鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

高屋山上陵

2018-08-03 17:00:06 | おおすみの風景

  日本書紀にはいわゆる「天孫の三山陵」の名称が記されている。

 天孫とは天皇家の祖先のことで、初代は高天原から地上の「高千穂のクシフルの峰」に天降った「ニニギノミコト」、その子である二代目は「ヒコホホデミノノミコト」、三代目は「ウガヤフキアエズノミコト」で、その子の4代目が神武天皇である。

 日本書紀は初代のニニギノミコトは「久しくましまして、かむさり(崩御)ましぬ。因って、筑紫の日向の可愛(えの)山陵に葬(かく)しまつる。」と書く。可愛山陵とは薩摩川内市の独立丘上に鎮座する新田神社奥の墳墓であるという。

 二代目のヒコホホデミノミコトについては「久しくましまして、かむさり(崩御)ましぬ。日向の高屋山上陵に葬(かく)しまつる。」と書く。この日向の高屋山上陵は鹿児島空港のある溝辺町にあり、独立峰の山頂に墓域があるという。

 三代目のウガヤフキアエズノミコトの墳墓は「久しくましまして、西洲の宮にかむあがりましぬ。因って、日向の吾平山上陵に葬(かく)しまつる。」と書く。吾平は現在の鹿屋市吾平町で、町の中心部から2キロほど姶良川をさかのぼった清流の地に山陵がある。山陵といっても吾平山上陵は洞窟の中にあるのが、前の二山上陵と全く違うところだ。

 ところでここに出てくる「日向」とは古日向のことで、奈良朝以前では現在の鹿児島県と宮崎県とを併せた領域であった。したがって天孫三代の御陵はすべて古日向にあった。この三山陵の治定をめぐっては宮崎県と鹿児島県で相論があり、どちらも譲らなかったが明治7年当時の内務卿大久保利通の最終決定により現在の地に確定された。

 今日は二代目のヒコホホデミノミコトの御陵に行ってみた。

(溝辺から蒲生町に抜ける県道に架る「橋ノ口橋」から望む「高屋山上陵」。

完全な独立峰で、古代人の「聖なる山」だったのだろう。)

 場所は鹿児島空港前から北西に延びる県道を4キロほど行き、九州高速道路をくぐってすぐの右手だ。

 駐車場は整備されていないが県道の右手が凹状になっているので5、6台は停められる。

 陵域の中は広く、石でできた「高屋山上陵」という看板からは長い石段となっている。数えてみると鳥居のある遥拝所まで210段あまりあった。結構な運動になる。

 御陵であるから鳥居があるといっても神社ではないので、柏手は打たず、一礼だけするのみ。

 管理事務所に詰めていた人に聞くと、例年3月25日頃に「墓前祭」をするという。一般人の参列はなく、ヒコホホデミノミコトを祭神とする最大の神社である鹿児島神宮宮司など関係者だけによるお祭りだそうだ。

 帰りに高屋山上陵から西に1キロ半余り行ったところにある「鷹屋神社」を訪れたらちょうど宮司さんが境内の草払いをしているところだった。説明によると祭神はヒコホホデミノミコトで、今から600年ほど前に高屋山上陵のすぐ南にある「神割岡」に鎮座してあったのをここに遷したとのことであった。

 神割岡は今は「愛郷平和公園」という名称になり、戊辰戦争・西南戦争・日清戦争・日露戦争・太平洋戦争で亡くなった当地(大川内)出身の軍人たちを祭る聖地になっていた。

 この神割岡はもしかしたらすぐ北にそびえる高屋山上陵を祭る場所だったのではあるまいか。もっとも、現在の高屋山上陵は明治7年の治定なので、それ以前は何と呼んでいたのか不明だが、とにかく何か重大な死者を祭る墓域であったことは間違いないだろう。

 古事記ではヒコホホデミノミコトは「高千穂宮に5百80歳(年)ましましき」としてあり、これは一人のホホデミではなく、何十代か続いた言わば「ホホデミ王朝」の継続年数だったという解釈もできる。それだったら鹿児島県や宮崎県の古日向領域に数か所の宮や墳墓があってもおかしくはない。

 日本書紀ではすべてこの三代の治世を「久しくましまして」と表現しており、一代限りではなかったことを示唆しているのかもしれない。