今朝8時の気象情報では、大型台風10号は、現在、奄美大島の南島海上140キロまでやって来ている。
中心部の気圧は925ヘクトパスカルで、20キロのスピードで北北西に進路をとっている。情報によると予想した915ヘクトパスカルまでの発達はなく、すでに通過した南大東島では最大瞬間風速が50メートル台で収まっているらしい。
この分だと奄美大島を直撃しても、言われている70~80mということはなさそうだ。それでも60m程度にまでは行くのだから安心してはいられない。
台風は今後さらに北寄りに進み、昼過ぎに奄美に最接近し、その後は吐噶喇列島を巻き込みつつ屋久島の西方海上を行くらしい。屋久島の近海に来たら鹿児島本土も薩摩半島の一部が暴風圏に入るだろう。
進路の予報円によるとその中心は東シナ海だが、東寄りだと薩摩半島の西南部(坊津から枕崎辺り)に上陸する恐れがある。その時の気圧がもし925ヘクトパスカルのままだと、上陸時点の気圧の最低記録である第二室戸台風の924ヘクトパスカルに次ぐ第2位となるらしい。
これまでの記録では2位は伊勢湾台風の929ヘクトで、3位が平成5年(1993年)9月3日に鹿児島南部に上陸した台風13号の930ヘクトだそうだが、実はこの3位の13号台風には直接遭遇している。
27年前の平成5年という年は、今年のように梅雨が長く、結局梅雨明け宣言をする前の7月に小型台風が九州を横断したりして、そのまま8月1日は姶良町(現在は姶良市)で豪雨の被害があり、その5日後の8月6日には県都鹿児島を集中豪雨が襲い甚大な被害が発生している(8・6水害)。
8月中にも小型台風は2つくらいは来たと思うが、何と言っても9月に入った直後の13号は強烈だった。(※13号台風は前日に南薩の海岸に上陸して指宿をかすめて錦江湾を渡り、鹿屋の海岸に再上陸した。)
その年に私は家族とともに肝属郡田代町(現在は大根占町と合併して錦江町田代)に「入植」したのだが、夏休みは雨また雨で、まだ米は栽培していなかったが、作っている農家によると「平年作の6割」だったそうで、米不足で早期米の売買価格がかなり高騰したという話だった。
それでも米作農家はコメ不足に困ることはない上、高く売れたので、ある意味「うれしい悲鳴」だったのかもしれない。ほとんどが早期米の田代では8月の旧盆の頃には刈り入れを済ませていたから、都会にいる子供や親せきに新米を届けることができたはず。
しかし秋には全国的にコメ不足を呈し、アメリカのカリフォルニア米を緊急輸入するこという騒動になった。(※今でも続いているアメリカ米の輸入「ミニマムアクセス」の原因がここにある。)
さて月が替わって9月。新学期が始まって3日目、その前日から学校は休校になっていたから子供たち(小学校2年と幼稚園の年長組)は家にいたのだが、朝から強い風と雨に不安を覚えていると、午後3時頃だったか、強風で玄関の脇にある戸袋がガタンと落ち、風がサアっと吹き込んで来た。
慌てて強風の中を隣家に行き、玄関に入れてもらいやれやれと思う間もなく、今度はその玄関のガラス戸が破れたので、強風雨の中、歩いて5分ほどの学校の体育館に避難することにした。
しかし学校の避難所である体育館の屋根の一部が剥がれて吹き飛んだというので、昼前から体育館に避難していた人たちは、鉄筋2階建ての1階部分にある職員室前の長い廊下に移動していた。我々家族4人も同じ廊下に座り込んで通り過ぎるのを待ったのであった。
最大瞬間風速は、当時の田代町役場の屋上に設置してあった風力計が65mくらいまで記録した後は針が吹っ切れてしまったので最大の数値は不明なのだが、おそらく75m位まで行っていたのではないかと思われた。
この台風被害は豪雨を伴わないうえ短時間で通り過ぎたので、がけ崩れや河川の氾濫はなく、主にやられたのは家屋で、特に屋根がひどかった。
当時の家で瓦の1枚も飛んでいないという家はまずなかった。借家だったが我が家も例外ではなく、飛ばされていなくてもズレがひどくすぐに元通りにしないと雨漏りに悩まされる。そこでブルーシートを応急に被せるのだが、高い所から地区を眺めると、まるで難民キャンプ地のような風景だった。
当然瓦屋さんが大忙しで、忙しいのはいいが瓦自体の生産が追い付かないということで、多くの家ではこの難民キャンプ状態が初冬まで続いたのである。幸いその後に大きな台風は襲来せず、時の経つことが復旧を加勢したのであった。
この大規模な台風被害に対して、赤十字から「義援金」を生まれて初めて貰うことになったのだが、実はその前の鹿児島8・6水害に対して義援金を出しているので、家内と「何だ、帳尻があったんだ」と笑ったことを覚えている。
今度、十島村と三島村では「島外避難」というのを初めて行ったそうだが、それほど10号台風は恐れられている。気象庁も早くから口を酸っぱくして「最大規模の台風災害回避」を訴えている。鹿屋市でもすでに昨日の4時から指定避難所を開設した。今朝も8時から追加の避難所を放送で知らせ、避難を促している。
この分で行くと、あと10時間後には我が家周辺も暴風圏に入りそうだ。西寄りに進んでくれればありがたいのだが・・・。
懐中電灯、カセットコンロ、スマホの充電器に使えるキーソケット(自動車用)、インスタント食糧類などは昨日買い揃えた。あと車のガソリンも満タン、風呂場の湯船も満タンにした。
庭にあって飛ばされそうな植木鉢や布団掛けも処置した。泣く泣くニガウリの棚も処分した。さあ、来い(本音は「あっちへ行け」)、台風10号!!
中心部の気圧は925ヘクトパスカルで、20キロのスピードで北北西に進路をとっている。情報によると予想した915ヘクトパスカルまでの発達はなく、すでに通過した南大東島では最大瞬間風速が50メートル台で収まっているらしい。
この分だと奄美大島を直撃しても、言われている70~80mということはなさそうだ。それでも60m程度にまでは行くのだから安心してはいられない。
台風は今後さらに北寄りに進み、昼過ぎに奄美に最接近し、その後は吐噶喇列島を巻き込みつつ屋久島の西方海上を行くらしい。屋久島の近海に来たら鹿児島本土も薩摩半島の一部が暴風圏に入るだろう。
進路の予報円によるとその中心は東シナ海だが、東寄りだと薩摩半島の西南部(坊津から枕崎辺り)に上陸する恐れがある。その時の気圧がもし925ヘクトパスカルのままだと、上陸時点の気圧の最低記録である第二室戸台風の924ヘクトパスカルに次ぐ第2位となるらしい。
これまでの記録では2位は伊勢湾台風の929ヘクトで、3位が平成5年(1993年)9月3日に鹿児島南部に上陸した台風13号の930ヘクトだそうだが、実はこの3位の13号台風には直接遭遇している。
27年前の平成5年という年は、今年のように梅雨が長く、結局梅雨明け宣言をする前の7月に小型台風が九州を横断したりして、そのまま8月1日は姶良町(現在は姶良市)で豪雨の被害があり、その5日後の8月6日には県都鹿児島を集中豪雨が襲い甚大な被害が発生している(8・6水害)。
8月中にも小型台風は2つくらいは来たと思うが、何と言っても9月に入った直後の13号は強烈だった。(※13号台風は前日に南薩の海岸に上陸して指宿をかすめて錦江湾を渡り、鹿屋の海岸に再上陸した。)
その年に私は家族とともに肝属郡田代町(現在は大根占町と合併して錦江町田代)に「入植」したのだが、夏休みは雨また雨で、まだ米は栽培していなかったが、作っている農家によると「平年作の6割」だったそうで、米不足で早期米の売買価格がかなり高騰したという話だった。
それでも米作農家はコメ不足に困ることはない上、高く売れたので、ある意味「うれしい悲鳴」だったのかもしれない。ほとんどが早期米の田代では8月の旧盆の頃には刈り入れを済ませていたから、都会にいる子供や親せきに新米を届けることができたはず。
しかし秋には全国的にコメ不足を呈し、アメリカのカリフォルニア米を緊急輸入するこという騒動になった。(※今でも続いているアメリカ米の輸入「ミニマムアクセス」の原因がここにある。)
さて月が替わって9月。新学期が始まって3日目、その前日から学校は休校になっていたから子供たち(小学校2年と幼稚園の年長組)は家にいたのだが、朝から強い風と雨に不安を覚えていると、午後3時頃だったか、強風で玄関の脇にある戸袋がガタンと落ち、風がサアっと吹き込んで来た。
慌てて強風の中を隣家に行き、玄関に入れてもらいやれやれと思う間もなく、今度はその玄関のガラス戸が破れたので、強風雨の中、歩いて5分ほどの学校の体育館に避難することにした。
しかし学校の避難所である体育館の屋根の一部が剥がれて吹き飛んだというので、昼前から体育館に避難していた人たちは、鉄筋2階建ての1階部分にある職員室前の長い廊下に移動していた。我々家族4人も同じ廊下に座り込んで通り過ぎるのを待ったのであった。
最大瞬間風速は、当時の田代町役場の屋上に設置してあった風力計が65mくらいまで記録した後は針が吹っ切れてしまったので最大の数値は不明なのだが、おそらく75m位まで行っていたのではないかと思われた。
この台風被害は豪雨を伴わないうえ短時間で通り過ぎたので、がけ崩れや河川の氾濫はなく、主にやられたのは家屋で、特に屋根がひどかった。
当時の家で瓦の1枚も飛んでいないという家はまずなかった。借家だったが我が家も例外ではなく、飛ばされていなくてもズレがひどくすぐに元通りにしないと雨漏りに悩まされる。そこでブルーシートを応急に被せるのだが、高い所から地区を眺めると、まるで難民キャンプ地のような風景だった。
当然瓦屋さんが大忙しで、忙しいのはいいが瓦自体の生産が追い付かないということで、多くの家ではこの難民キャンプ状態が初冬まで続いたのである。幸いその後に大きな台風は襲来せず、時の経つことが復旧を加勢したのであった。
この大規模な台風被害に対して、赤十字から「義援金」を生まれて初めて貰うことになったのだが、実はその前の鹿児島8・6水害に対して義援金を出しているので、家内と「何だ、帳尻があったんだ」と笑ったことを覚えている。
今度、十島村と三島村では「島外避難」というのを初めて行ったそうだが、それほど10号台風は恐れられている。気象庁も早くから口を酸っぱくして「最大規模の台風災害回避」を訴えている。鹿屋市でもすでに昨日の4時から指定避難所を開設した。今朝も8時から追加の避難所を放送で知らせ、避難を促している。
この分で行くと、あと10時間後には我が家周辺も暴風圏に入りそうだ。西寄りに進んでくれればありがたいのだが・・・。
懐中電灯、カセットコンロ、スマホの充電器に使えるキーソケット(自動車用)、インスタント食糧類などは昨日買い揃えた。あと車のガソリンも満タン、風呂場の湯船も満タンにした。
庭にあって飛ばされそうな植木鉢や布団掛けも処置した。泣く泣くニガウリの棚も処分した。さあ、来い(本音は「あっちへ行け」)、台風10号!!