鴨着く島

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「神武東征」の真実①

2020-06-16 09:18:18 | 古日向の謎
  神武東征は「投馬国の東遷」

『日本書紀』が完成し朝廷に献上されたのは養老4年(720年)の5月、大隅国司・陽候史麻呂(やこのふひと・まろ)がハヤトによって殺害されたのが同年の1月か2月、そしてその「隼人の叛乱」を受けて朝廷から大伴旅人を大将軍とする「征隼人軍」が派遣されたのは3月4日であった。

ハヤトが叛乱によって「朝敵」になってから日本書紀の完成まで約2か月、その間に「朝敵」に関する記事など墨塗り教科書ではないが、抹消することができたはずなのにしなかったのはなぜか?

日向神話では弟ホホデミといさかいを起こして敗れた兄のホデリ(ホスソリ)として登場するが、この話の内容は、ハヤト研究で名高い中村明蔵・元鹿児島国際大学教授などによると、「隼人の叛乱に象徴される南九州人の中央への反発・敵愾心を和らげようとして造作した物語である」という風に解釈している。

つまり創作上ハヤトへの「リップサービス」だというのだが、神話はそれでいいとしても、その他の記事「王家の次男スミノエナカツミコの側近だった隼人」、「天皇の墓前で殉死した隼人」、「天皇の殯(もがり)の宮に伺候する隼人」、「葬送の儀に参加しかつ誄(しのびごと)を述べる隼人」など天皇家にこれでもかというくらい近侍する様子が描かれているのをどう見るのだろうか。

720年5月の書紀完成までに連続して起きた隼人の「朝敵ぶり」からすれば、このような天皇家への近侍の姿など「穢わらしいから抹消」しても書紀という年代記の事績上、何の問題もないはずである。

またそれよりも何よりも、「神武東征」という南九州の地から畿内大和への王権移動を描いた説話など、載せるのはもってのほかであったはずだ。初めから大和王朝が畿内大和で自生的に築かれたのであるのならば、抹消するのは簡単ではないか。

上述の中村教授などの古代史学者で「神武東征説話」が実際にあったと考える人はほぼ皆無であるが、しかし史実ではない神武東征がどうして堂々と描かれているのか、については口を閉ざしている。

南九州のような遅れた地域からの東征など、金輪際あり得ない。できるわけがない――というのが学者の本音であるから、結局、「架空の話だ。触らぬ神に祟りなし」あるいは「君子危うきに近寄らず」というわけでこの点については思考停止状態である。

話は簡単である。実際に南九州からの王権の移動があったとすれば筋が通るのである。史実としてあったから抹消できなかったのだ。

私は高校生の2年生の時に宮崎康平のベストセラー『まぼろしの邪馬台国』に出会ってから邪馬台国問題に興味を持ち、長年自分なりに考え続けてきた。そして35年も経ってようやく解釈を終え『邪馬台国真論』という本にまとめたのだが、倭人国の一つ「戸数五万戸」という大国「投馬(つま)国」を南九州に比定した。

その後、古事記や日本書紀に取り組んだ際に、日向(古日向)で生まれた神武天皇に「タギシミミ」(古事記では多芸志美美。書紀では手研耳)と弟の「キスミミ」(古事記のみ登場し、岐須美美)の二皇子がいたことを知った。

そしてまた、神武東征後に神武が畿内で新しく皇后に迎えたイスケヨリヒメとの間に三皇子が生まれるが、その名が「ヒコヤイミミ」「カムヤイミミ」「カムヌナカワミミ」であることも知った。

神武天皇の諱(いみな)は「トヨミケヌまたはサノノミコト」であるが、日向での子は「タギシミミ」「キスミミ」、東征後の大和での子は「ヒコヤイミミ」「カムヤイミミ」「カムヌナカワミミ」とまさに目を疑うような「ミミ」のオンパレードである。

この誰の目にも明らかな「ミミ」の乱発を学者は勿論気づいており、「ミミ(美美)は首長に対する古称であろう」くらいな指摘はするのだが、それ以上のことは考えていない。


しかし邪馬台国追求の過程で南九州を「投馬国」と比定し得た私にとって、「ミミ」はなじみ深いものであった。なぜなら魏志倭人伝によれば、投馬国の「官」は「彌彌」といい、「副」を「彌彌那利」といったとあるからだ。

倭人伝では「官」とあるが、これは投馬国が邪馬台国の同盟国と考えた中国側の史官がそう理解したから名付けたのであって、実質上は投馬国の首長つまり「王」に当たる名称である。

また副官のほうは「ミミ」に「ナリ」が付属しているが、これは「ミミのナリ」であろう。「ナリ」は「オナリ」(琉球古語では「ウナリ」)から来ており、「妻および姉妹」のことであるから、「ミミナリ」とは「王の妻・姉妹」という意味である。

要するに投馬国(古日向=日向・大隅・薩摩三国分割以前の南九州)の統治形態は、古琉球王国の「国王と聞得大君(きこえおおきみ)」による祭政一致体制を彷彿とさせるものであったと考えられる。


神武天皇の後継者・二代目綏靖天皇の和風諡号は「カムヌナカワミミ」で、第三子。上にヒコヤイミミとカムヤイミミがいるのだが、この「ミミ」はまさに投馬国の王の呼称「彌彌」と全く同じである。

この説話が仮に架空の創作であるにしても、大和で生まれたのだから例えば「大和彦」というような土地名を名付けるのが常識であろうに、わざわざ三人の皇子すべてに「ミミ」を付けるとはどうしたことであろうか。

このことは「ミミ」を王名とする投馬国が南九州にあり、そこから畿内大和へ「東征」したことの反映にほかなるまい。つまり南九州から実際に「ミミ」王が畿内大和へ「東征」を果たしたと考えれば即座に氷解されるのである。

私は記紀に描かれる「神武東征」を「投馬国の東遷」と呼び換えている。

次回は投馬国が本当に南九州に位置する国だったのか、倭人伝を調べてみよう。
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