~ 恩師の御講演「心身の神癒」より ~
訳者はしがき
人の救われるのは神学によるのではなく、真理そのものによって、真理そのものを生きることによって、である。
さればこそイエスは、「真理は汝を自由ならしめん」と仰せられたのであり、
「神学は汝らを自由ならしめん」とは決して仰せられなかったのである。
多くの宗教がそうであるが、現代のキリスト教も又人間「我」の小智が造り上げた神学に立てこもっている
(従って又他派と対立している)ために、かつての十二使徒時代の、
ただひたすらにイエス・キリストの語り給うた言葉(真理)によって人々の心身を現実に
癒やした力を失っているのが大部分である。
そのためイエスは第二次大戦後南アメリカ連邦のヨハネスブルグ在住の著者(故人)を
えらんで氏の上に再現し給い現在のキリスト教会の誤りを指摘しつつ、
二千年前に語り給うた真理(ロゴス)の真実義を明かし給うたのが本書である。
イエス・キリストをキリスト教徒のみの独占的存在と思うのは独断的迷妄であり、本書の訳者註にもある通り、
いわゆる異教徒であっても、かつ又名もなき一市井人であっても、彼らが真理を生き、
世の一隅を照らしている限り、イエス・キリスト(その他の、仏教風に云えば、諸天善神)
は彼らに御自身を示現し、かつ慈導し給うのである。
まさしく真理は万人のものである。
本書の訳出にあたり、原語のthe Christを神我(真我)、the Christ of Godを分霊としたことに対して
最初は抵抗を感ずる読者も少なくないであろうが、
読み進むにつれてイエス御自らのみ言葉によってまさしくその通りであることが納得されるであろう。
その納得によって読者が、そして又訳者も、transmutation (変性)してイエスとともに愛の権化となることを祈ってやまない。
尚、文中イエスが「わたし」と称される場合は、①歴史的人物としての
「わたし」、②万人に内在する神我としての「わたし」、③超越、普遍神と一体となる「わたし」、
従って創造主としての「わたし」、を意味する場合がある事を老婆心までに付言しておきたい。
訳文中の〔 〕内は訳者の補訳又は補註である。
本書は既刊(霞が関書房)の拙訳書「ヒマラヤ聖者の生活探求(全五巻)」と「解脱の真理」と
その内容において密接に関連している。
本書の読者がこれらの書をも併読されれば、真(神)我への自覚と、
その自覚より湧き出るもろもろの力とのいや増しに増し行くのを実感されるであろう。
~ 感謝・合掌 ~