鴨着く島

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古日向論(4)三国分立と古日向①

2019-06-28 10:04:28 | おおすみの風景

奈良時代に入ったばかりの和銅6年(西暦713年)、古日向は「薩摩国」「大隅国)「日向国」の三つの国々に分割された。

正史『続日本紀』の元明天皇和銅6年4月3日の条にその記事が記載されている。

【夏4月、乙未(3日)、丹波国の加佐・輿佐・丹波・竹野・熊野五郡を割き、初めて丹後国を置く。備前国の英多・勝田・苫田・久米・大庭・真島六郡を割き、初めて美作国を置く。日向国の肝坏・曽於・大隅・姶羅四郡を割き、初めて大隅国を置く。】

これによれば、大国であった丹波国・備前国・日向国(古日向)が細分化されたことが分かる。大和王権の集権統治に都合の良いように、地方の大国の国力を削ぎ、多くの中央官僚が国司として赴任して目を光らせ、地方の大国は完全に大和王権の支配に服することになった。

日向国の場合、注意しておかなければならないのは、古日向が分割されたあとも現在のほぼ宮崎県にあたる地域が分割前と同じ「日向国」のままであることで、このことによって「日向神話」が「宮崎県の神話」に置き換えられてしまうという誤りが多々あることである。これはこの古日向論で、最初に厳しく指摘しておいた。

もう一つ注意すべきは、三国に分割されたと言っても「薩摩国」の分立については明確な記載がないことである。ただ、文武天皇2年(702年)の次の記事によって、この年に薩摩国(の前身である「唱更国」)が成立していることが分かる。

【八月、丙申(1日)、薩摩・多祢が化を隔て、命に逆らう。是を以て、兵を発して征討せしめ、ついに戸を挍(はか)り、吏を置く。】

これによれば、薩摩と種子島の住民(隼人)が王命に逆らったので、官軍を出動させて鎮圧し、住民の戸籍(戸数・人名・人数など)を記録し、住民を治めるための官吏を置いた。官吏とは国司をはじめとする中央からの官僚群のことである。

この時に出動した官軍兵士に対しては翌9月に「薩摩隼人を討った軍士に対して、勲章を与えた」とわざわざ記載されているので、薩摩隼人側が降伏し令制国としての薩摩国が分立したのは確実であろう。(※ただし、薩摩隼人が降伏してしばらくは薩摩国が使われず、「唱更国」つまり「辺境を守る柵を置く国」と呼ばれていた。)

薩摩半島側の隼人は天武・持統天皇の時代は「阿多隼人」と呼ばれていたが、文武天皇時代になると「薩摩隼人」と呼称変化した。そして明確に「薩摩国」が見えるのは元明天皇の3年(710年)、平城京に遷都する2か月前の正月27日の条に「日向国(古日向)は采女を貢ぎ、薩摩国は舎人を貢いだ」とあり、少なくとも奈良朝が成立する直前には「薩摩」の呼称が普遍的になったと言える。

薩摩国の成立時期が明確ではなく、したがって薩摩国を構成する「郡」の名も不詳なのに比べ、大隅国の成立と構成する郡名は上に掲げた最初の史料で見た通りはっきりしている。

それによると、710年頃までには古日向からすでに薩摩国(702年の成立当時は唱更国)が分立しており、残ったのは同じ古日向でも、今日の宮崎県と大隅半島から国分(霧島市)にかけての広大な地域であった。これから「肝坏」「曽於」「大隅」「姶羅」の四郡が割かれて「大隅国」になったことが分かる(※分立後の新しい日向国=宮崎県域を構成する郡の数及び郡名は不明。)

この4郡の地名だが、「大隅」以外は現地の名、つまり古地名である。『和名類聚抄』(930年頃成立。源順が編纂)によると、「肝坏」「曽於」「姶羅」の3郡には万葉仮名による読み方が付いている。肝坏には「岐毛豆岐」、曽於には「曽於」、姶羅には「阿比良」が付され、「きもつき」「そを」「あひら」と読むように慫慂されているが、「大隅」にはそれがない。

このことを指摘する史学者はほとんどいないが、読みがあまりにも明確だから付けなかったと思われがちである。しかしこの「大隅」は大和王権側の命名(新地名)だから、読みを付ける必要がなかったのである。

「大隅」の初見は天武天皇の11年(682年)に「阿多隼人と大隅隼人が朝貢して来て、王宮の前庭で相撲を取って見せた。大隅隼人が勝った」と見えるのがそれで、この時の「大隅」はおそらく自称の「肝属隼人」か「曽於隼人」ではなかったと思われるが、日本書紀の編纂を通じて「大隅」に書き換えられたのだろう。(※応神天皇が崩御したのが「大隅宮」だという注記が応神天皇紀にあるが、これも編纂時の書き換えで、おそらくは「肝属宮」か「曽の宮」だったろう。)

さてこの古地名を負った人物では大隅半島部の男性首長に「肝衝難波」(きもつきのなにわ)、女性首長に「阿比良姫」(あひらひめ)がいる。特に「肝衝難波」は古日向終焉を語るキーパーソンである。

次回以降にその人物の解明を通じて、古日向から三国が分立していく時代における大隅半島の歴史を探っていきたい。