1. 手の萎えた人をいやす (からし種)
イザヤ58:11-14 (神に従う道)
マルコ3:1-12
(手の萎えた人をいやす)
Ⅱコリント5:1-10 (地上の幕屋)
「イエスは手の萎えた人に,
『真ん中に立ちなさい』と言われた。
そして人々にこう言われた。
『安息日に律法で許されているのは,
善を行うことか,悪を行うことか。
命を救うことか,殺すことか。』
彼らは黙っていた。」
(マルコ3:3,4)
Ⅰ
先週の聖書の日課で,この安息日に関して,
イエスさまは基本的なことを
次のようにおっしゃいました。
「安息日は,人のために定められた。
人が安息日のためにあるのではない。
だから,人の子は安息日の主でもある。」
(マルコ2:27)
Ⅱ
(マルコ3:1-6)
(手の萎えた人をいやす)
このことが明らかになるのが,
今日の出来事です。
イエスさまが礼拝を守るために
安息日に会堂に入られると,
そこに片手の萎(な)えた人がいました。
礼拝に出席していた人々は,
ここに神の御子が来てくださっているという
素晴らしいことは受け入れません。
ただ,安息日の決まりを破る人が
今日も安息日を破り,
片手の萎(な)えた人を癒(いや)すのか,
それとも安息日だから
癒さないのかという関心をもって,
イエスさまを見ていました。
このことを見抜いておられたイエスさまは,
片手の萎えた人に向かって
「真ん中に立ちなさい」
(マルコ3:3)
とおっしゃいました。
わたしたちは,
日本語(新共同訳)で
今日の聖書の箇所を読んでいます。
「そこに片手の萎えた人」
(マルコ3:1b)
という節を読み過ごすかもしれません。
ところが,
マルコによる福音書を編集した人にとって,
読み過ごされては困る文字があります。
安息日の問題を取り扱っている
この箇所では,
「人」という文字が大切です。
イエスさまは,おっしゃいました。
「安息日は,人のために定められた。
人が安息日のためにあるのではない。
だから,人の子は安息日の主でもある。」
(マルコ2:27)
このイエスさまのお言葉を聞くと,
「人」という文字が
大切であることが分かります。
安息日と「人」とのかかわりが
問題になっていることも分かります。
この「人」という文字を編集者(マルコ)は,
「手の萎えた人」のところで使っています。
わたしたちの用いている新共同訳聖書で,
「手の萎えた人をいやす」
(マルコ3:1-12)という箇所を読むと,
4節,5節,6節に
「人々」という文字が出ています。
そこでは,
日本語で読む場合に分かりやすいように,
「人々」という文字が
便宜上使われています。
しかし,ギリシャ語の聖書では使われていません。
もとの文字では「彼ら」です。
また,「ファリサイ派の人々」
や「ヘロデ派の人々」のところは
「ファリサイ」,「ヘロデ」という文字が
複数形で書かれているに過ぎません。
新共同訳聖書では,
複数形を伝えるために
「人々」という言葉を使っています。
こういう使い方をされては,
編集者(マルコ)としては困ります。
編集者(マルコ)は「人」という文字に
注目してもらいたいので,
「手の萎えた人をいやす」
(マルコ3:1-12)という箇所では
「人」という文字は
「手の萎えた人」にだけ使っています。
それはイエスさまが
しようとしておられることを
よく理解していたからです。
「イエスは手の萎えた人に,
『真ん中に立ちなさい』と言われた。」
(マルコ3:3)
そこにいる人たちにとっては安息日の決まり,
「律法」が中心でした。
会堂の真ん中には「律法」が立つべきでした。
すなわち,
律法を解説する「律法学者」が立つべきでした。
その真ん中に,
イエスさまは「片手の萎えた人」
(マルコ3:3)を立たせたのです。
マルコによる福音書を編集した人は,
そのことの大切さを知っているので,
ここで大切な文字である
「人」という文字を使います。
会堂の真ん中に,「人」が立ちます。
その「人」の片手は萎えました。
ここには,
弱くて脆(もろ)い「土の器」である
「人」が,
会堂の真ん中に立っています。
Ⅲ
(Ⅱコリント5:1-10 地上のすみか)
今日の第2の朗読の箇所で,
この「人」のことをはっきりと示しています。
パウロが書いた
コリントの信徒への手紙二5章の箇所で,
パウロは2つのことを明らかにします。
一つは,
「わたしたちの地上の住みかである
幕屋が滅びても,
神によって建物が備えられていることを,
わたしたちは知っています」
(Ⅱコリント5:1)と書きます。
もう一つのことは,
「体を住みかとしているかぎり,
主から離れていることも知っています」
(Ⅱコリント5:6)
と書いています。
体を住みかとしている
「わたしたちは,
天から与えられる住みかを
上に着たいと切に願って,
この地上の幕屋にあって
苦しみもだえています」
(Ⅱコリント5:2),
「幕屋に住むわたしたちは
重荷を負って呻(うめ)いている」
(Ⅱコリント5:4)のです。
「苦しみもだえ」という文字も
「呻く」という文字も原語では,
同じ文字が使われています。
この人の一人として,
手の萎えた人は会堂の真ん中に立ちます。
Ⅳ
(マルコ3:1-6)
(手の萎えた人をいやす)
イエスさまの眼は,
助けを必要としている人へと
真っ直ぐに向けられます。
しかし,会堂に集まっている人々は
手の萎えた人の必要よりも,
安息日にその人が
癒されるかどうかに向けられています。
ましてや,
安息日を設けられた神様の御心へとは
向けられません。
そのような人々に,イエスさまは,
「安息日に律法で許されているのは,
善を行うことか,悪を行うことか。
命を救うことか,殺すことか」
(マルコ3:4)
と問いかけられます。
それは,安息日が設けられた神様へと
心を向けるようにとの問いでありました。
礼拝に来ていても,
神様との生きた
かかわりを失っていた彼らには,
答えられませんでした。
イエスさまは彼らがかたくなな心になり,
神様とのかかわりを
失っていることを知って悲しみながらも,
安息日の主として,
手の萎えた人を癒してくださいました。
安息日は人のために定められ,
人が安息日のためにあるのではありません。
この安息日を主として,
支配しておられるのはイエスさまです。
しかし,
神様との生きたかかわりを失っていると,
イエスさまが安息日の主として,
どのような時にも人間の必要に
答えてくださることが分からなくなります。
病の束縛から解放してくださるイエスさまは,
心のかたくなさ,
罪をも解放してくださる安息日の主です。
☆彡
(マルコ3:1-12)
(手の萎えた人をいやす)
イエスはまた会堂にお入りになった。
そこに片手の萎えた人がいた。
人々はイエスを訴えようと思って,
安息日にこの人の病気をいやされるかどうか,
注目していた。
イエスは手の萎えた人に,
「真ん中に立ちなさい」と言われた。
そして人々にこう言われた。
「安息日に律法で許されているのは,
善を行うことか,悪を行うことか。
命を救うことか,殺すことか。」
彼らは黙っていた。
そこで,イエスは怒って人々を見回し,
彼らのかたくなな心を悲しみながら,
その人に,
「手を伸ばしなさい」と言われた。
伸ばすと,手は元どおりになった。
ファリサイ派の人々は出て行き,
早速,ヘロデ派の人々と一緒に,
どのようにして
イエスを殺そうかと相談し始めた。
イエスは弟子たちと共に
湖の方へ立ち去られた。
ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。
また,ユダヤ,エルサレム,
イドマヤ,ヨルダン川の向こう側,
ティルスやシドンの辺りからも
おびただしい群衆が,
イエスのしておられることを残らず聞いて,
そばに集まって来た。
そこで,イエスは弟子たちに
小舟を用意してほしいと言われた。
群衆に押しつぶされないためである。
イエスが多くの病人をいやされたので,
病気に悩む人たちが皆,
イエスに触れようとして,
そばに押し寄せたからであった。
汚れた霊どもは,
イエスを見るとひれ伏して,
「あなたは神の子だ」と叫んだ。
イエスは,
自分のことを言いふらさないようにと
霊どもを厳しく戒められた。
○
Ⅱコリント5:1-10 (地上の幕屋)
わたしたちの地上の住みかである
幕屋が滅びても,
神によって建物が備えられていることを,
わたしたちは知っています。
人の手で造られたものではない
天にある永遠の住みかです。
わたしたちは,
天から与えられる住みかを
上に着たいと切に願って,
この地上の幕屋にあって
苦しみもだえています。
それを脱いでも,
わたしたちは裸のままではおりません。
この幕屋に住むわたしたちは
重荷を負ってうめいておりますが,
それは,地上の住みかを
脱ぎ捨てたいからではありません。
死ぬはずのものが
命に飲み込まれてしまうために,
天から与えられる住みかを
上に着たいからです。
わたしたちを,
このようになるのに
ふさわしい者としてくださったのは,
神です。
神は,その保証として
“霊”を与えてくださったのです。
それで,わたしたちはいつも心強いのですが,
体を住みかとしているかぎり,
主から離れていることも知っています。
目に見えるものによらず,
信仰によって歩んでいるからです。
わたしたちは,心強い。
そして,体を離れて,
主のもとに住むことをむしろ望んでいます。
だから,体を住みかとしていても,
体を離れているにしても,
ひたすら主に喜ばれる者でありたい。
なぜなら,わたしたちは皆,
キリストの裁きの座の前に立ち,
善であれ悪であれ,
めいめい体を住みかとしていたときに
行ったことに応じて,
報いを受けねばならないからです。
(2006年7月1日 聖霊降臨後第4主日)
(福山教会)