川崎市のカリタス学園に通う小学生が通り魔に包丁で殺害された。
学園へのスクールバスを待つ専用の停留所に多くの小学生が並んでいるところへ、51歳になる男が犯行に及んだ。
被害に遭ったのは小学6年生の女子と見送りに来ていた保護者の男性で、他にも女性の保護者と児童7人(女子のみ=カリタス学園小学部は男女共学だが、圧倒的に女子が多い)ほどが切られて重軽傷を負った。
犯人は同じ川崎市に住む男で、実の両親ではなく父方の兄夫婦の下で暮らしていたという。
男の両親は小さいうちに離婚していたようで、小学生のころは学校でおとなしい方だったが、イラつくことも多かったらしい。
中学生になると親しい友人もなく、印象の極めて薄い存在だったのは、同級生の証言で判明している。
実の親から見放されたような境遇が男の生涯を規定してしまった印象だ。たしかに父方の兄夫婦の庇護が受けられており、両親の全くいない境遇の子供からすれば恵まれていたようには見える。
だがそれは最低限の1から見れば5も8も別世界という数字のマジックに似ている。
子供の養育環境の良否は、客観的な置かれた境遇に必ずしも比例しない。
両親がなくて施設で育てられた子供は最低限の1の境遇だが、施設の代理の母親や代理の父親の養育によっては、素晴らしく伸びる子もいる。
旧満州からの引き上げの際に向こうの養父母に託されたいわゆる「中国残留孤児」は、施設ではなく一般の満州人の家庭で我が子同様に育てられたのだが、聞き及ぶ範囲ではみな立派に人として成人している。
今度事件を起こした男の養父母(伯父夫婦)は血がつながっており、月々の小遣いなども渡していたようで、また男もパソコンとかスマホなどの「ぜいたく品」も無しでそこそこの暮らしを営んでいたらしい。
それなのになぜこの期に及んで無差別殺人事件を起こしたのか。
聞くところによると、伯父夫婦には兄妹がいて、妹はこのカリタス学園の卒業生とのことである。
妹がカリタス学園に通うくらいだから兄の方もどこか程度の良い学校に行ったのだろう。男の不遇はそのあたりからも忖度されてくる。
自分とはいとこ同士の、しかも一緒の家で育っているほとんど兄弟と言ってよい子供たちは、それなりの進路を与えられ、それなりに社会に巣立って行ったのに自分は・・・と引け目を感じたに違いない。
両親の離婚というショックのあと、両親とは別れて伯父の家に引き取られたこと、伯父の家で兄弟同様に育ったはずの伯父の子たちはちゃんとしたサポートが得られて社会に出て行ったこと、これらが男を余計に内向きに(引きこもり状態に)していったのだろう。
カリタス学園の子供を狙ったのは、一緒に育てられながらカリタス学園に学ぶことのできた従姉(年上だろうと思う)を妬ましく思ったことの表れだろうか。
自死を選んだ男の口がもう開くことはない。仮に生きていたとして、裁判所の法廷で以上のようなことを男が口にするだろうかといえば、おそらくしないだろう。
我が弟も中学2年生の時に引きこもり状態になり、その後精神科にかかり、入退院を繰り返して32歳で帰らぬ人となったが、引きこもり(長期欠席)の当座は、母に対して当たることが多かった。しかし母が結局勤めを辞めないまま養育環境の欠損を穴埋めしなかったために、弟にとって心の居場所が確保されぬまま精神科の常連となってしまった。
弟は精神科にかかってからは、母に対する手や口からの暴力のようなものはほぼなくなったが、その代わりなぜ自分がそうなったのか、引きこもりの動機は何だったのかーーなどを口にすることもなかった。思いはあっただろうに口外しない(できない)のは、今度の加害者と同じかもしれない。
(※母が小学校を退職したのは、弟が19歳の時で、せめて5年早ければ弟の引きこもりに有効な手を打てたと思う。因みに父は当時中学校の校長をしていた。両親が義務教育の学校に勤務していて、子供の一人が義務教育である中学生の時に不登校になったというのは傍目からもおかしいしことで、まして憲法では国民の三大義務の一つが「子供に義務教育を受けさせること」なのだから、母はその時点で小学校を退職し、弟が中学校に通うのを後押ししなければならなかった。我が家最大の汚点であった。)
カリタス学園の事件の2日後だったか、東京の練馬区の住宅で父親が息子を殺害するという痛ましい事件が発生した。
殺害した父親の経歴を聞いてびっくりしたのは私だけではないだろう。農林水産省の事務次官(事務方のトップ)を務めた人だという。事務方トップのランクでは財務省と経産省に次ぐ超優秀な官僚ということである。
引きこもり気味の44歳の長男がたまたま5月の末頃に実家に帰って来て、すぐ近くの小学校で運動会が開かれて放送がうるさいのを咎め、「ぶっ殺してやる」と叫んだそうで、それまでもたびたびあった父母(とくに母親)への暴力や職に就かない生活ぶりへのいら立ちが殺意に結び付いたようだ。
おそらく以前から「息子はいっそ死んでくれたら」というような思いはあったのだろう。それが今度のカリタス学園事件を目の当たりにし、「小学校に刃物を持って乗り込まれてはどうしようもない、それならわが手で」と手にかけてしまったらしい。
この場合、加害者(容疑者)が生きているので殺害の動機が明らかになることは間違いないが、家庭の不具合を巡っては親が優秀だとかエリートだとかに関わらず、結局は「適切な養育環境であったか」が最後に問われるだろう。
その中でもカギを握るのが「母親と子供とのつながり」である。
アメリカのネイティブインデアン(だったと思う)の「子育て4か条」というのが、母子関係を良好に保つためにはもっとも単純で分かり易い。
1、嬰児(赤ん坊)は肌を離すな。
2、幼児は手を離すな。
3、少年(少女)は目を離すな。
4、青年は心を離すな。
今は世間で「イクメン」も言われるようになったが、1,2は母親でなければ子供は何となく不安になるだろう。(※我が家ではこの1・2はほぼ無視された。住み込みのお手伝いさんが「代理母」だったが、兄弟が4人もいてはどうしようもなかっただろう。)
3は「いつまでもこうしなさい、ああしなさいと子ども扱いするな」という裏メッセージが読み取れる。構いたがりすぎる母親への警告だ。
4は母親・父親を問わないが、何といっても子育てに一番手をかけて来た母親の気遣いに、父親はかなうまい。
このテーマのカテゴリーを「母性」にしたわけはそこにある。
またタイトルの「子供たち」の中には、カリタス事件の加害者と、練馬事件の被害者も含まれる。