2019.03.11(月)
ダラダラだって、生きていればいろいろなことにぶち当たる。そうして、小さなことにいちいち文句を言って、落ち込んで、ついでに悪口も言って、それでときには自己嫌悪に陥ったり、たいていは図々しく自己肯定してすませたりする。
そういうことの繰り返しだ。繰り返すうちに、ちょっとはマシになっているかもしれないけれど、それも見えないくらいにちっぽけな進歩だ。
そういうもんだ、それでいい、人間はそういうことの繰り返しでいい・・・。そう思うことが楽で、なかなかな処世術に思えてくる。
それが一年の大半の日々の私。
だけど、8年前の今日をさかいに、というか、最近ではこの日になると・・・、ちょっと立ち止まって背筋を伸ばしたりかがんだりしながら、考えることがある。
なんだか慌ただしく暮らしてきたこの一年、大事なことを忘れてないか、と。置き去りにしてはいけないことをそのまま放ってはいないか、と。
急に自分がいなくなることは、単純に「死」ということで年齢を重ねれば考えざるを得ないことだ。
そうではなく、まわりの人たち、自分が関わっている人たち、失いたくないと漠然と思っている人たちが、突然消えてしまうことだってあるという現実、恐怖、戸惑い。
だからと言って、何をしていいのか、なんてわからないんだけれど、とりあえず顔を思い浮かべて、かける言葉やお願いや伝えたいことなどを頭に浮かべる。その作業をする。そういう一日。
来年はひょっとすると、具体的に何かを思いつくかもしれない。毎年、期待しつつ、今はまだ思いつかないで、言葉を思い浮かべることだけですませている。
復興は同じ方向に向かっているんだろうか。もともと同じ方向に向かうことが無理なことなんだろうか。
「復興〇〇」と名のついた大きな試みや企画が、中央に暮らす人々の盛り上がりだけでOKとならないように見ていかなくてはならないと、ときどき思う。
「寄り添う」とはどういうことなのか、頭だけで考えても意味がないから、と、当時はあたふたと合理的ではない方法で仕事仲間たちとできることを模索して被災地とのつながりを作ってきたが、それを持続させていくこと以外に、8年たった今できることは何だろう、と。
それにしても、原発事故の後遺症のいかに大きく深いことか。今さらながら、ここに戻ってしまう。
施設の母のいるフロアで、この1年、とてもお世話になってきたスタッフの一人が「三日前から休んでいる」と昨日の母が言っていた。
ここ1か月ほど、勤務時間が限られていたようにも感じる。
私自身も、夜に面会に行くとき、若い彼女の対応を見たり、ひと言ふた言、言葉を交わすだけで気持ちがやわらいだ。
本当にやめてしまったのか、今度ケアマネジャーに尋ねてみようか。
母は、ほかのスタッフに気をつかって、尋ねられないでいる。
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