(1)ではクマソについて論じたが、今度はハヤトである。
クマソ名は今日、南九州の古代人の負の側面のみをあげつらう時にだけ使われる「誤った解釈」にいまだにさらされているが、私見では「熊」という漢字の持つ意味からして全くそうではなく、「荒ぶる火山活動の中をたくましく生きている南九州人」を畏怖して命名した、むしろ尊称に近い名であったとした。
クマソが日本書紀に登場するのは、景行天皇から神功皇后までわずか50年ほどの期間しかなかった。それに比べてこれから述べて行くハヤトは神話(日向神話)を除外すると、履中天皇の弟の側近として登場する「刺領布(さしひれ)」という名のハヤトから始まって続日本紀の奈良時代初期の元明天皇時代まで、およそ300年にわたって記載がある。
このうち日本書紀に登場するハヤトについて、この「(2)ハヤト①」で抽出する。
【①-A 履中天皇の時代】(出典:日本書紀)
仁徳天皇の皇子に住吉仲皇子(すみのえのなかのおうじ)がいたが、この皇子の側近として「刺領布(さしひれ)」というハヤトが付いていた。
長男で後継者の去来穂別皇子(いざさわけのみこ)は、サシヒレをそそのかして弟の住吉皇子を殺害させ、いざとなると主人殺しの汚名を着せて処罰してしまう。
(※歴史上に初めて登場したハヤトはすでにここで汚名を着せられることになる。奈良時代の初期に当時最大級の叛乱を起こしたために汚名を蒙った伏線のようでもある。)
【①-B 清寧天皇の時代】(同上)
ⅰ.清寧天皇の前代・雄略天皇が崩御した際、天皇を葬った墓前で泣きつくし、物も食わずに死んだハヤトがいたという。いわゆる殉死である。
ⅱ.清寧天皇の4年に「蝦夷・隼人並びに内付する」という記事がある。「内付(ないふ)」とは帰属ということで支配下に入ることである。蝦夷(アイヌ人)は初見である。
(※この時代の年代観は、前代の雄略天皇がおおむね460年頃から23年の統治期間が定説であり、私見もそれに従うので、およそ480年の頃である。)
【①-C 欽明天皇の時代】(同上)
欽明天皇の元年3月に「蝦夷・隼人並びに衆(ともがら)を率いて帰付する」とある。この「帰付(きふ)」も「内付」と同じく帰属するという意味である。
【①-D 敏達天皇の時代】(同上)
敏達天皇の14年(585年)8月の記事に「三輪君逆(みわのきみさかし)、隼人をして殯(もがり)の庭に相距(とぶら)わしむ」とある。
「相距(とぶら)う」の意味だが、「距」は「蹲踞(そんきょ)」のことで、相撲の横綱土俵入りで太刀持ちが蹲踞するあのような姿勢をとり、隼人数名がおそらく寝ずの番で棺の前に伺候したのだろう。
【①-E 斉明天皇の時代】(同上)
斉明天皇の元年(655年)に何月かは不明だが、「是歳、高麗・百済・新羅、皆使いを遣わし、調(みつき)を進む。蝦夷・隼人、衆(ともがら)を率いて内属し、朝貢する」とあり、蝦夷・隼人だけではなく朝鮮半島からも使者が来ていた。
【①-F 天武天皇の時代】(同上)
ⅰ.天武11年(683年)7月3日の記事に「隼人多く来たり、方物を貢ぐ。是の日、大隅隼人、阿多隼人とが朝廷に相撲する。大隅隼人が勝つ」とある。
大隅隼人・阿多隼人ともに初見である。ただし「阿多」については、古事記の日向神話において、二ニギの息子3人が産屋の火の中で生まれた時に、最初に生まれたホデリノミコトを「此れ、隼人阿多君の祖」という紹介がある。
ⅱ.天武15年(686年)9月29日の記事に、「次に、大隅・阿多隼人、及び倭(やまと)・河内の馬飼部造(うまかいべのみやっこ)、各々誄(しのびごと)す。」とある。
敏達天皇の死に際しては棺の前に蹲踞する役目を担った隼人が、今度は天武天皇の死に臨んで棺前に出て「誄(しのびごと=弔辞)」を述べるという大役になっている。
【①-G 持統天皇の時代】
持統天皇の9年(695年)5月13日の記事に「隼人大隅に饗(みあえ)し給う。」とあり、8日後の21日には「隼人の相撲を西の槻(つき)の下に観給う。」とある。
天武天皇の11年(683年)と同様、やって来た隼人に相撲を取らせて見物をする場面である。この時は大隅隼人と阿多隼人との対戦はなく、どうやら阿多隼人は来ていなかったようである。
初めの方の「隼人大隅に饗し給う」の「隼人大隅」は「大隅隼人」の誤記だろうと思われる。この2か月近く前に朝廷では大隅半島南方に浮かぶ種子島への調査団(団長は文忌寸博勢)を送っており、大隅半島から種子島の航行に現地の大隅隼人との交流があり、それへの答礼だと思われる。
以上、日本書紀に記載されたハヤトを抽出したが、ハヤトはクマソが「朝貢しない蛮族」というように書かれるのと同様、やはり大和王権にとっては「遅れた異族」的な書かれ方をしている。
しかし皇孫の由来を述べた日向神話において、皇室の直接の祖となる弟ホホデミへ服属するのだが、とにもかくにも皇孫の兄、つまり天皇家とは血筋だという。
これを著名な古代史学者で「隼人の叛乱に手を焼いた大和王権がハヤトの祖先と王権の祖先とはかっては同じだった」と、言わばリップサービスをすることによってハヤトを手なづける必要があったからだ――とする見解があるが、私見のように南九州からの東征(東遷)は史実だったとする見方からすれば、皇孫ホホデミの兄が南九州人だったのは当然である。
そのことを裏付けるのは、天皇の「側近」になったハヤトの多いことと、極めて重要な天皇の葬礼に参加していることである。蝦夷と並んで記される異族でありながら、蝦夷とは違って何ゆえに天皇に近侍できたのだろうか。このことを考えると、ハヤトは単なる異族ではないことに思い至るではないか。
(※次の②では、養老4年から5年(720年~721年)にかけて起こった壮絶な「ハヤトの叛乱」に至る歴史を垣間見せる『続日本紀』のハヤト関連記事を抽出してみたい。)
((2)ハヤト① 終わり)
クマソ名は今日、南九州の古代人の負の側面のみをあげつらう時にだけ使われる「誤った解釈」にいまだにさらされているが、私見では「熊」という漢字の持つ意味からして全くそうではなく、「荒ぶる火山活動の中をたくましく生きている南九州人」を畏怖して命名した、むしろ尊称に近い名であったとした。
クマソが日本書紀に登場するのは、景行天皇から神功皇后までわずか50年ほどの期間しかなかった。それに比べてこれから述べて行くハヤトは神話(日向神話)を除外すると、履中天皇の弟の側近として登場する「刺領布(さしひれ)」という名のハヤトから始まって続日本紀の奈良時代初期の元明天皇時代まで、およそ300年にわたって記載がある。
このうち日本書紀に登場するハヤトについて、この「(2)ハヤト①」で抽出する。
【①-A 履中天皇の時代】(出典:日本書紀)
仁徳天皇の皇子に住吉仲皇子(すみのえのなかのおうじ)がいたが、この皇子の側近として「刺領布(さしひれ)」というハヤトが付いていた。
長男で後継者の去来穂別皇子(いざさわけのみこ)は、サシヒレをそそのかして弟の住吉皇子を殺害させ、いざとなると主人殺しの汚名を着せて処罰してしまう。
(※歴史上に初めて登場したハヤトはすでにここで汚名を着せられることになる。奈良時代の初期に当時最大級の叛乱を起こしたために汚名を蒙った伏線のようでもある。)
【①-B 清寧天皇の時代】(同上)
ⅰ.清寧天皇の前代・雄略天皇が崩御した際、天皇を葬った墓前で泣きつくし、物も食わずに死んだハヤトがいたという。いわゆる殉死である。
ⅱ.清寧天皇の4年に「蝦夷・隼人並びに内付する」という記事がある。「内付(ないふ)」とは帰属ということで支配下に入ることである。蝦夷(アイヌ人)は初見である。
(※この時代の年代観は、前代の雄略天皇がおおむね460年頃から23年の統治期間が定説であり、私見もそれに従うので、およそ480年の頃である。)
【①-C 欽明天皇の時代】(同上)
欽明天皇の元年3月に「蝦夷・隼人並びに衆(ともがら)を率いて帰付する」とある。この「帰付(きふ)」も「内付」と同じく帰属するという意味である。
【①-D 敏達天皇の時代】(同上)
敏達天皇の14年(585年)8月の記事に「三輪君逆(みわのきみさかし)、隼人をして殯(もがり)の庭に相距(とぶら)わしむ」とある。
「相距(とぶら)う」の意味だが、「距」は「蹲踞(そんきょ)」のことで、相撲の横綱土俵入りで太刀持ちが蹲踞するあのような姿勢をとり、隼人数名がおそらく寝ずの番で棺の前に伺候したのだろう。
【①-E 斉明天皇の時代】(同上)
斉明天皇の元年(655年)に何月かは不明だが、「是歳、高麗・百済・新羅、皆使いを遣わし、調(みつき)を進む。蝦夷・隼人、衆(ともがら)を率いて内属し、朝貢する」とあり、蝦夷・隼人だけではなく朝鮮半島からも使者が来ていた。
【①-F 天武天皇の時代】(同上)
ⅰ.天武11年(683年)7月3日の記事に「隼人多く来たり、方物を貢ぐ。是の日、大隅隼人、阿多隼人とが朝廷に相撲する。大隅隼人が勝つ」とある。
大隅隼人・阿多隼人ともに初見である。ただし「阿多」については、古事記の日向神話において、二ニギの息子3人が産屋の火の中で生まれた時に、最初に生まれたホデリノミコトを「此れ、隼人阿多君の祖」という紹介がある。
ⅱ.天武15年(686年)9月29日の記事に、「次に、大隅・阿多隼人、及び倭(やまと)・河内の馬飼部造(うまかいべのみやっこ)、各々誄(しのびごと)す。」とある。
敏達天皇の死に際しては棺の前に蹲踞する役目を担った隼人が、今度は天武天皇の死に臨んで棺前に出て「誄(しのびごと=弔辞)」を述べるという大役になっている。
【①-G 持統天皇の時代】
持統天皇の9年(695年)5月13日の記事に「隼人大隅に饗(みあえ)し給う。」とあり、8日後の21日には「隼人の相撲を西の槻(つき)の下に観給う。」とある。
天武天皇の11年(683年)と同様、やって来た隼人に相撲を取らせて見物をする場面である。この時は大隅隼人と阿多隼人との対戦はなく、どうやら阿多隼人は来ていなかったようである。
初めの方の「隼人大隅に饗し給う」の「隼人大隅」は「大隅隼人」の誤記だろうと思われる。この2か月近く前に朝廷では大隅半島南方に浮かぶ種子島への調査団(団長は文忌寸博勢)を送っており、大隅半島から種子島の航行に現地の大隅隼人との交流があり、それへの答礼だと思われる。
以上、日本書紀に記載されたハヤトを抽出したが、ハヤトはクマソが「朝貢しない蛮族」というように書かれるのと同様、やはり大和王権にとっては「遅れた異族」的な書かれ方をしている。
しかし皇孫の由来を述べた日向神話において、皇室の直接の祖となる弟ホホデミへ服属するのだが、とにもかくにも皇孫の兄、つまり天皇家とは血筋だという。
これを著名な古代史学者で「隼人の叛乱に手を焼いた大和王権がハヤトの祖先と王権の祖先とはかっては同じだった」と、言わばリップサービスをすることによってハヤトを手なづける必要があったからだ――とする見解があるが、私見のように南九州からの東征(東遷)は史実だったとする見方からすれば、皇孫ホホデミの兄が南九州人だったのは当然である。
そのことを裏付けるのは、天皇の「側近」になったハヤトの多いことと、極めて重要な天皇の葬礼に参加していることである。蝦夷と並んで記される異族でありながら、蝦夷とは違って何ゆえに天皇に近侍できたのだろうか。このことを考えると、ハヤトは単なる異族ではないことに思い至るではないか。
(※次の②では、養老4年から5年(720年~721年)にかけて起こった壮絶な「ハヤトの叛乱」に至る歴史を垣間見せる『続日本紀』のハヤト関連記事を抽出してみたい。)
((2)ハヤト① 終わり)