角田じいじの奮闘記

「心身共に元気で過ごす」を目標に趣味の一つである写真と日記を綴ってみたいと思います。

久ぶりの自転車で村田そして白石

2013-03-27 17:31:02 | 自転車

   5ヶ月ぶりの自転車

 3月15日村田の道の駅目指してロードバイクを走らせた。走行距離は40Km

 3月22日、今日は白石に向かった

大河原⇒北白川⇒白石⇒角田、白石川でひと休み、

帰りが113号線の山道を走った、上り坂は結構きつかった。走行距離は50Km

 

 

 

 

 

 

 


角田〝桜〟おらほの見どころ-9

2013-03-25 11:10:49 | 桜の見どころ

 諏訪神社 ー8  太田健次郎様著

後話  陛下よりの杢の守の称号を賜る

 名工佐藤善蔵は桜の人

 諏訪神社造営の前に、京都御所、紫宸殿造営には選ばれて副棟梁を勤め、工事に当たり、拝殿の左右柱のそれぞれ南面に彫刻したのでした。これは善蔵独特の技法と言われている。桜の諏訪神社拝殿は、京都紫宸殿を模して造られたと言われています。亦、諏訪神社拝殿、軒下に組み込まれている彫刻の唐獅子は善蔵自らのてにより作られた作品であると言われている。

 200年近い年月の風化で、証明する物件は何もないけれども、多分この京都紫宸殿造営完成後の事だと想像されます。完成後畏多くも、時の天皇ご後桃園陛下より、杢の称号を賜り、以後苗字帯刀をも許され、佐藤善蔵杢之守とそれより名乗ったと言われます。亦この時の褒賞に、巻物と、日の丸の絵の入った6本骨の扇を賜ったという、巻物は先代の時の亘理のある人に望まれて送り、扇は昭和の初期まで6本骨だけ残っていたが、これも不始末のため何時の頃からか行方不明となってしまった。この扇の骨を少々削り、煎じて飲めば、腹痛の妙薬として大正時代までに、この近在の人達が貰って飲んだと語っている人もいます。

 善蔵の苗字帯刀を許された、其の大小刀も代々引き継がれて、大正の末期頃まであったが、先代の時代に漁具として、鍛冶屋で鰻掻に改造してしまった。大刀は安達先代の先生に望まれて差し上げたので、今は家にはない。

 昭和10年2月、当時の村長加藤松男(故人片雲とも号す)時代に、諏訪神社裏門前に自ら揮毫して建立した剣道の一條左馬之助先生、意志の玉手正造先生、名工の佐藤善藏先生の遺徳を称え後世に伝えるための頌徳碑があります。名匠佐藤善藏杢之守の墓は、自照院東方の佐藤家代々が眠っています。広い墓地の南側に、東面を向き、長年の風雨の為に一部石塔は、剥落し、法名の字も鮮明を欠いていますが、大棟慧梁信士、享和3年歿、行年68才とあります。諏訪神社の方向をむき、神社を見守るように建っています。

  折あれば一片の香華を乞う

  昭和23年桜村勢発表の小冊子の中に、工匠佐藤善藏を賛える左のような文が載っています。  「現代の諏訪神社々殿を建築した先生は、斬界の名人として、京阪地方に名を馳せ遂に天聞に達し、後桃園帝より、優渥な聖旨を賜ったと、いゝ伝わる。故郷に帰るや近郷の総棟梁として技を教えた故に、明治の初め迄、先生の命日には、郡下の棟梁達が墓前に集ひ、技の上達、並に冥福を祈るのが例であった。  (墓前は観世音堂共葬墓地に、亦公園内にそれを偲ぶ碑文がある)

 

                                                  完

 


角田〝桜〟おらほの見どころ-8

2013-03-14 19:28:02 | 桜の見どころ

 諏訪神社 ー7  太田健次郎様著

第九話  木彫りの鼠に猫が噛みつく

 善蔵宮大工として、修行を積み職人となり、その後棟梁となり、諸国の神社造営に当たっている頃の話である。

 土地の殿様が、神社を建立するに当たり、名工に依頼したいと思い、諸国の大工棟梁に呼びかけました。多くの名棟梁が集まり、依頼するにも、あまりにも人数が多いので選考に困ってしまいました。ふと殿様は一計を案じ、大工棟梁に向かい「これより20日後に木彫りの鼠を作って参れ、其の出来具合によって、神社建立を依頼する」(現在の実技試験)と言い渡し鼠の素材を殿様より渡された。そこで、大工棟梁達は、各々自宅に帰り、懸命に鼠作りを行ったのでした。

 5日過ぎ、15日過ぎ、納期日は5日と迫った。この頃には善蔵以外の大工棟梁達の鼠作りは、大体出来上がり、このねずみ作りが殿様のお眼鏡にかなえばと各自最後の仕上げに精を出している時、善蔵は角袖揃いの着物を着、角帯をしめ、一室に閉じ籠り外には出ず、寝てばかりいたと言う。

16日目よりやっと作り始め、昼夜ぶっ通し仕事にかかり、提出の前日に作り終え、当日は各大工棟梁達の作った木彫りのねずみと一緒に御殿に差し出したのでした。差し出したねずみを殿様は一堂に並べ、一作品、一作品、品定めをしたが、いずれも精魂を籠めて作った品だけに、優劣をつけがたかった。殿様は一計を案じ、家来に命じ「猫をつれて参れ」と云い、猫をねずみの並べてある一堂に放してみると、他の作品には目もくれず、放されると同時に真直ぐに善蔵の作りしねずみに喰いついて走り去ってしまったと言うことです。

 殿様のこの猫を使っての裁定も見事であったが、善蔵の猫をも欺く作品には、多数の家来達は勿論、居並ぶ棟梁達も、只々驚きいったということです。それで善蔵は新神社造営を許され、数多くのご褒美を下されたという。

 名工棟梁善蔵は、持って生れた天稟のなせる技量才気の人であったことが伺える。作りしねずみを、鰹節を充分使った出し汁に作品をいれて、三日三晩ぶっ通しに煮染ませてからそれを差し出したので、猫も出し汁の味の利いた強烈な臭いのするねずみに喰いついたのだと言われています。次の様な話もあります。殿様から渡された、その素材を仕出し屋に頼み、仕出し汁の中に何日も入れてもらい、煮染ませてもらってから作ったと語る人もいます。

第十話  傘型の家の設計

 善蔵は晩年、自宅建築の計画を立てていたが、多忙に取り紛れ、実行が出来ず急逝してしまったので、弟子達が代わって建てようとしたが、善蔵が設計した居宅は、傘型の一本柱の丸い家の設計なので、弟子達は弩の如何ようにしても、建てようがなく、仕方なく、田の字型の一般的な家にしてしまったと言う。其の弟子達の合作の居宅も今はなく昔を偲ぶものは何もなくなってしまった。

                   次回は後書きにて完

写真は諏訪神社のお神楽のスナップ

 

 


角田〝桜〟おらほの見どころ-7

2013-03-06 20:50:35 | 桜の見どころ

 諏訪神社 ー6  太田健次郎様著

第六話  善蔵行燈製作

 ある時、殿様より行燈製作の依頼を受けましたが、名人気質なうえ丁寧なので、なかなか製作が捗らず、出来上がらない内に、殿様より催促がきてしまいました。催促がきたときは、行燈の四角の立木のうち、3本は出来ていたが、残りの一本はこれからのときであった。

 催促が来て急いで作ったせいか、精魂が籠められてなく雑なのか、出来上がった行燈に火を灯しても、3本の角木の影がでなかったが急いで作った一本の角木は影が映ったという。それまでは善蔵行燈として世間に知られ有名で、善蔵の作った行燈は火を灯しても、全く影が出ないと言われていた。

 

第七話  桁に晒布を巻き長くする

 善蔵棟梁となり所々神社造営に当たっている時、日もよく、建前の当日の事であった。作業も進み、組木をしてみると大事な処の桁が何者かによって短く切り離されていたので、善蔵は町より、晒布の反物を二反を買い求めさせ、それを短くなっている桁に巻付けた。両端の晒布を縒りをかけ、多数で引くのによい位に長くした。上棟式の当日の事だから賄の手伝いに多数女の人達が集まって居た。女の人達の手伝いを受け、桁をのばす為に縒りを掛けた晒布の両端で持ってもらい、それ引けとかけ声をかけ、音頭を取り、何回となく引っ張ってもらい長く使用したと言う逸話あります、いかに佐藤善蔵が名人であったかということが伺える。

 

第八話  金槌で梁を叩き長くする。

 次のような話も伝えられている。建前の当日、柱も立て順調に作業も進み、梁組作業へと移った。とある一本の梁がどうした事か、短くて使用出来なくなっていた。

 善蔵は、それでは長くしてやるからと言って、金槌で長くなれ、長くなれととなえ幾回となく梁の先端をとんとん叩いたところ、今度は叩き過ぎたので、長くなった分を切り直して使用したと言う。


角田〝桜〟おらほの見どころ-6

2013-03-05 14:18:42 | 桜の見どころ

 諏訪神社 ー5  太田健次郎様著

第四話  善蔵の弁当

 当時の事とて、山野で立木を切倒し、其の場で墨付け製材する時代なのである。善蔵は朝家を出て、現場に着くと持参していった昼の弁当をそばの杉の枝にひょいと高い所に投げてやり、枝に引っ掛けて置くのであった。その高さは地上20尺も30尺もあった。(高い所に掛けることは、野犬、野猫から防ぐため)そして仕事をしていたと言う。

 昼食時になると、弁当の方を向き手招きをすると腰を下ろしている善蔵の膝元に落ちてきたと言う。 こう話しをする人もいます。

 

第五話  善蔵独特の斧使い

 善蔵がある建築工事で職人として働いている頃、大きな建設のため、材料が所せましと積んであることもあった。その合間で職人達と並んで木材を手斧で削るのである。隣の大工も同じ仕事をするため、斧屑が善蔵の仕事をしているところに故意か自然か飛んできて迷惑すること度々でした。

再三、再四注意しても改めずにいるので善蔵も相手がその気ならばと意地を出し、斧屑を隣の方に飛ばし始めた。すると、その斧屑は隣の大工の斧先に、からみ付き、払っても払っても、後から後から飛んできて、斧にからみ付くので、彼らは仕事も出来ず悲鳴をあげ閉口したという。

善蔵の斧の使い方は、誰にも真似の出来ない独特の技があったと言われている。