前回までに魏志倭人伝に記載の九州島内の国々を比定した。
「伊都国」(戸数千戸)は佐賀県厳木町、「奴国」(戸数二万戸)は同県多久市から小城市、「不彌国」は同県大和町あたり、そして広大な佐賀平野を東へ横断して筑後川を渡り、そこからは南下して「邪馬台国」の所在地は福岡県八女市と比定した(邪馬台国への行程記事の「郡より女王国まで1万2千里」が、どんぴしゃりあてはまる)。
投馬国は「帯方郡から南へ水行20日」の所にあり、帯方郡から末盧国(唐津市)までの水行が10日であったから、九州北岸からさらに船で10日南へ下った所、すなわち広く南九州(古日向)が該当する。戸数5万戸の大国であった。
古事記に「国生み神話」というのがある。
イザナギノミコトとイザナミノミコトとが「ミト(夫婦)のまぐわい」をして生まれた日本列島のことだが、大八島国として生みなした八つの島々の中に「筑紫島」が生まれ、そこには4つの国「筑紫国」「豊国」「肥国」「熊曽国」(読み方は「筑紫国」なら「つくしのくに」というように「の」を入れて訓読みする)があるという。
これら4か国にはすべて亦の名(別名。すべて倭名)があり、筑紫国は「白日別」、豊国は「豊日別」、肥国は「建日向日豊久士比泥別」、熊曽国は「建日別」。
この4つの国名の成立時期はよく分からないが、2世紀から3世紀には対馬国・壱岐国・末盧国・伊都国・邪馬台国・投馬国・狗奴国・奴国・・・など、倭人が自らの国の名をそう呼んでいたことは確かであり、これとの対応を見ておきたい。
1、筑紫国(白日別)…「白日」とは朝鮮半島の新羅で、新羅の古名は「斯盧(しろ)」といった。朝鮮半島でも新羅との交流の深さを物語る呼び名である。具体的には崇神・垂仁天皇の出自が新羅地方(当時は辰韓)で、伊都国と間違えて比定されることの多い「糸島」(旧名・怡土)の豪族「五十迹手」の本貫の地は辰韓の「意呂山」だったと『筑前風土記逸文』にある。
崇神天皇の和風諡号が「ミマキイリヒコ五十(いそ)ニヱ」であり、垂仁天皇の和風諡号が「イクメイリヒコ五十(いそ)サチ」と、糸島の豪族「五十迹手」と「五十(いそ)」が共通なのは、その出自を物語っている。
崇神天皇は糸(イソ)島に王権を築き、やがて九州北部の筑後川以北の諸国を糾合して大王となった。その九州北部諸国連合こそが「大倭」であり、その盟主となったのが「ミマキイリヒコ五十(いそ)ニヱ」こと、のちの崇神天皇である。この崇神天皇は、魏を滅ぼして大陸の新王朝を開いた司馬懿の一党の朝鮮半島への介入を見越して、畿内に突入(東征)し、それまでの古日向由来の橿原王朝を倒して新しく大和に王権を樹立した(大和という地名は「大倭」の転訛である)。
2、豊国(豊日別)…「豊日」とは247年に邪馬台国女王ヒミコ亡きあとに後継に立った一族の娘で当時わずか13歳だったトヨ(台与)である。女王トヨは265年(泰始元年)に晋王朝の武帝に朝貢したと『晋書・倭国伝』にあるから、少なくとも20年の在位であったことが確認されるが、その後、南方の狗奴国の侵攻を受けて危殆に瀕したようで、トヨはその時に八女山中に逃れ、九州山地を越えて宇佐方面に至ったと思われる。
豊国(とよのくに=今日の大分県)の語源はこの「トヨ」だったと考えられ、宇佐神宮の本社三殿に祀られた神功皇后・応神天皇・ヒメノ神の「ヒメノ神」こそはトヨであると思われる。
そしてまた、崇神天皇の治世中に疫病や反乱がおきて人民が半減したというようなことがあったため、大和国魂をヌナキイリヒメに祭らせ、アマテラス大神をトヨスキイリヒメに祭らせたが、大和国魂を祀ろうとしたヌナキイリヒメは「髪落ち痩せて」しまって、祭れず、トヨスキイリヒメの方はアマテラス大神を祭ることができたーーと崇神紀にあるが、ここから二つのことが読み取れる。
ひとつは、崇神王権がもし大和において自生した王権であるならば、10代目となる天皇である崇神の代になっていまさら大和国魂を祭るというのはおかしいこと。とっくに祭っていなければならなかったはずだ。これは崇神王権が外来政権である一つの証左になる。
もう一つは、トヨスキイリヒメがアマテラス大神を祭ることができたことで、このトヨスキイリヒメは実は崇神天皇の皇女ではなく、豊国に落ち延びた(亡命した)邪馬台女王のヒミコに匹敵する霊能力を身に備えていたトヨであったろうと考えられる。トヨスキイリヒメの「トヨスキ」とは「豊の城」を意味し、そこに「入城した」(イリ)ということで、八女から亡命して宇佐神宮を含む地域一帯に王城を確保し、その地で王権を築いたトヨに因んで「とよのくに」(豊国)と命名されたのだろう。
3、肥国(建日向日豊久士比泥別)…亦の名については様々に取り沙汰されてきた。中には「日向国」があってしかるべきで、この肥国の亦の名の中に「日向」があるのがそれだろうというような論調も見受けられる。
しかしこの長い亦の名を「建日に向かい、日豊かなる、クシヒの根分け」と単なる名詞の集合体ではなく、文章化して読むと見えてくるものがある。「建日に向かい」とはこの後に出てくる「建日」(熊曽国)と向かい合っていることで、「クシヒ」は「偉大な王」を表す。
すなわちこの亦の名から、肥国は「熊曽国に隣接し、偉大な王を擁する国」となり、偉大な女王の治める邪馬台国を宗主に仰ぐかの21か国連盟に他ならない。
4、熊曽国(建日別)…亦の名の「建日」を「猛々しい火」とすると、巨大カルデラを持つ熊本から鹿児島・宮崎すべてを含む国ということになる。「熊」という漢字が「能」と「火」との合字であり、「熊」一字で「火(山)を能くする・コントロールできる」という意味を持つ。
火山活動の極めて盛んなこのような場所に住み、暮らしている熊本から鹿児島・宮崎に「熊曽国」という名はある意味ふさわしい。倭人伝の国名では狗奴国と投馬国がこれに該当する。
※以上で古日向論(2)は終わる。古日向論(3)では、「神武東征説話」ともう一つの東征「崇神東征」について論じたい。