ニュールンベルク「ゲルマン民族博物館」のコンラート・ヴィッツ《オルスベルク大祭壇画》の一部である《受胎告知》について興味深く勉強してしまった。
コンラート・ヴィッツ(Konrad Witz, 1400/10-1445/46年)はドイツ生まれだが、主にスイスで活動した画家である。1434年からバーゼルで活動し、バーゼルで死去している。
コンラート・ヴィッツ《受胎告知》(1437~1440年頃)ゲルマン民族博物館
https://objektkatalog.gnm.de/wisski/navigate/20432/view
興味深いのは、マリアの足元(右下から斜め上)にかかる影である。この画像ではわからないかもしれないが、実は額縁の影として描かれているのだ。
同じ《オルスベルク大祭壇画》の一部である《金門での出会い》をバーゼル美術館で観ているが、バーゼルで撮った写真の方が、額縁の影が分かりやすいかもしれない。
コンラート・ヴィッツ《金門での出会い》(1437~1440年頃)バーゼル美術館
《金門での出会い》は後年、背景がに金色に塗りつぶされており、当初は《受胎告知》と同様に背景が描かれていたようだ。
さて、《受胎告知》の影に話を戻すと...すなわちお勉強したことね
①額縁は現実世界に在り、影は絵画世界にあり、「現実世界」と「絵画世界」が交錯している。
②影の方向は必ずしも正確ではなく、窓の桟の影は外から右下へ落ちている。
③それに対し、天井の梁の影は右下からの影のように見える。
額縁の影が柱のように見え、同一画面上で影の方向が異なる先例と言えば...そう!ファン・エイク兄弟によ《ヘント祭壇画》なのだ!!
ファン・エイク《ヘント祭壇画》より《受胎告知》(1432年)シント・バーフ大聖堂
《受胎告知》の聖なる空間は額縁の影に見られるように右上前方からの光と影であるが、後方の窓から見える世俗空間である街並みは左上からの光と影である。家並みの屋根の連なりがギザギザ三角形の影を落としているのが見えるのだ。
ご参考:「Closer to VanEyck」
「ヴィッツの様式はドイツにおける後期ゴシックからルネサンスへの移行期のそれであるといえる。ドイツ南西部シュヴァーベン地方の伝統(写実主義と細部へのこだわり)とブルゴーニュ地方のスタイルに影響を受けたモチーフ(量感と身振りによる感情表現)の融合は、この画家がフランスあるいはオランダにおいて修行時代を過ごした可能性を考えさせる。」(Wikipediaより)
どうやらコンラート・ヴィッツは絵画修行遍歴の旅で《ヘント祭壇画》を観た可能性があるようなのだよ。
>今のドイツとフランス、スイスとのいう国の区分は当時はなかったと考えたほうが
本当にそうですよね。だからこそ、画家修業遍歴が広域に渡っているのでしょうね。