(2)ハヤト①では、日本書紀に登場するハヤト(隼人)を抽出し、そこに描かれたハヤトの性格が、「近習隼人」(履中紀)、「殉死する隼人」(清寧紀)、「大量帰属する隼人」(欽明紀)、「殯(もがり)する隼人」(敏達紀)、「帰属する隼人」(斉明紀)、「相撲する隼人」(天武紀)、「誄(しのびごと)する隼人」(天武紀)、「相撲する隼人」(持統紀)という表現で表されていた。
遠くに住む「異族」が朝廷に朝貢すると「帰属した」となるが、東北のエミシもハヤトともに帰属しているはいるのだが、決して「近習」したり「殉死」したり「殯(もがり)」したりすることはない。
王化に浴さない「異族」が朝貢し、その異族を儀礼の場に登場させることが王権の集権化のシンボルであるのなら、ハヤトと同様にエミシにも「近習・殉死・殯(もがり)」の役割を担わせるはずなのに、登場するのはハヤトばかりである。
それだけハヤトに関しては単なる異族ではないという認識が大和王権側にはあったのだろう。その認識とはクマソの項で述べたようなある種の「畏怖」に繋がるものであろう。
実はまだ「隼人」と記載されるハヤトの語源に触れていなかったので、ここで簡単に述べることにする。
日向神話では二ニギの皇子に三人があり、「隼人の祖」あるいは「隼人阿多君の祖」とされたのが、古事記ではホデリ(火照)、書紀ではホスソリ(火闌降)という名であった。
火照にも火闌降にも共通なのは「火」であり、さらに共通なのが「照、闌」で、あとの闌は見慣れない漢字だが「たけなわ、さかり」という意味を持つ。
つまりハヤトの属性として、「火が盛んに燃え上がっていること」であることが分かる。この状況は古事記の国生み神話で筑紫島(九州島)に4つある国のうち南九州が「熊曽国」であり、その別名を「建日別(たけひわけ)」と言ったことと重なる。
熊曽国(=火に負けずに果敢に生きる曽人の国)は火山列島の中でも格別に火山活動の盛んな南九州ならではの命名であり、ハヤトの祖先の名がまた「火が盛んに燃え上がっている=火山活動」からの命名であれば、まさに「熊」と「火闌降(ホスセリ)」とは同義に他ならない。
クマソもハヤトも同じ南九州に祖先を持つので当然と言えば当然だが、クマソ(熊なる属性を持つ曽人)が定説のように「獰猛な・暗愚な」異族ではなかったのと同様、ハヤトも「熊なる属性」を持っていたわけである。
漢字の「隼人」は定説のように、古代中国で四方角のうち南を表す「朱雀」の属性である「鳥隼(チョウシュン)=すばっこい」からその「隼」が採用されたのだろう。
このようにして歴史の舞台に登場したハヤトであるが、ハヤトの前称であるクマソが南九州から「東征」した先祖を持つと考えると、書紀の記述においてハヤトが朝廷に近習できた理由が鮮明になる。
その「東征」(私見では「東遷」とし、大規模な移住と考える)が史実であったことを確かめるためには2~3世紀の倭人の状況を記した『魏志倭人伝』を見ていく必要があり、今ここで論ずるわけにはいかない。
ここは次の史料である『続日本紀』の中で、ハヤトがどう描かれているかを見るのが先決であり、まずは文武天皇から聖武天皇の時代までに記されたハヤト記事を取り上げていくことにする。
((2)ハヤト②の序 終わり)
遠くに住む「異族」が朝廷に朝貢すると「帰属した」となるが、東北のエミシもハヤトともに帰属しているはいるのだが、決して「近習」したり「殉死」したり「殯(もがり)」したりすることはない。
王化に浴さない「異族」が朝貢し、その異族を儀礼の場に登場させることが王権の集権化のシンボルであるのなら、ハヤトと同様にエミシにも「近習・殉死・殯(もがり)」の役割を担わせるはずなのに、登場するのはハヤトばかりである。
それだけハヤトに関しては単なる異族ではないという認識が大和王権側にはあったのだろう。その認識とはクマソの項で述べたようなある種の「畏怖」に繋がるものであろう。
実はまだ「隼人」と記載されるハヤトの語源に触れていなかったので、ここで簡単に述べることにする。
日向神話では二ニギの皇子に三人があり、「隼人の祖」あるいは「隼人阿多君の祖」とされたのが、古事記ではホデリ(火照)、書紀ではホスソリ(火闌降)という名であった。
火照にも火闌降にも共通なのは「火」であり、さらに共通なのが「照、闌」で、あとの闌は見慣れない漢字だが「たけなわ、さかり」という意味を持つ。
つまりハヤトの属性として、「火が盛んに燃え上がっていること」であることが分かる。この状況は古事記の国生み神話で筑紫島(九州島)に4つある国のうち南九州が「熊曽国」であり、その別名を「建日別(たけひわけ)」と言ったことと重なる。
熊曽国(=火に負けずに果敢に生きる曽人の国)は火山列島の中でも格別に火山活動の盛んな南九州ならではの命名であり、ハヤトの祖先の名がまた「火が盛んに燃え上がっている=火山活動」からの命名であれば、まさに「熊」と「火闌降(ホスセリ)」とは同義に他ならない。
クマソもハヤトも同じ南九州に祖先を持つので当然と言えば当然だが、クマソ(熊なる属性を持つ曽人)が定説のように「獰猛な・暗愚な」異族ではなかったのと同様、ハヤトも「熊なる属性」を持っていたわけである。
漢字の「隼人」は定説のように、古代中国で四方角のうち南を表す「朱雀」の属性である「鳥隼(チョウシュン)=すばっこい」からその「隼」が採用されたのだろう。
このようにして歴史の舞台に登場したハヤトであるが、ハヤトの前称であるクマソが南九州から「東征」した先祖を持つと考えると、書紀の記述においてハヤトが朝廷に近習できた理由が鮮明になる。
その「東征」(私見では「東遷」とし、大規模な移住と考える)が史実であったことを確かめるためには2~3世紀の倭人の状況を記した『魏志倭人伝』を見ていく必要があり、今ここで論ずるわけにはいかない。
ここは次の史料である『続日本紀』の中で、ハヤトがどう描かれているかを見るのが先決であり、まずは文武天皇から聖武天皇の時代までに記されたハヤト記事を取り上げていくことにする。
((2)ハヤト②の序 終わり)