじめと自殺の因果関係は不明」なのか。
 こんな年齢の女の子に、これ以外のどんな理由があったというのだろう。たとえあったとしても、いじめが大きな引き金になったことだけは誰も疑わない。

 学校はどこも今、異常な状態にあるという。私たちが「なぜ?」と思うことが、ふつうに現実になっているらしい。
 教師の過酷な日常については、報道からも知り合いの教師の話からもきいているから、大変だなとは思うけれど、給食を一人で食べていた少女への対応はどうだったのか。学級崩壊の現実をほかの同僚はどう見ていたのか。
 研修だの勉強会だので多忙を極めて、子どもたちに目がいかないなんて言語道断だ。そういうときに隠さずに自分のクラスの状態を説明し協力を求め意見を求め対処していく・・・、これ以上に意味のある研修なんてどこにあるというのだろう。
 担任も「因果関係は不明」と思っているわけではないだろう。組織の中の一員でしかないのかもしれないが、自分がすべきだったこと、できなかったこと、しなかったこと、を思えば、せめて生の声を、生の思いを両親に届けられなかったのか。
 外部の人間だから言えること、と片づけられるかもしれないが、そうだったら学校にはもう何も期待できなくなる・・・そう感じる人だって多いだろう。

 いじめをしていた子どもたちへのケアももちろん大事だ。
 ただし、守ってやること、触れないようにすることではケアにはならない。小学校6年といえば、幼子ではないのだ、十分に思慮を働かせ想像力をもって相手を見ることのできる年齢だ。
 自分たちがしたこと、しなかったこと、そしてその結果、友人が命を絶ったこと。自分たちの行いが人としてどんなに卑劣だったかを理解させたうえで、それでも「あなたたちは」やりなおせるということ、やりなおさなくてはいけないということを伝える。それがケアだろう。

 両親の心痛を思うと、本当にやりきれない。いじめに気づかなかったわけではなく、何度も学校に抗議してもそれが功を奏さなかったのだから、怒りと空しさはこちらの想像を越えているだろう。
 そして、どんなに学校を教師を責めても、きっと最後は自分にかえってくるにちがいない。娘は最後に自分たちのところに逃げてはこなかったのだから。
 大人になれば誰でもきっとそうだけど、最終的には悩みも苦しみも自分で抱えて対応するしかない。アドバイスは得られても、追い詰められてそこから這い上がるには、やっぱり「自分」だ。
 小学校6年生の12歳の女の子が、そんな年齢で暗闇に自らを追い込んで飛び立ってしまったことが、今回のことでいちばん悲しい。
 そういうことを、きっとご両親はずっと背負って生きていかれるのだ。その救いようのない日々を思えば、大人の事情で「いじめと自殺の間の因果関係は不明」などと突き放さず、せめて「人の言葉で」対応してほしい。そうすべきだと思う。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« もう一度 | トップ | どっちに振られればよかった... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。