昨日の午後2時半の頃、テレビで緊急大雨情報が出されたのでよく見ると、そこは大隅半島の肝付町だった。
ここ鹿屋市の南部に位置する我が家辺りでも、当時、弱い雨が降っていたのだが、その情報には驚きだった。
何と午後2時10分までの一時間雨量が「120ミリ」だったのである。
たしかに昨日から東風が強く、それは太平洋から北上して来た高気圧の西側の縁から吹き出す東風で、それに乗って太平洋上の高い温度かつ湿った空気が大隅半島の東側(太平洋側)に突き当り、線状降水帯を形成したものに違いない。
それにしても台風がらみでもない限りこんな120ミリという激雨は経験したことがない。
2か月前の台風10号の時には、中心が九州にあるのに思いもよらない遠方の東北地方で南からの強風に乗って線状降水帯が発生し、甚大な雨量を観測したばかりだが、今度のは台風でも何でもない普通の高気圧の移動中の現象だった。
昔ならこの高気圧は「すがすがしい秋晴れ」をもたらす配置にあるのだが、何しろ太平洋を流れる黒潮の水温が高過ぎる。太平洋側に日本列島がすっぽり入ってしまうような広域で異常に水温が高い。
昭和13年の10月15日、今からもう86年も前の話だが、秋台風が今度線状降水帯が発生した肝付町の太平洋岸(旧内之浦町)に接近し、大雨をもたらしている。
雨は内之浦・高山・吾平で特に強く降り、山津波が発生し、広瀬川・高山川・姶良川はすべて氾濫し、川筋にある田はことごとく泥流のなすがままだった。
この水害による大飢饉などの発生はなかったようだが、実は隠れた大きな被害があった。
それは国鉄大隅線である。
当時の大隅線は志布志から大崎・東串良・串良・高山・吾平・鹿屋の主要駅を通って錦江湾沿いにある港町・古江まで、約45キロの単線の鉄路であった。その当時はまだ国鉄「古江線」と言っていた。
古江線が国有化されたのは昭和10(1935)年。
その当時、志布志から東串良までの線路幅は1067ミリの狭軌だったのだが、串良から古江までは762ミリの軽便鉄道仕様だったので、東串良で列車の交代が行われるという不便な路線であった。
そこで3年後の13(1938)年の10月に古江駅から東串良駅までの線路幅を762ミリから1067ミリに変えるという「改軌」が行われた。その竣工は10日であった。
ところがその5日後の10月15日に、先に述べた台風が大隅半島に甚大な水害をもたらしたのである。
改軌したばかりの新しい鉄路は至る所で寸断され、特に洪水が起きた河川に架かる橋は無残にも橋桁だけを残して流れ去ってしまった。
しかし九州の国鉄各地の管理署からの応援隊が集まり、まさに日に夜を継いでの復旧工事が行われ、何とか生き延びた。
もしこの時までに国有化されていなかったら、つまり私営鉄道のままであったら間違いなく倒産し廃線となっていたに違いない。
国鉄大隅線の廃線は1987(昭和62)年であったから、大水害後ほぼ半世紀は動いていたが、時あたかもモータリゼーション時代に突入し、まさに「水(時代の趨勢)に流された」ことになる。
垂水から国分(霧島市)まで1972(昭和47)年に延伸されて「国鉄大隅線」となったのだが、赤字路線(地方特定交通線)として国鉄民営化の直前に廃止となった。
志布志駅から国分駅まで33駅、98キロの国鉄大隅線は、全線開通したのも束の間、わずか15年で廃線となり、大隅半島から鉄路が消えたのであった。