扇の的
この前から叔父が残していった戦前の教科書から面白い記事拾って載せている。
扇の的 昭和5年の中学校の教本より
さるほどに、阿波、讃岐に平家に叛きて源氏を待ち受けるつわものでも、そこの嶺、ここの洞より、十四五騎、二十騎うち連れうち連れ馳せくるほどに、判官程なく三百騎餘にかなり給いぬ。きょうは日暮れぬ、勝負を決すべからずとて、源平互に引退くところに、沖より尋常に飾ったる小舟一艘、汀へ向かいて漕ぎ寄せ、渚より七八段許りにもなりしかば、舟を横ざまになす。あれはいかにと見るところに、舟の中より年のよわい十八九許りなる女房の、柳の五つぎぬに紅の袴着たるが、皆紅の扇の日出したるを、舟のせがいに挟み 立て、陸に向かってぞ招きける。
判官、籐兵衛実基を召して、「あれはいかに。」と宣えば、「射よとにこそ候うらめ。但し大将軍の矢おもてに進んで、けいせいを御覧せられんところを、てだてに狙うて射落せとの謀とこそ存じ候へ。さりながら、扇をば射させらるべもや候うらん。」と申しければ、判官「身方に射つべき仁は誰かある。」と問い給えば、「てだれども多う候うなかに、下野の国の住人那須の太朗資高が子に、與市崇高こそ子平には候へども、手はきいて候。」と申す。判官「証拠があるか。」「さん候。かけ鳥などをあらそうて、三つに二つは必ず射落し候。」と申しければ、判官「さらば與市呼べ。」とて召されけり。
與一その頃は未だ20許の男なり。褐に赤地の錦をもって、おほくび、はたそでいろへたる直垂に、よもぎ縅の鏑着て、あしじろの太刀を佩き、24歳たるきりうの矢負い、うすきりふに鷹の羽はり合わせて、はいだりけるぬだめの鏑をぞさし添えたる。重籐の弓脇に挟み、冑をば脱いで高紐にかけ、判官の御前に畏まる。判官「いかに與市。あの扇の真中射て、かたきに見物させよとかし。」と宣へば、與市「仕えるとも存じ候わず。これを射損じるものならば、永き身方の御弓矢のきずにて候べし。一定仕ろうずる仁に、仰せつけらるべうもや候らわん。」と申しければ、判官大いに怒って、「今度鎌倉を立って西国へ向かわん狡者どもは、皆義経が下知を背くべからず。それに少しも仔細を存ぜん人々は、これより疾う疾う鎌倉へ帰られるべし。」とぞ宣ひける。與市重ねて辞せば悪しかなんとや重いけん、さ候はば外れんをば存じ候わず。御諚にて候へば、仕ってこそ見候はめ。」とて、御前を罷りたち、黒き馬の太う逞しきに、まろほやすつたる金覆輪の鞍おいて乗ったりけるが、弓取りなおし、手綱かいくつて、汀へ向かいてぞ歩ませける。
身方の兵ども、與市が後を遥かに見送って、「この若者一定仕らうずると覚え候。」と申しければ、判官もたのもしげにぞ見給いける。矢ごろ少し遠ざかりければ「海のなか一段許りうち入ったりけれども、なお扇のあはいは、七段許もあらんとこそ見えたりけれ。頃は2月18日酉の刻許りのことなるに、おりふし北風激しく吹けば、浪も高りけり。舟はゆりあげゆりすえて漂へば、扇もくしに定まらずひらめきたり。沖には平家船を一面に並べて見物す。陸には源氏つくばみを並べてこれを見る。いずれも、はれならずということなし。與市目をふさいで、「南無八幡大菩薩、別しては我が国の神明、日光の権現、宇都の宮、那須のゆぜん大明神、願わくはあの扇の真中を射させてたばせ給へ。これを射損ずるもの、ならば、弓きり折り自害して、人に再びおもてを向かうべからず。いま一度本国に帰さんと思し召さば、この矢外させ給うな。」と、心の中に祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹きよわって、扇も射えよげにこそなったりけれ。與市鏑を取って番い、よっぴいてひゅうと放つ。小兵というでう、十二速三ぶせ、弓は強し、鏑はうら響くほどに長鳴りして、あやまたず扇の要際一寸許りおいて、ひゆうっとぞ射切ったる。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞあがりける。春風に一もみ二もみ揉まれて、海へさっとぞ散りける。皆紅の扇の日出たるが、夕日に輝くに、白波の上に漂い浮き沈みつゆられけるを、沖には平家舷を叩いて感じたり。陸には源氏箙を叩いてどよめきけれ。-平家物語―
現代頭語に直せば微妙にニュアンスが変ってきてどうすればよいか難しかった。先ずは自分なりに書き替えて見た。
3度に1度は失敗する。失敗すれば鎌倉軍に大恥をかかすことになるので、与一はしぶった。だが、義経は「オレのいうこと聞けない奴はサッサと鎌倉に帰れ」と強引だった。
与一は神仏にすがって命がけで矢を射った。その時の与一の心境がひしひしと伝わってくる文章だ。