鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

大水害の予兆?

2024-10-22 11:28:37 | おおすみの風景
昨日の午後2時半の頃、テレビで緊急大雨情報が出されたのでよく見ると、そこは大隅半島の肝付町だった。

ここ鹿屋市の南部に位置する我が家辺りでも、当時、弱い雨が降っていたのだが、その情報には驚きだった。

何と午後2時10分までの一時間雨量が「120ミリ」だったのである。

たしかに昨日から東風が強く、それは太平洋から北上して来た高気圧の西側の縁から吹き出す東風で、それに乗って太平洋上の高い温度かつ湿った空気が大隅半島の東側(太平洋側)に突き当り、線状降水帯を形成したものに違いない。

それにしても台風がらみでもない限りこんな120ミリという激雨は経験したことがない。

2か月前の台風10号の時には、中心が九州にあるのに思いもよらない遠方の東北地方で南からの強風に乗って線状降水帯が発生し、甚大な雨量を観測したばかりだが、今度のは台風でも何でもない普通の高気圧の移動中の現象だった。

昔ならこの高気圧は「すがすがしい秋晴れ」をもたらす配置にあるのだが、何しろ太平洋を流れる黒潮の水温が高過ぎる。太平洋側に日本列島がすっぽり入ってしまうような広域で異常に水温が高い。

昭和13年の10月15日、今からもう86年も前の話だが、秋台風が今度線状降水帯が発生した肝付町の太平洋岸(旧内之浦町)に接近し、大雨をもたらしている。

雨は内之浦・高山・吾平で特に強く降り、山津波が発生し、広瀬川・高山川・姶良川はすべて氾濫し、川筋にある田はことごとく泥流のなすがままだった。

この水害による大飢饉などの発生はなかったようだが、実は隠れた大きな被害があった。

それは国鉄大隅線である。

当時の大隅線は志布志から大崎・東串良・串良・高山・吾平・鹿屋の主要駅を通って錦江湾沿いにある港町・古江まで、約45キロの単線の鉄路であった。その当時はまだ国鉄「古江線」と言っていた。

古江線が国有化されたのは昭和10(1935)年。

その当時、志布志から東串良までの線路幅は1067ミリの狭軌だったのだが、串良から古江までは762ミリの軽便鉄道仕様だったので、東串良で列車の交代が行われるという不便な路線であった。

そこで3年後の13(1938)年の10月に古江駅から東串良駅までの線路幅を762ミリから1067ミリに変えるという「改軌」が行われた。その竣工は10日であった。

ところがその5日後の10月15日に、先に述べた台風が大隅半島に甚大な水害をもたらしたのである。

改軌したばかりの新しい鉄路は至る所で寸断され、特に洪水が起きた河川に架かる橋は無残にも橋桁だけを残して流れ去ってしまった。

しかし九州の国鉄各地の管理署からの応援隊が集まり、まさに日に夜を継いでの復旧工事が行われ、何とか生き延びた。

もしこの時までに国有化されていなかったら、つまり私営鉄道のままであったら間違いなく倒産し廃線となっていたに違いない。

国鉄大隅線の廃線は1987(昭和62)年であったから、大水害後ほぼ半世紀は動いていたが、時あたかもモータリゼーション時代に突入し、まさに「水(時代の趨勢)に流された」ことになる。

垂水から国分(霧島市)まで1972(昭和47)年に延伸されて「国鉄大隅線」となったのだが、赤字路線(地方特定交通線)として国鉄民営化の直前に廃止となった。

志布志駅から国分駅まで33駅、98キロの国鉄大隅線は、全線開通したのも束の間、わずか15年で廃線となり、大隅半島から鉄路が消えたのであった。


「上野原縄文の森」で研修

2024-10-19 11:07:48 | おおすみの風景
10月18日、鹿屋市のリナシティで開かれている市民講座『考古学と郷土史』を受けている講座生ほか12名で霧島市国分の上野原縄文の森を訪れ、講師の前の縄文の森園長であった堂込さんに、施設案内と研修を兼ねて指導していただいた。

この10月からリニューアルオープンしたばかりである。

そのリニューアルの目玉は「上野原に居住していた人々の年代が、かねてより1100年早まった」というものだ。

上野原縄文の森は、上野原遺跡の発掘によって南九州の早期縄文時代の様相が明らかになり、また住居跡の調査研究により開園当時は「9500年前の住居跡が継続して見つかり、その数は52軒」という古さも古い上に、軒数も驚くべき数だということでセンセーションを巻き起こした。
このクリアファイルは開園10周年(2012年)に見物した時、購入したと思うのだが、ファイルの上部には白抜きで「9500年前の時間旅行」とタイトルが入っている。

今年は開園22周年だが、10周年の時点では明らかに、上野原縄文人は9500年前の人たち――という認識だったのだが、ここへきて1100年も時代がさかのぼることになり、何と「10600年前の人たち」と1万年を超える太古に生きた人々ということになった。

講師の堂込前園長はリニューアルした展示を中心に解説していただいた。奄美諸島の縄文時代や縄文時代から続く弥生時代の展示の中で、旧大根占町の南部の海岸段丘で蹉跌の採取中に発見された「山ノ口遺跡」のコーナーは注目に値した。
秀麗極まりない「山之口式土器」の中に、なんと取っ手の付いた大型のカップがある。思わずこれでビールを飲んだら・・・と快哉かつ驚きであった。

その下にある二つの軽石製の岩偶も面白い。かつて写真で見たことがあったが想像よりはるかに大きい。何に使われたか不明とされているが、子孫繁栄のシンボルのようだ。
とにかくすごいのが、高さ5mほどもある土器群の展示だ。最も古い向こうからこちらまで96個体あり、年代も13000年前から3000年前の物まで、1万年にわたる縄文土器群が南九州ではほぼ途切れることなく発掘されている。

中でも向こうの柱から3番目と4番目の間に置いてある8000年前の「壺型土器」だが、首の部分から下はまるで人間の肩が張り出したような形で、底部は平底である。

どうしてそんな形に作ったのだろうかと首を傾げ、同時に、よくバラバラにならずに発見されたものだと感心するほかなかった。

土器群を一通り見て回った後、県内最新の発掘調査状況を展示する一室で解説を受けたあと、少し休憩をとり、休憩後は外のフィールドにある住居群を訪れた。

住居跡の床面に桜島由来の黄色味を帯びた火山噴出物(軽石)が見られたことから、その噴出年代は10600年前なので居住年代も以前の9500年前から1100年繰り下げられた。

フィールドの手前には「地層観察館」、奥の方に「住居跡」の床面を展示する施設があり、当時の縄文人(上野原人)が生活していた匂いのような物が感じられた。

これと似たのが福岡県の春日市に「奴国の丘」とかいう施設があったのを思い出したが、あちらは弥生時代、こちらは1万年以上前だから比較のしようがないが・・・。




竹田恒泰の日本史教科書

2024-10-13 16:14:26 | おおすみの風景
「そこまで言って委員会」(読売テレビ)は日曜の午後の番組として人気があるが、今回はレギュラーコメンテーターの竹田恒泰氏が中学校用の日本史の教科書を執筆し、文科省に申告していることを取り上げていた。

竹田恒泰氏は旧皇族の竹田宮の出身で、父の恒和氏はオリンピック委員としてその名が高かったが、国際オリンピック連盟(IOC)の某委員に賄賂を贈ったとして取り沙汰されたことがあった。

ただし私腹を肥やしたわけではないので、今回の2021東京オリンピックの開催に当たって私腹を肥やした某広告会社の人物とは一線を画せる人であった。

それはそれとして息子の恒泰氏は才気煥発の人で、歴史には並々ならぬ関心と知識を持ち併せており、歴史教科書を書いたことにさほどの驚きはない。
他のコメンテーターたちの質問に答える竹田氏。

ただ旧皇族という立場であるから、一般的に天皇制擁護の論陣を張るのは予想ができる。

中でも古代史以前の日本文化の発展に関して、一般史学的には中国発祥のものが朝鮮半島経由で日本にもたらされた結果とされているが、そこに異議を唱え、中国大陸からの直接的な伝播の方にシフトすべきだとしているようだ。

稲作にしろ鉄器にしろ銅鏡にしろ、朝鮮経由が全くないとは言えないが、むしろ大陸との直接の交流によってもたらされたとする方が、受動した文物の多様性から見て本流の可能性が高い。

(※先日、鹿屋市の吾平振興会館で肝付町(旧高山町)出身という元新聞記者だった古代史研究家のU氏の講演を聞いたが、氏の説では南九州のクマソは中国南部(呉越)あたりからの渡来人で、先進的な文物を携えて来たゆえ、南九州をはじめ九州各地に勢力を拡大して「九州王朝」をつくり、そこから全国に打って出たそうである。竹田氏のはクマソと特定するものではないが、中国勢力の流れが列島の古代を彩ったと考えているのとは当たらずと言えども遠からずか。)

中で某女史が投げかけたのが「竹田日本史は邪馬台国問題を避けているのでは?」という質問だった。
皇族とはつまり大和王権の系譜につながる者だから、山口女史は当然「邪馬台国畿内説」を教科書に書くものと思っていたらしい。

ところが竹田氏の見解は邪馬台国九州説であった。その論拠は示さなかったが、解釈の上で様々な説があり、中学校の生徒対象の教科書としては煩雑過ぎると考えて、あえて邪馬台国の所在地問題については触れなかったのだろう。

賢いと言えば賢いやり方である。

氏が最も提起したかったのは、古墳時代を「大和時代」とすることだったという。

平安・平城(奈良)・飛鳥と時代をさかのぼり、その次は「古墳時代」となるわけだが、古墳時代にはすでに奈良の古称である大和地方に王権があったのだから「王都としての大和」を時代名にすべきだという考えである。

3~6世紀に古墳という埋葬施設が大小多様に作られたのは史実だが、古墳という考古学的な物だけでは歴史を語るには不十分過ぎる。記紀やその他の文献を捨て去っては歴史の神髄は得られない。

当時の王権の都合のいいように書かれたのも史実であり、そこをどう拾捨勘案して再構成するかが歴史家の腕の見せ所だろう。


縄文の森がリニューアルオープン

2024-10-07 19:17:20 | おおすみの風景
旧国分市(霧島市)の上野原遺跡にある展示施設「上野原縄文の森」が10月5日にリニューアルオープンした。

上野原は旧国分市が開発しようとしていた工業団地で、開発前の事前発掘調査によって見つかった縄文時代早期の遺跡が見つかった。私は平成9(1997)年の春にあった説明会に出かけたのを覚えている。

何しろ古い遺跡で、南九州ではどこでも普通に堆積している「鬼界カルデラ」由来の「アカホヤ火山灰」の下に目を見張るような遺物が眠っていた。

平底で角型の薄手の土器群や「縄文の壺」まで出土したことで一躍有名になった。

また住居跡の遺構が多数出土したのも驚きで、日本全国を見渡しても定住の分かる最も古い遺跡である。

鬼界カルデラの噴出は火山学によって約7400年前と確定されており、その火山灰層の下からであるから少なくとも8000年前の遺跡ということになった。

この年代でも十分に古いのだが、最近になってさらにその1500年ほど前ということが分かった。

そのため展示遺物や遺構の年代全体をさかのぼらせる必要があり、約8か月かけて展示替えを行っていたのだが、昨日(10月5日)にリニューアルオープンしたのだ。
長さ15mはあろうかという壁一面に、手前から13000年前の最古の縄文土器「隆帯文土器」から1000年から2000年を単位としてそれぞれの時代を代表する南九州の縄文時代の土器群がずらりと展示されているが、圧巻である。

一部に弥生時代の美しい壺があったりしたが、基本的に館内はすべて縄文時代の遺物展示に限っていて、南九州の縄文時代がいかに先進的で多様性に富んでいたかを中心のテーマとしている。

北の縄文文化が世界遺産(北海道・北東北地域)になったが、上野原遺跡はじめ南九州の縄文文化もそれに引けを取らない。遺物では角型の土器や壺型土器などは国内のみならず、世界中に比肩するものはない。しかも古い。

是非とも世界遺産に挙げて欲しいものだ。

孫を連れて行ったが、満更でもなさそうだ。気分は縄文人!

律儀なヒガンバナ

2024-09-23 19:34:10 | おおすみの風景
今年もヒガンバナが秋の彼岸の時期に咲いた。

夏の猛暑で忘れていた場所ですくっと花茎を伸ばしていた。

この花の特徴は、どんな時でも秋の彼岸シーズンに必ず咲くということだ。律儀という他ない。

鹿児島ではおおむね彼岸の入りから中日までには咲いている。

球根の花は示し合わせたように揃って咲くことが多い。

球根性のサフランモドキがやはり同じような咲き方をする。

我が家でも日当たりの良い場所の物と、日当たりの悪い場所のが生育条件はかなり違うのに、ほぼ同時に薄いピンク色のサフランに似た花を咲かせる。

その理由とは、どうやら大昔、同根の親から受け継いだ遺伝子によるらしい。

要するに「万世一系」的な遺伝子を持ち続けているのだ。

だから生育の場所こそ違え、示し合わせたように一年の同じ時期に同時に花を咲かせる。

人間世界でも、生得的に同じ場所で生業を全うする職人的な人たちがいるように、球根の花の世界でも、同じ土の下で花咲く準備を怠りなく継続している球根たちがいるのだろう。

身につまされるのが、一業を全うできなかった我が身だ。