ロンドンのウォーレス・コレクションにフランス・ハルスの傑作「笑う騎士」の絵がある。
http://www.wallacecollection.org/c/w_a/p_w_d/d_f/p/p084.htm
ハルスの闊達な筆のタッチが今にも噴出しそうな笑顔を生き生きと描き出し、繊細なレースや細やかな刺繍描写も素晴らしい作品だ。少し離れたところに立っていた私は騎士の笑顔に魅せられ、絵の前まで近寄ってみた。絵は私の目の位置よりもやや上方に展示されおり、私の視線は少し仰ぎみるように騎士の視線と出会った。ところが、あの愉快な笑顔が急に傲慢な人を見下すような視線と笑みに豹変したのだ!今でも変わっていなければウォーレス・コレクションのガイド本の表紙はこの騎士の絵だし、画集にも載っていると思うので、お持ちの方は試しに下から仰ぎ見ていただきたい。私には未だに画家の意図なのか偶然なのかよくわからない。とにかく視線の位置によって絵の印象がこんなにも変わるものかと驚いてしまった。
ところで、最近、損保ジャパン「17-19世紀のフランス絵画」展でギュスターヴ・クールベ(Gustave Courbet、1819-1877)の「出会い、こんにちはクールベさん」を観た。
http://www.sompo-japan.co.jp/museum/exevit/index5.html
私的には、クールベはCARAVAGGIOのリアリズムの流れを汲む画家だと認識しており、その写実主義の画風は大好きである。ところが、この絵の前で不快を覚えた。ハルスの「笑う騎士」とは違って、クールベ画家自身の傲慢さを感じたのだ。私は画家とは時代も国も異なる鑑賞者である。もしかして、異なる文化間の視線の違い=誤解によるものかもしれない。しかし、実際に絵から感じた不快感は拭えず、ささやかな考察を試たくなった。
「出会い、こんにちはクールベさん」は129 x 149 cmと、かなり大きな油彩画である。
http://www.artchive.com/artchive/C/courbet/bonjour.jpg.html
当時のフランス・アカデミー画壇からその革新的な写実主義を非難されていたクールベだったが、ようやく画家を理解し支持するパトロンにめぐり会うことができた。そのパトロンのブリュイアスをモンペリエに訪ねた時の情景を描いたのがこの作品だ。私的に観ても、画面はモンペリエの明るい陽射しと風景を的確に描写し、影による陽光の表現は新鮮だし、道端の草花も生きている良い絵だと思う。ブリュイアスはこの絵を記念として大切に飾っていたらしい。と言うことは、描かれた側としても満足していたのだろう。
さて、画面では登場人物たちが歴史画の如く堂々等身大で描かれている。描かれているのは向かって右に旅姿のクールベ、左寄り中央にブリュイアス、その左に従者。美術研究家によれば、この作品の構図は「さまよえるユダヤ人に語りかける町のブルジョワジー」という民衆版画の構成を下敷きにしているとのことだ。私も画集で確認したのだが、版画は向かって左にややうつむき加減の若いユダヤ人、右に二人のブルジョワジーが向き合って立っており、構図は確かに似ていた。ところがこの「出会い」では、画家が自分をユダヤ人に擬えたとしても、顔を上げ、胸を反り返し、版画とは違って実に尊大な姿を見せている。反対に、ブルジョワジー役(?)のブリュイアスは画家の訪問に対し帽子を手に敬意の挨拶姿勢を取る。その従者も主人に倣って画家に頭を下げ、敬礼をしている。
絵の前に立つと、写実主義のクールベが切り取った場面は、どうも画家自身を主人公として描いたもののように見えてしまうのだ。もしかして、クールベは民衆版画の主従の位置関係を意図的に逆転してしまったのではないだろうか?そんなことを考えながら観ていたら、どうも画家の傲慢さが鼻についてきた(笑)。画家自らだけを描く自画像ならば、いくら傲慢不遜でもかまわないが、実在の人物を引き立て役として、自らを歴史画の英雄的主人公の如く描いているなんて反則じゃないか…と(^^;;;
ところで、クールベには良く似た構図の作品がもう1枚ある。その「村の子供に施しをする婦人たち」は、向かって左に村の貧しげな少女、右に二人の上品な若い女性が描かれている。この女性たちのモデルはなんとクールベの妹たちだ。施しを受ける村の少女の身になれば、描かれる立場としてはたまったものではない。画家の身内の徳ある姿を描くために引き合いに出されるなんて…(^^;;
実は偶然「出会い」における民衆版画の構図引用に関しての一説を読んだ。クールベが自分を彷徨えるユダヤ人に重ねたことについて、「ここには、文明化された社会の中で一野蛮人として生き、民衆に語りそこから知恵を引き出し、放浪と独立の生活を送ろうとする画家の考えがこめられている」とのこと。きっと、識者の目にはそう映るのだろう。
恥ずかしながら、私はただの絵画好きに過ぎず、美術史をまともに勉強したこともない。おまけに19世紀フランスについての知識もない。時代も生まれ育った国も違うし、その文化的背景の違いによる誤解もあるかも知れない。しかし、同じ人間として見る時、構図の逆転は民衆側に立つ英雄としてより、返って自尊心の強い普通の人間であることを証明してしまったのではないかと思われるのだ。
もしかして、謙虚さを美徳とする日本人の視線と、西洋の自負心そのもののような画家の絵が出会った時、ハルスの「笑う騎士」のように、異なる文化間の視線の違い=誤解によって「傲慢さ」に変じてしまったのかもしれない。
絵画は観る側の視点により様々な側面を見せてくれる。これも絵画鑑賞の楽しみのひとつかもしれないなぁと思った。
http://www.wallacecollection.org/c/w_a/p_w_d/d_f/p/p084.htm
ハルスの闊達な筆のタッチが今にも噴出しそうな笑顔を生き生きと描き出し、繊細なレースや細やかな刺繍描写も素晴らしい作品だ。少し離れたところに立っていた私は騎士の笑顔に魅せられ、絵の前まで近寄ってみた。絵は私の目の位置よりもやや上方に展示されおり、私の視線は少し仰ぎみるように騎士の視線と出会った。ところが、あの愉快な笑顔が急に傲慢な人を見下すような視線と笑みに豹変したのだ!今でも変わっていなければウォーレス・コレクションのガイド本の表紙はこの騎士の絵だし、画集にも載っていると思うので、お持ちの方は試しに下から仰ぎ見ていただきたい。私には未だに画家の意図なのか偶然なのかよくわからない。とにかく視線の位置によって絵の印象がこんなにも変わるものかと驚いてしまった。
ところで、最近、損保ジャパン「17-19世紀のフランス絵画」展でギュスターヴ・クールベ(Gustave Courbet、1819-1877)の「出会い、こんにちはクールベさん」を観た。
http://www.sompo-japan.co.jp/museum/exevit/index5.html
私的には、クールベはCARAVAGGIOのリアリズムの流れを汲む画家だと認識しており、その写実主義の画風は大好きである。ところが、この絵の前で不快を覚えた。ハルスの「笑う騎士」とは違って、クールベ画家自身の傲慢さを感じたのだ。私は画家とは時代も国も異なる鑑賞者である。もしかして、異なる文化間の視線の違い=誤解によるものかもしれない。しかし、実際に絵から感じた不快感は拭えず、ささやかな考察を試たくなった。
「出会い、こんにちはクールベさん」は129 x 149 cmと、かなり大きな油彩画である。
http://www.artchive.com/artchive/C/courbet/bonjour.jpg.html
当時のフランス・アカデミー画壇からその革新的な写実主義を非難されていたクールベだったが、ようやく画家を理解し支持するパトロンにめぐり会うことができた。そのパトロンのブリュイアスをモンペリエに訪ねた時の情景を描いたのがこの作品だ。私的に観ても、画面はモンペリエの明るい陽射しと風景を的確に描写し、影による陽光の表現は新鮮だし、道端の草花も生きている良い絵だと思う。ブリュイアスはこの絵を記念として大切に飾っていたらしい。と言うことは、描かれた側としても満足していたのだろう。
さて、画面では登場人物たちが歴史画の如く堂々等身大で描かれている。描かれているのは向かって右に旅姿のクールベ、左寄り中央にブリュイアス、その左に従者。美術研究家によれば、この作品の構図は「さまよえるユダヤ人に語りかける町のブルジョワジー」という民衆版画の構成を下敷きにしているとのことだ。私も画集で確認したのだが、版画は向かって左にややうつむき加減の若いユダヤ人、右に二人のブルジョワジーが向き合って立っており、構図は確かに似ていた。ところがこの「出会い」では、画家が自分をユダヤ人に擬えたとしても、顔を上げ、胸を反り返し、版画とは違って実に尊大な姿を見せている。反対に、ブルジョワジー役(?)のブリュイアスは画家の訪問に対し帽子を手に敬意の挨拶姿勢を取る。その従者も主人に倣って画家に頭を下げ、敬礼をしている。
絵の前に立つと、写実主義のクールベが切り取った場面は、どうも画家自身を主人公として描いたもののように見えてしまうのだ。もしかして、クールベは民衆版画の主従の位置関係を意図的に逆転してしまったのではないだろうか?そんなことを考えながら観ていたら、どうも画家の傲慢さが鼻についてきた(笑)。画家自らだけを描く自画像ならば、いくら傲慢不遜でもかまわないが、実在の人物を引き立て役として、自らを歴史画の英雄的主人公の如く描いているなんて反則じゃないか…と(^^;;;
ところで、クールベには良く似た構図の作品がもう1枚ある。その「村の子供に施しをする婦人たち」は、向かって左に村の貧しげな少女、右に二人の上品な若い女性が描かれている。この女性たちのモデルはなんとクールベの妹たちだ。施しを受ける村の少女の身になれば、描かれる立場としてはたまったものではない。画家の身内の徳ある姿を描くために引き合いに出されるなんて…(^^;;
実は偶然「出会い」における民衆版画の構図引用に関しての一説を読んだ。クールベが自分を彷徨えるユダヤ人に重ねたことについて、「ここには、文明化された社会の中で一野蛮人として生き、民衆に語りそこから知恵を引き出し、放浪と独立の生活を送ろうとする画家の考えがこめられている」とのこと。きっと、識者の目にはそう映るのだろう。
恥ずかしながら、私はただの絵画好きに過ぎず、美術史をまともに勉強したこともない。おまけに19世紀フランスについての知識もない。時代も生まれ育った国も違うし、その文化的背景の違いによる誤解もあるかも知れない。しかし、同じ人間として見る時、構図の逆転は民衆側に立つ英雄としてより、返って自尊心の強い普通の人間であることを証明してしまったのではないかと思われるのだ。
もしかして、謙虚さを美徳とする日本人の視線と、西洋の自負心そのもののような画家の絵が出会った時、ハルスの「笑う騎士」のように、異なる文化間の視線の違い=誤解によって「傲慢さ」に変じてしまったのかもしれない。
絵画は観る側の視点により様々な側面を見せてくれる。これも絵画鑑賞の楽しみのひとつかもしれないなぁと思った。
うーん、19世紀の人間も今の人間も見る眼にはあまり変わらないということですかな。
okiさんのブログにも書きましたが、図録を購入しなかったので、まるっきりの自分勝手な感想でした。なので、19世紀の人々も私と同じように見えたことにホッとしております(笑)。いや、本当に、名画をネガティヴに捉えた感想文を書いてしまって良いのだろうかと悩んだのですよ。
しかし、okiさん、そうなると展覧会の鑑賞者から不快だ(傲慢だ)という感想を聞かないのがかえって不思議だとは思われませんか?(笑)
ベーコンの「劇場のイドラ」ではないですが、権威ある評価に踊らされて、古典絵画には疑問をほとんど抱かない、価値ある絵画なんだろうと思ってしまう。
逆にそういう絵画に不快感を感ずるJuneさんが新鮮です。
前後しますが、私は「クールベさん」の絵には彼一流の皮肉を感じます。パトロンへの感謝を出会いと言う象徴的な形で描いた中にも、世間での絵描きの社会的に微妙な立場(宿命ですが)や当時評価されていたアカデミスム(権威への迎合?)を笑い飛ばしそうな雰囲気がむしろ軽快で、さすがクールベ、ただでは雇われ画家に成り下がらないのだなぁとニヤリとしてしまいます。
なんだか反論みたいですが、私の率直な感想ということでご勘弁ください・・・。
実はいま、新宿のホテルから書き込んでます。いかにしてこの週末にクールベさん(新宿と三鷹)に会いに行こうかと計画を練っています。
もしかして私の不快感はマルセル・デュシャンの「泉」を見て、「この便器は不快だ」と言っているのと同じなのかもしれませんね(笑)。デュシャンを見に来る鑑賞者の多くはその美術史的意味・評価を予め了解して見ているので、不快には感じないし、現代美術の革命であると賞賛するのだと思います。でも、「泉」はデュシャンの付け加えた意味を取り去れば既製品の「便器」に過ぎませんよね(^^;;;
で、新鮮とおっしゃっていただき、ありがとうございます(笑)。「こんにちはクールベさん」の美術史的意味を排したところでの感想を述べるなんて、現代では稀少価値でしょうね(自爆)
きっとクールベは、敢えて画壇・社会に対しての挑発の意味で描いたのでしょうね。描かれる立場からのご洞察にはとても説得力があります。いや、本当に桂田さんのご感想の方が正当な見方であり評価なのだと思います。
ただでは雇われ画家にならない…確かにクールベらしいですよね(笑)。しかし、その表現として描かれるのが胸を張る画家だけでなく、頭を下げる従者だというのが…どうも(^^;;;。ほら、ブリュイアスは頭を下げていないでしょう?パトロンにはやはり気を遣って、従者なら構わないって言う意識が見えるような気がして…。施しをする子供に対しても同じように感じます(大汗)
しかし、今回の展覧会で、その美術史的な意味を敢えて排し、一つのタブローとして観た場合の声があまり聞こえてこないのが寂しいです。
ところで、桂田さん、同じ東京の空の下ですよ~!もしかしたら、どこかの美術館でばったりお会いできるかも…と期待しております(^_-)-☆
最近忙しいみたいで、中々書き込みが出来ずにいました…。
しかも、未だにコメントを消化しきれていません…。あぁ、すみません。
実際に、生の原画を見に行ってないので、判り難いのですが…。
Juneさんのコメントを読むと、
うーーん、そのクールベに感じた傲慢さ、見下す視線は、なんとなく感じられますね…。
と言うか、まぁ…、画家自体がその様な雰囲気を出しているのかも…。たぶん、それは、クールベの時代も、今も変わらないと思います…。
クールベの場合は、パトロンの人ですが…。
あ、すこしクールベの心情とは異なるとは思いますが…。
今でも、私の仲間内でありますね…。まぁ、若い内に誰でも経験するのですが…。良くある事だと、私は思います。
私も昔、そんな感じでしたので。今は?と聞かれると、そうでもないのですが…、
なんとなくクールベの心情は判るような…気がします。
なんか少し愚痴っぽくなってしまいました…。すみません。
もうすこしじっくり考えてみようと思います。では、また。
課題がたくさん...お忙しいでしょうが、勉強です。頑張ってくだいね。
で、地味に盛りあがっている(いた?)クールベさん話題にご参加、ありがとうございます(^_-)-☆
なにしろ私は観るだけの人間で、描かれる立場の視線がなかなかわからない場合があります。でも、このクールベさんの描きかたは、kohsakaさんもなんとなく感じていただけたように、ちょっと傲慢...と思いました。kohsakaさんがおっしゃっているのは多分、クールベの自負心は画家一般に共通するものだ、という事のように思われます。確かにある意味、無から創造するのは神にも似た行為ですし、描いた作品は画家にとっては真であり美であり、画家の信念の表現そのものであるような気がします。胸を張りたくなるのもわかるような気がします。でも、画家クールベさんって、そんな自分を描いちゃっていいんでしょうかね?(^^;;。それも、パトロンだけでなく、従者までも巻き込んで...。まぁ、そんなところが当時の画家からは良くやったと評価されるところでもあるのでしょうが...。
>まぁ、若い内に誰でも経験するのですが…。良くある事だと、私は思います。
ううっ...若いkohsakaさんがそんなことおっしゃって...(^^;; でも、そうなんですかぁ...。
描く側からのクールベ共感意見はなるほどで、桂田さんも同じく共感されていますし、これはやはり観る側の立場=視点の問題かもしれませんね。
で、kohsakaさん、よくわかりましたし、全然愚痴っぽくなかったですよぉ。貴重なご感想、ありがとうございました!
Juneさんにはお話ししたかもしれませんが、頭をさげる従者は場面としてはクールベに対してではありますが、作家の意図としてはむしろパトロンの引き立て役として従順な犬とともに描かれているのではないかと思います。しつこいようですが、私はこの絵にクールベの自意識過剰な傲慢さよりもパトロンへの敬意の方を強く感じてしまいます。
それにしても、画家の傲慢さについてのkohsakaさんの言及はさすがその世界にいらっしゃるだけあってリアリティありますね。私は日本の美術界(美術教育界?)については門外漢の域を出ませんので、わからない部分が多いのですが、マーケットとしての美術界を考えると傲慢さのある制作側の姿勢というのは現状の裏返しでもあり、釈迦の手でコントロールされる孫悟空のようでもある感じがいたしました。
はい、桂田さんがこの絵で、パトロンへの敬意の方を強く感じていらっしゃって、クールベさんに好意的であることは存じておりますです。犬と従者をそういった目で眺めると、私も、そうかもしれないなぁ、と思います。ホントですよ(笑)。第一、初回にも書きましたように私はこの作品を絵画的には評価しているのですから。今日もうらわ美術館でクールベは良いなぁ~と観てきたところですし(笑)。
絵画に盛り込まれた寓意って、素人目には一見わからない場合があります。例えば(あくまでも例えですからね(^^;;;)、画家が段段畑を階層化社会の寓意として、叙情性に富んだ色彩豊かな表現で描いた場合、素人はその画面の色彩とかに目が行き、寓意に気が付かないケースもあると思うのです。画家の意図するところは、画家の視線を辿れる目利きによって解き明かされるのだろうと思います。
しかし、一般的に作品は画家の意図を離れて、観る人によって様々な感想を生むものです。それもまた、その作品の持っているそれぞれの側面でもあるように思われます。クールベさんもそれぞれの視線に曝されて、様々な視点からの色々な感想があってもよろしかろうと...思っちゃうんですよね(^^ゞ