① 諏訪神社 ー8 太田健次郎様著
後話 陛下よりの杢の守の称号を賜る
名工佐藤善蔵は桜の人
諏訪神社造営の前に、京都御所、紫宸殿造営には選ばれて副棟梁を勤め、工事に当たり、拝殿の左右柱のそれぞれ南面に彫刻したのでした。これは善蔵独特の技法と言われている。桜の諏訪神社拝殿は、京都紫宸殿を模して造られたと言われています。亦、諏訪神社拝殿、軒下に組み込まれている彫刻の唐獅子は善蔵自らのてにより作られた作品であると言われている。
200年近い年月の風化で、証明する物件は何もないけれども、多分この京都紫宸殿造営完成後の事だと想像されます。完成後畏多くも、時の天皇ご後桃園陛下より、杢の称号を賜り、以後苗字帯刀をも許され、佐藤善蔵杢之守とそれより名乗ったと言われます。亦この時の褒賞に、巻物と、日の丸の絵の入った6本骨の扇を賜ったという、巻物は先代の時の亘理のある人に望まれて送り、扇は昭和の初期まで6本骨だけ残っていたが、これも不始末のため何時の頃からか行方不明となってしまった。この扇の骨を少々削り、煎じて飲めば、腹痛の妙薬として大正時代までに、この近在の人達が貰って飲んだと語っている人もいます。
善蔵の苗字帯刀を許された、其の大小刀も代々引き継がれて、大正の末期頃まであったが、先代の時代に漁具として、鍛冶屋で鰻掻に改造してしまった。大刀は安達先代の先生に望まれて差し上げたので、今は家にはない。
昭和10年2月、当時の村長加藤松男(故人片雲とも号す)時代に、諏訪神社裏門前に自ら揮毫して建立した剣道の一條左馬之助先生、意志の玉手正造先生、名工の佐藤善藏先生の遺徳を称え後世に伝えるための頌徳碑があります。名匠佐藤善藏杢之守の墓は、自照院東方の佐藤家代々が眠っています。広い墓地の南側に、東面を向き、長年の風雨の為に一部石塔は、剥落し、法名の字も鮮明を欠いていますが、大棟慧梁信士、享和3年歿、行年68才とあります。諏訪神社の方向をむき、神社を見守るように建っています。
折あれば一片の香華を乞う
昭和23年桜村勢発表の小冊子の中に、工匠佐藤善藏を賛える左のような文が載っています。 「現代の諏訪神社々殿を建築した先生は、斬界の名人として、京阪地方に名を馳せ遂に天聞に達し、後桃園帝より、優渥な聖旨を賜ったと、いゝ伝わる。故郷に帰るや近郷の総棟梁として技を教えた故に、明治の初め迄、先生の命日には、郡下の棟梁達が墓前に集ひ、技の上達、並に冥福を祈るのが例であった。 (墓前は観世音堂共葬墓地に、亦公園内にそれを偲ぶ碑文がある)
完