隠れ家-かけらの世界-

今日感じたこと、出会った人のこと、好きなこと、忘れたくないこと…。気ままに残していけたらいい。

まだ七月だ・・・

2022年07月23日 19時33分15秒 | 日記

2022.07.23(土)



 まさに「」な毎日。
 まだ七月だけれど、どんなふうに過ごそうか、過ごせるだろうか、と何人かの顔を思い浮かべて考える。
 手放しで「夏と戯れていた時代」はいつごろまでだったのだろう。コロナとは関係なく、いつの間にか「手放し」ではなくなっていたのかな。ちょっと年齢を考えて、「かつて」の方向へ思考を逆戻りさせたりする。
 でも、独りよがりで十分だった日々はいつの間にか去って、家族や仕事や諸々を抱えるようになっても、夏にはちょっと解放されていた自分を思い出す。
 真っ青や空、重たい熱風やその合間を潜り抜けて私たちを誘うさわやかな風、気分が上がるから余計に怖くなる夏の終わりへのカウントダウン。永遠には続かない、当たり前に速い八月特有のスピード。
 さて、とりあえず「まだ七月」だ。
 誰かの笑顔や歓声や、去っていった人たちを悼む気持ちに寄り添って、今年も夏を過ごそうか。

 

  昼下がりの長池には、人間の気配はなかった。
 

 テレビで誰かが、「こんなに異常に暑い夏・・・、好きな人なんているんですか」と言っていたっけ。
 それでもやっぱり、好きなんだな。

 
 早朝に母の施設の郵便受けに母への手紙や書類を届けて、その帰り、緩い下りの坂道で思いきり転んで額をコンクリートに「ゴツン!」。たしかに音がした。

 とりあえず冷やして、タオルを巻いて、年を偽る若武者みたいな格好でパソコンに向かっている。
 誰にも言えないね、と相方。ホント・・・。
 だからせめて笑い話として、ここに書いてしまう。
 皆さんも気をつけましょう・・・なんて。


 20年前の父の法事で最後に会ってから、電話で何回か話しただけだった遠い親戚の女性が亡くなった。
 私と弟が小学生のころ、初めてボウリングに連れて行ってくれた人だ。生涯、ボウリングが趣味で、一時期プロを目指したこともあったらしい。私のプレイを見て、「筋がいい!」って褒めてくれたんだっけ。
 母の代理で簡素な葬儀に参列したが、長い闘病ですっかり小さくなっていて面影がなく、だれか知らない人の亡骸のようで、心が動かない自分が悲しかった。
 母にとってはかわいい姪のような存在。
 長く生きていると、こうして親しい人がぽつりぽつりと消えていく。
 
 
 家族三人がコロナ感染者になった一家。それぞれに熱も下がり、自宅療養から解放される日を待つだけ。
 だが、それでも最近の世の中の状況は、どこでどういう形で次の段階に進むのだろう。
 医療関係者、自治体の長、メディアがそれぞれに語ることに差異があって、われわれ一般人は戸惑うばかりだ。



 こんなに評価の分かれがちな政治家の国葬は論外だ。むしろ、政治家というのはそういうもので、それだからこそ、身内の自浄力によって、これまで国葬は何十年も行われなかったのではないのか。  
 議論も皆無のまま、普段は迅速な決断などしない人が「国葬」を言い出して、あっという間に「決定」か。
 (このように十分な議論のないままに重要事項をゴリ押しすることも、元首相の「功罪の罪の一つ」ではないかと思う)
 
 わが国が民主主義をあくまでも守ることを示すために国葬という形をとる、というあたりはやはり腑に落ちない。
 それより、どのようにしてこのような悲惨な事件が起き、その根底に何があるかを追求し、正しく罪を裁くことにこそ、進むべき道がある。
 それには、政治家とカルト集団との関係にも及ぶ捜査が必要だろう。
 
 野党の国葬批判と国民の総意にはズレがある、と発言した「お友達」の議員の発言は何を根拠としているのか。献花台に寄せられた花の数か。
 有志が哀悼の意をあらわすことに、異を唱えるつもりは毛頭ない。
 むしろ、このような無用な議論で死者の名前を何度も登場させるよりも、お身内で十分な弔いを行い、それに賛同する人間が自由に日本中のそれぞれの場でお見送りすればいい、と私などは単純に思うのだけれど。

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