古代以前の南九州には「クマソ」と「ハヤト」という「化外の民」が住んでいたと記紀に記されているが、その実態は分かったようで分からない、というのが実情である。
記紀には「化外の民」という表現はなく、多くは「朝貢を怠った」と記されており、それを朝廷に対する反逆として何度か中央から「征伐」軍が差し向けられ、結果として中央に服属するというストーリーに仕立てられている。
クマソはハヤトより早い段階の南九州人に充てられた呼称で、ここではまずクマソについて記紀がどのように描いているかを抽出し、それに対する通説と私論を述べていこうと思う。
【A国生み神話】(出典:古事記)
イザナミによって日本列島が次々に生まれるが、今日の九州島を指すのが「筑紫島」である。その筑紫島には4つの国があったと記されている。
筑紫国(別名:白日別)
肥国(別名:建日向日豊久士比泥別)
豊国(別名:豊日別)
熊曽国(建日別)・・・日本書紀では熊襲
の4国で、最後の熊曽国こそが南九州全域を指す国である。
国名は熊曽国以外はすべて今日にも通用する地域名であるが、熊曽国だけが異質である。
この用例からしてすでに大和王権側の南九州の「化外の民」性の強調なのだ――という見方が生まれるかもしれないが、後述のように私見では通説とは「熊」の解釈に違いがあり、「化外の民どころか・・・」というある種想定外のクマソ論になる。
それはさて置き、この国生み神話における熊曽国が時系列的に最も早く登場するクマソであった。
【B景行天皇の時代】(出典:日本書紀)
古事記では国生み神話後のクマソの登場は『仲哀記』に「熊曽国」、『景行記』に「熊曽建」とあるくらいで、その点、日本書紀のクマソ説話の分量は圧倒的に多いので、この項以降は書紀を出典とする。
景行天皇の時代にクマソが朝貢せず逆らったので、南九州を天皇自らが「親征」した。この後、再び逆らったので今度は息子の小碓命(おうすのみこと。のちのヤマトタケル)に征討させた。
古事記では小碓命の征討説話だけだが、日本書紀では天皇と息子ので二度の征伐を行ったとしている。
ⅰ 景行天皇の親征(熊曽征伐と九州巡狩)
天皇は九州豊前の長峡に行宮を造り、そこを足掛かりとして豊前から豊後へ各地で豪族の征伐を進め、南九州に入ると日向の高屋宮を拠点としてクマソの巨頭「厚鹿文(あつかや)」兄弟を攻略する。
その後、南九州を東(大淀川上流)から西(川内川上流)へ各地の豪族を制圧しつつ、今日の熊本県へ抜け、さらに阿蘇から筑後の八女などを通過し、筑後川の浮羽を最後に九州から立ち去っている。
そして、この九州巡狩において、「日向(ひむか)の国」と「火(ひ)の国」地名が生まれたとしている点も見逃せない。
ⅱ 小碓命の熊曽征伐
長男の大碓命を力づくで殺害してしまった次男の小碓命に危なさを感じた景行天皇は、最初の征伐から8年後に再びクマソが背いた時、今度は小碓命に征伐に行かせることにした。
南九州には厚鹿文(あつかや)に代わって「取石鹿文(とりしかや)」がいた。別名を川上梟帥(かわかみのたける)と言い、女装をしてまんまと侵入した小碓命はこの川上タケルを殺害する間際に、タケルから「タケル」という名を貰う。これ以降、小碓命は常に「ヤマトタケル(日本武尊)」として登場することになる。
厚鹿文(あつかや)にせよこの取石鹿文(とりしかや)にせよどちらも「鹿文(かあや=かや)」を共通にしているが、これは今日大隅半島の中心都市を「鹿屋(かのや=かや)」というのと軌を一にしており、彼らは大隅半島中心部を根拠地とする一大勢力だったとしてよい。
【C仲哀天皇の時代】(出典:日本書紀)
ヤマトタケルと王妃フタジノイリヒメとの間に生まれた足仲彦(たらしなかつひこ)皇子が、景行天皇の皇子であった成務天皇亡き後に仲哀天皇となる。
この天皇のときにやはり「熊襲叛きて朝貢せず」ということで熊襲征伐が行われるのだが、景行天皇時代の征伐と違うのは、天皇は南九州へは来ず、北部九州止まりであったことだ。しかも天皇はそこで命を落とすことになる。
一大椿事と言わなければならない。
古事記によると、仲哀天皇は「海(玄界灘)の向こうに国などあるものか」と頑なに言い張り、ついに神罰によって死を賜るというものだが、日本書紀では神自らが託宣で「海の向こうの新羅は金銀財宝に恵まれた国で、その国を討てばよい。熊襲の国は何もない国だ(から討っても無駄だ)。」といさめるのだが、天皇は言うことを聞かずに熊襲を討ちに行き、戦死してしまう(一説では敵の矢に当たったから)。
【D神功皇后の時代】
仲哀天皇が北部九州の「橿日宮」で死んだあと、斎宮を小山田村に営んだ際に、そこで審神者を立てて占ったら神罰を下した数々の神が明らかになる。
それはそれとして、神功皇后はやはり夫の仲哀の敵である熊襲を討つことにし、吉備臣の祖である鴨別(かもわけ)を派遣して熊襲を討たせたところ、熊襲は「おのずから服せり」という結果になった。
鴨別の力量が思われるところだが、実は吉備には「国生み神話」において「建日方別(たけひかたわけ)」と呼ばれる吉備児島があり、ここはその名の通り建日別(熊曽国)の「方別」(分国)であったから、鴨別はクマソの一族であった可能性が考えられ、そうであれば鎮撫も平和裏に行われたのだろう。
クマソが記紀に登場するのはここまでで、神功皇后がこのあと朝鮮半島に渡り、新羅を平定するが、再び北九州に戻り、応神天皇を産んでからあとはいかなるクマソも登場しない。
(クマソの① 終わり)
記紀には「化外の民」という表現はなく、多くは「朝貢を怠った」と記されており、それを朝廷に対する反逆として何度か中央から「征伐」軍が差し向けられ、結果として中央に服属するというストーリーに仕立てられている。
クマソはハヤトより早い段階の南九州人に充てられた呼称で、ここではまずクマソについて記紀がどのように描いているかを抽出し、それに対する通説と私論を述べていこうと思う。
【A国生み神話】(出典:古事記)
イザナミによって日本列島が次々に生まれるが、今日の九州島を指すのが「筑紫島」である。その筑紫島には4つの国があったと記されている。
筑紫国(別名:白日別)
肥国(別名:建日向日豊久士比泥別)
豊国(別名:豊日別)
熊曽国(建日別)・・・日本書紀では熊襲
の4国で、最後の熊曽国こそが南九州全域を指す国である。
国名は熊曽国以外はすべて今日にも通用する地域名であるが、熊曽国だけが異質である。
この用例からしてすでに大和王権側の南九州の「化外の民」性の強調なのだ――という見方が生まれるかもしれないが、後述のように私見では通説とは「熊」の解釈に違いがあり、「化外の民どころか・・・」というある種想定外のクマソ論になる。
それはさて置き、この国生み神話における熊曽国が時系列的に最も早く登場するクマソであった。
【B景行天皇の時代】(出典:日本書紀)
古事記では国生み神話後のクマソの登場は『仲哀記』に「熊曽国」、『景行記』に「熊曽建」とあるくらいで、その点、日本書紀のクマソ説話の分量は圧倒的に多いので、この項以降は書紀を出典とする。
景行天皇の時代にクマソが朝貢せず逆らったので、南九州を天皇自らが「親征」した。この後、再び逆らったので今度は息子の小碓命(おうすのみこと。のちのヤマトタケル)に征討させた。
古事記では小碓命の征討説話だけだが、日本書紀では天皇と息子ので二度の征伐を行ったとしている。
ⅰ 景行天皇の親征(熊曽征伐と九州巡狩)
天皇は九州豊前の長峡に行宮を造り、そこを足掛かりとして豊前から豊後へ各地で豪族の征伐を進め、南九州に入ると日向の高屋宮を拠点としてクマソの巨頭「厚鹿文(あつかや)」兄弟を攻略する。
その後、南九州を東(大淀川上流)から西(川内川上流)へ各地の豪族を制圧しつつ、今日の熊本県へ抜け、さらに阿蘇から筑後の八女などを通過し、筑後川の浮羽を最後に九州から立ち去っている。
そして、この九州巡狩において、「日向(ひむか)の国」と「火(ひ)の国」地名が生まれたとしている点も見逃せない。
ⅱ 小碓命の熊曽征伐
長男の大碓命を力づくで殺害してしまった次男の小碓命に危なさを感じた景行天皇は、最初の征伐から8年後に再びクマソが背いた時、今度は小碓命に征伐に行かせることにした。
南九州には厚鹿文(あつかや)に代わって「取石鹿文(とりしかや)」がいた。別名を川上梟帥(かわかみのたける)と言い、女装をしてまんまと侵入した小碓命はこの川上タケルを殺害する間際に、タケルから「タケル」という名を貰う。これ以降、小碓命は常に「ヤマトタケル(日本武尊)」として登場することになる。
厚鹿文(あつかや)にせよこの取石鹿文(とりしかや)にせよどちらも「鹿文(かあや=かや)」を共通にしているが、これは今日大隅半島の中心都市を「鹿屋(かのや=かや)」というのと軌を一にしており、彼らは大隅半島中心部を根拠地とする一大勢力だったとしてよい。
【C仲哀天皇の時代】(出典:日本書紀)
ヤマトタケルと王妃フタジノイリヒメとの間に生まれた足仲彦(たらしなかつひこ)皇子が、景行天皇の皇子であった成務天皇亡き後に仲哀天皇となる。
この天皇のときにやはり「熊襲叛きて朝貢せず」ということで熊襲征伐が行われるのだが、景行天皇時代の征伐と違うのは、天皇は南九州へは来ず、北部九州止まりであったことだ。しかも天皇はそこで命を落とすことになる。
一大椿事と言わなければならない。
古事記によると、仲哀天皇は「海(玄界灘)の向こうに国などあるものか」と頑なに言い張り、ついに神罰によって死を賜るというものだが、日本書紀では神自らが託宣で「海の向こうの新羅は金銀財宝に恵まれた国で、その国を討てばよい。熊襲の国は何もない国だ(から討っても無駄だ)。」といさめるのだが、天皇は言うことを聞かずに熊襲を討ちに行き、戦死してしまう(一説では敵の矢に当たったから)。
【D神功皇后の時代】
仲哀天皇が北部九州の「橿日宮」で死んだあと、斎宮を小山田村に営んだ際に、そこで審神者を立てて占ったら神罰を下した数々の神が明らかになる。
それはそれとして、神功皇后はやはり夫の仲哀の敵である熊襲を討つことにし、吉備臣の祖である鴨別(かもわけ)を派遣して熊襲を討たせたところ、熊襲は「おのずから服せり」という結果になった。
鴨別の力量が思われるところだが、実は吉備には「国生み神話」において「建日方別(たけひかたわけ)」と呼ばれる吉備児島があり、ここはその名の通り建日別(熊曽国)の「方別」(分国)であったから、鴨別はクマソの一族であった可能性が考えられ、そうであれば鎮撫も平和裏に行われたのだろう。
クマソが記紀に登場するのはここまでで、神功皇后がこのあと朝鮮半島に渡り、新羅を平定するが、再び北九州に戻り、応神天皇を産んでからあとはいかなるクマソも登場しない。
(クマソの① 終わり)