以前、私は自分の小学生のころのことをブログに書いたと思います。自慢こきみたいなので削除したようで、検索しても出てきません。すいませんがもう一度書きます。
昭和40年前後でしょう。その頃、3年か4年だった私は大変な読書家で、放課後の図書室で一冊読み、借りて帰って家でもう一冊、という生活でした。年間300~400冊読んでいたと記憶しています。我ながら他にすることがなかったのか不思議なのですが、分厚い名作全集(活字が2段組みになっていた)なども、他の本を読み飽きると、2度3度と読んでいました。だから、今、新潟市に講演に来る先生が「手ぢかなダイジェストのような本より、表現が細かいちゃんとしたものを」と言われるのも、少しわかります。まあ、時代が違うし、その子の特質によるので無理強いはどうかと思いますが。もちろん本と同時にマンガ本も読んで、自分でも落書きをテストの裏にびっしり描いていましたから、要するに、変わった子どもだったのと思います。今でいうところのナントカでしょう。
その頃、図書室の先生は「倉石さん」というおばあちゃんでした。私が2年になった時に倉石さんは着任されたのですが、檀上で紹介されたあと、担任の先生が「あの人の先祖はすごーく偉い人なんだよ」と言ったのを覚えていて、図書室の机に座った倉石さんに「ねえ、どんなお家なの?大臣の人?」などとまとわりついた覚えがあるのです。当時、大臣にそんな人がいたのを子どもながらに知っていたのでしょうか。その時の彼女の「え~」と困ったような笑顔を覚えています。それから数年は、はげしく図書館の本を読みつづけたので、ある日その倉石さんに「あなたは図書室でもう読むものがなくなっちゃったわね。市の図書館に行きなさい。ハンコを持って行ってね」と言われ、高田のお堀端にあった市立図書館に通うようになりました。また、友だちと数人で彼女の家に遊びにいったこともありました。東本町小学校(東本町2丁目)のすぐ近く、間口1間そこそこの小さな2階建てのお家に住んでおられ、2階のこたつでおしゃべりした記憶があります。
それから月日は流れ、平成になり、数年前、そのお家のあったあたりに行ってみると、もう家はなく空地が広がっていて、そこに小さな記念碑と大きな看板(倉石家の謂われが書いてある)がありました。「ああやっぱり立派なお家の人だったのだな」とイメージでその看板を眺めてきました。
最近、『ぶら高田』浅倉有子 他/著(北越出版)という本を手にすることがありました。そこに「倉石侗窩(どうか)と文武済美堂」というページがあり、泉豊さんという人が文章を書いておられました。そして、何気なく読みだして、あの倉石先生は倉石侗窩の子孫だったに違いない、と思うようになりました。おそらく一人暮らしだったと思われる倉石さんの小さいお家の様子から、きっと彼女が倉石家の最後の人だったのだなと心がきゅっと締め付けられるような気持ちです。(28年4月訂正記事あり。前島密との関連から調べていくと、もっとまともな情報が得られます。失礼しました。)
私が今、市立図書館に執着するのは、もとはあの倉石さんの一言だったと思うと、今の職員にはちと迷惑かも知れませんが、まあ、こんな物語もあるんだね、と。 誰かが検索してここにたどり着くこともあるかも知れません。一人で暮らし、小学校の図書室で子どもに囲まれた倉石さんの姿を、ここに残せればと思っています。