「神武東征の真実」①及び②で、「神武東征とは南九州にあった投馬国が東遷したこと」に他ならず、その投馬国の位置を「倭人伝」の行程記事から確認し、ついでに(と言っては大きな問題過ぎるが)、伊都(いつ)国、邪馬台国、狗奴国の比定地を述べた。
この項では南九州にあった戸数五万戸の大国「投馬国」について論じて行く。
ⅰ.投馬国の「官」と「副」
倭人伝は投馬国に「彌彌(みみ)」という「官」と、「彌彌那利(みみなり)」という「副」がいたと記している。(※「副」とは「副官」の省略であることは言うまでもない。)
この「官」だが、私は「王」と解釈している。なぜなら帯方郡使が投馬国について「代表者は誰か」と倭人に問い、「あそこは王様を○○ミミと言っております」などと倭人が答えたのだろうが、投馬国を邪馬台国の連盟下の一国だと思っている郡使は、投馬国の「王」を邪馬台国からの派遣者つまり「官僚」と見做して「官」と記したものと思われるからである。
実は「官」と「副」は投馬国だけではなく、帯方郡からの行程記事に現れる国々では「対馬国」「壱岐国」「伊都国」「奴国」「不彌国」そして「投馬国」に「官・副」体制があると記されており、また「狗奴国」については「王・ヒコミコ」と「官・ククチヒコ」の記載がある。
「狗奴国」にだけ「王・ヒコミコ」と記されるが、この国は邪馬台国に属さず、むしろ侵攻を企てつつある敵国なので、この国の首長は当然邪馬台国の「官」ではありえず、したがって独立国であるゆえに首長を「王」と別格にしたのだ。
ところが同じ南九州の国でありながら、投馬国は狗奴国とは違い邪馬台国とは親交があったので、帯方郡使から見ると邪馬台国に従属しているという印象があったために、首長を「官」扱いにしたのであろう。
この投馬国の「官」の「彌彌」、「副」の「彌彌那利」だが、他の「官・副」体制の「官」と「副」とは大きな違いがある。以下に各国の「官」と「副」とを列挙して比較してみよう。
・対馬国・・・「官・卑狗(ひこ)」「副・卑奴母離(ひなもり)」
・壱岐国・・・「官・卑狗」「副・卑奴母離」
・伊都国・・・「官・爾支(ぬし)」「副・泄謨觚(せもこ)柄渠觚(ひここ)」
・奴国・・・「官・兕馬觚(しまこ)」「副・卑奴母離」
・不彌国・・・「官・多模(たも)」「副・卑奴母離」
・投馬国・・・「官・彌彌(みみ)」「副・彌彌那利(みみなり)」
・狗奴国・・・「男王・卑彌弓呼(ひみここ)」「官・狗古智卑狗(くこちひこ)」
「副」に多い「卑奴母離」は「夷守(ひなもり)」であろうことは多くの研究者が一致するところであり、従属性の強い国だと思われる。それに対して伊都国と投馬国は全く様相を異にしている。
伊都国の副「泄謨觚(せもこ)柄渠觚(ひここ)」は読みが確定しないが、まず「官」の息子たちであろろう。かっては武力に秀でた独立国だったが、敗れて佐賀平野の西端のまだその西の山中に余命を繋いだ国であったと考えられる。
「官」だが、対馬国と壱岐国は「卑狗」でありこれは「ひこ」であろうが、「ひく」の可能性もある。伊都国の「爾支」は漢字の音通りだと「にし」「にき」と読むが、これは「ぬし」の転訛としたい。
奴国の「官」は「じまこ」「じまく」と読めるが、私は「しまこ」と読んで「島子」とし、海浜を支配の中心とした首長と考えている。
不彌国の「官」は「たも」「たま」と読めるが、「たま」の方を採りたい。トヨタマヒメの「タマ」である。女首長かもしれない。
投馬国を後にして、狗奴国だが、上述のように狗奴国は女王国とは対立関係にある独立国なので、珍しく女王卑弥呼以外に王名が記されることになった。その名は「卑弥弓呼」。
このまま読めば「ひみきゅうこ」だが、「弓」を「こ」と読み、しかもその位置は誤りだとして「卑」のすぐ後に持ってきて「ひこみこ」と読む。そしてこれを「彦御子」と表意漢字で表現する。
さらに邪馬台国の女王「卑弥呼」の表意漢字をそのままの「日御子」とするのではなく、「日女御子」すなわち「姫御子」と「卑」と「彌呼」の間に「女(め)」を補う。こうすると倭人伝が卑弥呼を「女王」とし、卑弥弓呼を「男王」としていることの整合性を得る。
したがって私は女王卑弥呼は「ひめみこ」の、また狗奴国男王・卑弥弓呼は「ひこみこ」の倭人伝的転訛と考えるのである。
さて投馬国の「官」と「副」であった。上の一覧で即座に言えるのが、官の「彌彌」にしろ副の「彌彌那利」にしろ、投馬国の官名「彌彌」「彌彌那利」はどちらも誰が読んでも「みみ」「みみなり」としか読めないことだ。各国の王名なり官名なりの中で、これは際立った特色なのである。
(※誰もが疑いなく「ひみこ」と読んでいる卑弥呼でさえ、「ひみか」と読む研究者がいる。)
ⅱ.「神武東征」とは投馬国の東遷である
以下すべて「彌彌」はミミ、「彌彌那利」はミミナリと片仮名で書き進めて行く。
記紀は皇孫が日向(古日向=南九州)に天降り、二ニギーホホデミーウガヤフキアエズの三代ののちに神武(幼名トヨミケヌ又はサノノミコト)が生まれ、この時代に東征して大和に橿原王朝を築いたと記す。
東征説話では、神武は兄のイツセ・イナヒ・ミケイリヌ、そして皇子のタギシミミとともに、海路畿内を目指し、苦節16年余りののち、大和の豪族を討ち従えることに成功する。
王朝を開き、新たに皇后を迎えてから生まれた三皇子はヒコヤイミミ・カムヤイミミ・カムヌナカワミミで、一緒に東征した南九州生まれの皇子タギシミミ同様すべての名に「ミミ」がつく。
初代の神武天皇亡きあと、第2代天皇を第3子のカムヌナカワミミが継ぐのだが、その前に南九州出身の腹違いの兄であるタギシミミを不義・不忠だとして殺害してしまう。
しかし一方で綏靖天皇紀にはタギシミミについて次のように記す。
「その庶兄(ままあに)タギシミミのミコト、行年すでに長じ、久しく朝機(ちょうき)を歴たまえり。」
腹違いのタギシミミは大和生まれの皇子たちよりははるかに年齢が上で、久しいこと「朝機」(朝のハタラキすなわち天皇としての仕事)を経験していた――というのであるが、この一文に目を留める人は稀である。
どういうことかと言えば、まずタギシミミは東征に付いてくるくらいであるから南九州を出発する時点で最低でも10歳、普通に考えるなら15歳以上の青年だったろう。(※出発時の神武の年齢は45歳だったとある。)
15年ほどかかって畿内に到達し、大和を平らげた時点で16年余りの歳月が過ぎているので、王朝を開いた時点で神武が60歳前半、タギシミミは40歳前半だったはず。
日本書紀によると神武天皇は橿原宮で76年統治した後、127歳で亡くなったとあるのだが、これは無論無理な話で、橿原元年を革命の起こるという「辛酉の年」にしたうえ、その辛酉を紀元前660年にさかのぼって設定したがための「超長命引き延ばし」の結果であることは多くの研究者の指摘する通りである。
そこで常識的に考えてみよう。神武天皇が橿原王朝を築いた時の年齢が60数歳であるとすれば、もう隠居の年であったろう。その点、皇子のタギシミミは40歳代の働き盛りである。皇子に引き継ぐのに何の差し障りがあっただろうか。
しかもこの時点では新しい皇后イスケヨリヒメとの間の子はせいぜい生まれて間もない赤子であったのだ。三人目のカムヌナカワミミはもう少し遅れて生まれたのだから、この皇子がタギシミミを殺害して後継者になるとしても15年後か20年後で、その間のタギシミミの統治期間もやはり15年から20年はあったことになる。
以上からタギシミミはカムヌナカワミミが後継者になる頃は「行年すでに年長じ、久しく朝機を歴たまえり」(年は高齢で、長い間、天皇としての仕事をしていた)という状況であった。タギシミミが天皇であったとしてもおかしくはない。
カムヌナカワミミはどの道そう遠くない時に後継者になれるのだから、何もタギシミミを殺さずともよかったのだ。(※なぜ、殺害したのか――これについては次回の⑤で詳しく考察する。)
さて、では初代神武天皇と2代綏靖天皇(カムヌナカワミミ天皇)との間に、仮称で「タギシミミ天皇」の代があったのだろうか?
答は否である。私はタギシミミその人が神武天皇であったと考えるからだ。
なぜそう考えるかというと、継母に不義を働きそうになったり(古事記)、「諒闇(葬儀)の時に勝手なふるまいをし、禍(まが)れる心を隠して弟たちを殺害しようと図った」(書紀)りした人格の劣るタギシミミという兄の名に付く「ミミ」を承継しているからである。
選りにもよってそんな悪兄の名を継承する必要は全くなく、仮に名を継承した後で兄の悪行がぞろぞろと出てきたのであればそれはそれで書紀を編纂する段階で「ミミ」名を削除すればいいだけの話ではないか。削除などいとも簡単なのに――である。
仮にこの神武説話がまったくの造作であったにしても、いや造作であればあるだけ「ミミ」名の削除は容易だったのに、削除したり書き換えすることをしなかったのは、南九州の王名に「ミミ」名を持つ勢力の「東征」が史実だったから、と考える方に整合性があろう。
以上から私は南九州からの「神武東征」は「投馬国王タギシミミの東遷」と捉えれば事実あったとしてよいと考えるのである。
次回(最終回)の⑤では、投馬国が東遷するに至った理由と、大和でタギシミミが殺害されたと書く(書かざるを得なかった)わけについて考察したいと思う。
(「神武東征」の真実④ 終わり)
この項では南九州にあった戸数五万戸の大国「投馬国」について論じて行く。
ⅰ.投馬国の「官」と「副」
倭人伝は投馬国に「彌彌(みみ)」という「官」と、「彌彌那利(みみなり)」という「副」がいたと記している。(※「副」とは「副官」の省略であることは言うまでもない。)
この「官」だが、私は「王」と解釈している。なぜなら帯方郡使が投馬国について「代表者は誰か」と倭人に問い、「あそこは王様を○○ミミと言っております」などと倭人が答えたのだろうが、投馬国を邪馬台国の連盟下の一国だと思っている郡使は、投馬国の「王」を邪馬台国からの派遣者つまり「官僚」と見做して「官」と記したものと思われるからである。
実は「官」と「副」は投馬国だけではなく、帯方郡からの行程記事に現れる国々では「対馬国」「壱岐国」「伊都国」「奴国」「不彌国」そして「投馬国」に「官・副」体制があると記されており、また「狗奴国」については「王・ヒコミコ」と「官・ククチヒコ」の記載がある。
「狗奴国」にだけ「王・ヒコミコ」と記されるが、この国は邪馬台国に属さず、むしろ侵攻を企てつつある敵国なので、この国の首長は当然邪馬台国の「官」ではありえず、したがって独立国であるゆえに首長を「王」と別格にしたのだ。
ところが同じ南九州の国でありながら、投馬国は狗奴国とは違い邪馬台国とは親交があったので、帯方郡使から見ると邪馬台国に従属しているという印象があったために、首長を「官」扱いにしたのであろう。
この投馬国の「官」の「彌彌」、「副」の「彌彌那利」だが、他の「官・副」体制の「官」と「副」とは大きな違いがある。以下に各国の「官」と「副」とを列挙して比較してみよう。
・対馬国・・・「官・卑狗(ひこ)」「副・卑奴母離(ひなもり)」
・壱岐国・・・「官・卑狗」「副・卑奴母離」
・伊都国・・・「官・爾支(ぬし)」「副・泄謨觚(せもこ)柄渠觚(ひここ)」
・奴国・・・「官・兕馬觚(しまこ)」「副・卑奴母離」
・不彌国・・・「官・多模(たも)」「副・卑奴母離」
・投馬国・・・「官・彌彌(みみ)」「副・彌彌那利(みみなり)」
・狗奴国・・・「男王・卑彌弓呼(ひみここ)」「官・狗古智卑狗(くこちひこ)」
「副」に多い「卑奴母離」は「夷守(ひなもり)」であろうことは多くの研究者が一致するところであり、従属性の強い国だと思われる。それに対して伊都国と投馬国は全く様相を異にしている。
伊都国の副「泄謨觚(せもこ)柄渠觚(ひここ)」は読みが確定しないが、まず「官」の息子たちであろろう。かっては武力に秀でた独立国だったが、敗れて佐賀平野の西端のまだその西の山中に余命を繋いだ国であったと考えられる。
「官」だが、対馬国と壱岐国は「卑狗」でありこれは「ひこ」であろうが、「ひく」の可能性もある。伊都国の「爾支」は漢字の音通りだと「にし」「にき」と読むが、これは「ぬし」の転訛としたい。
奴国の「官」は「じまこ」「じまく」と読めるが、私は「しまこ」と読んで「島子」とし、海浜を支配の中心とした首長と考えている。
不彌国の「官」は「たも」「たま」と読めるが、「たま」の方を採りたい。トヨタマヒメの「タマ」である。女首長かもしれない。
投馬国を後にして、狗奴国だが、上述のように狗奴国は女王国とは対立関係にある独立国なので、珍しく女王卑弥呼以外に王名が記されることになった。その名は「卑弥弓呼」。
このまま読めば「ひみきゅうこ」だが、「弓」を「こ」と読み、しかもその位置は誤りだとして「卑」のすぐ後に持ってきて「ひこみこ」と読む。そしてこれを「彦御子」と表意漢字で表現する。
さらに邪馬台国の女王「卑弥呼」の表意漢字をそのままの「日御子」とするのではなく、「日女御子」すなわち「姫御子」と「卑」と「彌呼」の間に「女(め)」を補う。こうすると倭人伝が卑弥呼を「女王」とし、卑弥弓呼を「男王」としていることの整合性を得る。
したがって私は女王卑弥呼は「ひめみこ」の、また狗奴国男王・卑弥弓呼は「ひこみこ」の倭人伝的転訛と考えるのである。
さて投馬国の「官」と「副」であった。上の一覧で即座に言えるのが、官の「彌彌」にしろ副の「彌彌那利」にしろ、投馬国の官名「彌彌」「彌彌那利」はどちらも誰が読んでも「みみ」「みみなり」としか読めないことだ。各国の王名なり官名なりの中で、これは際立った特色なのである。
(※誰もが疑いなく「ひみこ」と読んでいる卑弥呼でさえ、「ひみか」と読む研究者がいる。)
ⅱ.「神武東征」とは投馬国の東遷である
以下すべて「彌彌」はミミ、「彌彌那利」はミミナリと片仮名で書き進めて行く。
記紀は皇孫が日向(古日向=南九州)に天降り、二ニギーホホデミーウガヤフキアエズの三代ののちに神武(幼名トヨミケヌ又はサノノミコト)が生まれ、この時代に東征して大和に橿原王朝を築いたと記す。
東征説話では、神武は兄のイツセ・イナヒ・ミケイリヌ、そして皇子のタギシミミとともに、海路畿内を目指し、苦節16年余りののち、大和の豪族を討ち従えることに成功する。
王朝を開き、新たに皇后を迎えてから生まれた三皇子はヒコヤイミミ・カムヤイミミ・カムヌナカワミミで、一緒に東征した南九州生まれの皇子タギシミミ同様すべての名に「ミミ」がつく。
初代の神武天皇亡きあと、第2代天皇を第3子のカムヌナカワミミが継ぐのだが、その前に南九州出身の腹違いの兄であるタギシミミを不義・不忠だとして殺害してしまう。
しかし一方で綏靖天皇紀にはタギシミミについて次のように記す。
「その庶兄(ままあに)タギシミミのミコト、行年すでに長じ、久しく朝機(ちょうき)を歴たまえり。」
腹違いのタギシミミは大和生まれの皇子たちよりははるかに年齢が上で、久しいこと「朝機」(朝のハタラキすなわち天皇としての仕事)を経験していた――というのであるが、この一文に目を留める人は稀である。
どういうことかと言えば、まずタギシミミは東征に付いてくるくらいであるから南九州を出発する時点で最低でも10歳、普通に考えるなら15歳以上の青年だったろう。(※出発時の神武の年齢は45歳だったとある。)
15年ほどかかって畿内に到達し、大和を平らげた時点で16年余りの歳月が過ぎているので、王朝を開いた時点で神武が60歳前半、タギシミミは40歳前半だったはず。
日本書紀によると神武天皇は橿原宮で76年統治した後、127歳で亡くなったとあるのだが、これは無論無理な話で、橿原元年を革命の起こるという「辛酉の年」にしたうえ、その辛酉を紀元前660年にさかのぼって設定したがための「超長命引き延ばし」の結果であることは多くの研究者の指摘する通りである。
そこで常識的に考えてみよう。神武天皇が橿原王朝を築いた時の年齢が60数歳であるとすれば、もう隠居の年であったろう。その点、皇子のタギシミミは40歳代の働き盛りである。皇子に引き継ぐのに何の差し障りがあっただろうか。
しかもこの時点では新しい皇后イスケヨリヒメとの間の子はせいぜい生まれて間もない赤子であったのだ。三人目のカムヌナカワミミはもう少し遅れて生まれたのだから、この皇子がタギシミミを殺害して後継者になるとしても15年後か20年後で、その間のタギシミミの統治期間もやはり15年から20年はあったことになる。
以上からタギシミミはカムヌナカワミミが後継者になる頃は「行年すでに年長じ、久しく朝機を歴たまえり」(年は高齢で、長い間、天皇としての仕事をしていた)という状況であった。タギシミミが天皇であったとしてもおかしくはない。
カムヌナカワミミはどの道そう遠くない時に後継者になれるのだから、何もタギシミミを殺さずともよかったのだ。(※なぜ、殺害したのか――これについては次回の⑤で詳しく考察する。)
さて、では初代神武天皇と2代綏靖天皇(カムヌナカワミミ天皇)との間に、仮称で「タギシミミ天皇」の代があったのだろうか?
答は否である。私はタギシミミその人が神武天皇であったと考えるからだ。
なぜそう考えるかというと、継母に不義を働きそうになったり(古事記)、「諒闇(葬儀)の時に勝手なふるまいをし、禍(まが)れる心を隠して弟たちを殺害しようと図った」(書紀)りした人格の劣るタギシミミという兄の名に付く「ミミ」を承継しているからである。
選りにもよってそんな悪兄の名を継承する必要は全くなく、仮に名を継承した後で兄の悪行がぞろぞろと出てきたのであればそれはそれで書紀を編纂する段階で「ミミ」名を削除すればいいだけの話ではないか。削除などいとも簡単なのに――である。
仮にこの神武説話がまったくの造作であったにしても、いや造作であればあるだけ「ミミ」名の削除は容易だったのに、削除したり書き換えすることをしなかったのは、南九州の王名に「ミミ」名を持つ勢力の「東征」が史実だったから、と考える方に整合性があろう。
以上から私は南九州からの「神武東征」は「投馬国王タギシミミの東遷」と捉えれば事実あったとしてよいと考えるのである。
次回(最終回)の⑤では、投馬国が東遷するに至った理由と、大和でタギシミミが殺害されたと書く(書かざるを得なかった)わけについて考察したいと思う。
(「神武東征」の真実④ 終わり)