鴨着く島

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大隅史談会会長時代の回顧

2021-03-05 09:09:07 | 日記
3月2日から4日にかけて、「さらば大隅郷土史」「さらば大隅郷土史(つづき)」を書いていたら、特に「つづき」においてはかなり冷静さ取り戻し、そうだったな、こんなことがあったよな――と頭に浮かび、胸を去来する事どもが多かった。

大隅史談会の会長職に11年あったわけだが、よく言われるように「十年ひと昔」で、たしかにいろいろなことがあった。

今日は大隅史談会会長時代を若干振り返っておきたい。

会長に就任したのは「さらば大隅郷土史(つづき)」で書いた通り、副会長も理事も誰もやり手がいない中で、平成18年(2006年)3月当時の会長・江口主計先生から受け継いだのであるが、そこから会長職辞任(同時に退会)までの事どもを客観的事実のみを挙げて振り返りたい。


さて平成18(2006)年4月に会長に就任したのだが、最初の仕事は3月中に上梓された『大隅49号』の販売であった。販売以外に各図書館等への贈呈郵送・配達の仕事があるが、この春の新号の販売と贈呈等はこの後も毎年同じことの繰り返しなので、以降は触れない。

会長に就任して驚いたのがこの大隅史談会、会員は会員名簿に200名以上がいるのだが会費の徴収は無いのであった。では何を運営資金とするのかというと会誌『大隅』の売り上げなのである。俗に言う「自転車操業」というやつである。

しかし会員200名のすべての人が購入するわけではなく、年にもよるが100名から150名(100冊から150冊)であり、単純に計算すると年間売り上げは20万から30万であった。

平成18年度は前々年度の『大隅48号』(340ページの大部。二部構成で、一部を「高須町の戦争記録集」としていたので高須関連の人たちには好評でよく売れ、また18年度になっても品切れで追加の発行を行ったほどであった)が、よく売れて、たしか60万くらいが手元に残ったのではないか。

したがって平成19年4月に上梓した『大隅50号』から『大隅51号』までの2号分の出版費用は何とか賄えたのだが、52号を出版する段になると資金が尽きかけていた。しかし『大隅52号』は何とか出すことができた。だが、その年度(平成21年度)の平成22年3月の決算ではすでに次の53号の出版費用が不足することになった。

大隅誌一回の出版費用は、発行部数・ページ数に拠らず一冊当たり1600円というのが印刷所との約束(契約?)であったから、200部を依頼すると32万円。250部なら40万円。

この頃はおおむね250部を発行していたが、その40万はおろか30万も難しい。

大隅史談会の郵便通帳には普通口座とは別に、定額の60万があったから、それを取り崩せば急場はしのげるが、少し以前に100万ほどあったのを取り崩しており、今度それに手を付けてもせいぜい3号分の出版費用にしかならない。貯金をゼロにしたうえで55号で出版は終わりです――何てことは責任者として口が裂けても言えないし、言いたくない。

(※定額の60万は、大隅史談会が昭和56年か7年の頃に「地域史への長年(30年)の取り組みを評価する」としてもらった「MBC賞」の賞金100万円の残りであったと聞いている。)

そこで印刷所に「自分で原稿をパソコンで打ち込み、おたくに製本だけお願いしたら、安くなるのでは」と掛け合い、半額の840円(800円プラス消費税5パーセント)で可能となり、250部が20万で済むようになった。

この53号以降は私が編集した60号まで同じ一冊当たり840円となったので、出版の継続が可能になったのである。

55号か56号からは平均して300部(製本代252000円)をキープするようになり、製本代を引いて毎年決算で10万以上は残るようになったので、この頃からパソコン打ち込み代として3万~10万を頂くようになった。会長職の手当ては何も無いので、気持ちとしては会長手当的なものと考えた。

また56号くらいからは会誌に広告を載せたらどうかと、各企業を回ったことがあったが、余り芳しくなかった。第一、「大隅史談会なんかあったの?」と言われる始末で、面食らうことがしばしばだった。それでも某不動産会社の会長の肝いりで、100冊を購入してもらい、それを大隅地区の高校の都会(東京・大阪・福岡など)の同窓会に贈るという事業が始まり、一冊1600円、100部で16万円が定期的に入るようになり、資金面で大いに助かった。

そうした余剰金を使い、「月例会」を57号の頃(平成26年度)から始めた。月1回の日曜日の午後、主として会誌に投稿してもらった人の話を聴くという学習会だが、一回に二人の講師を頼み、それぞれ4000~5000円を謝礼として支払うことができた。月例会用にプロジェクター(45000円)を購入したのもこの頃である。
(※さらに『三国名勝図会』全4冊・青潮社版、古本で3万円ほどだったのも購入した。これとプロジェクターは平成29年3月に新会長の隈元氏と事務局の白井氏が我が家に事務用品一式を取りに来た際、一緒に持ち出した。事務局に置いてあるはず。)

会長職を去ろうと決めたのは平成28年の夏であった。それまで毎年の出版に関しては誰のお咎めもなく発行を重ねて来たのだが、「月例会」を開いたことが、副会長の隈元氏には気に入らなかったようで、彼が月例会に参加したことはなかった。

南日本新聞の「みなみのカレンダー」に月例会の案内を載せていたので、会員以外にも見知らぬ顔を見ることがあり、何回か続けて参加した人に、「どこからお出でか」と聞くと、「〇〇町です。文化財審議員やっています」という。

それで私は合点が行った。つまり隈元氏は大隅地区の文化財保護審議会の指導員であり、このような人たちを集めた委員会総会とか研修会ではトップの立場の人であり、その人が副会長をやっている大隅史談会が主催する「月例会」には主催者の一人として会場に来ているものと思っての参加だったのだろう。隈元氏のファンと言うべき人たちだったかもしれない。

それが来ていないということはどういうことか。おそらく某町・某市の文化財保護審議委員の間でそのことが話題になったのではないか。また、会長の松下氏がなぜ審議会委員ではないのか、ということも。(※ここはあくまでも自分の推理で客観性に乏しいが・・・)。

結局、その齟齬に隈元氏も、実は私も嫌気がさしたのだ(※隈元氏のはともかく、自分の嫌気は主観ではなく客観に近い)。

そしてその年度(28年度)のパソコン打ち込みと編集(『大隅60号』)を秋から冬にかけて済ませ、例の如く印刷所にUSBメモリーを持参し、本が仕上がるのを見届け、平成29(2017)年4月に新会長の隈元氏にバトンタッチをした。


以上が、私が大隅史談会会長として在籍した11年間の粗々なる回顧である。


※大隅史談会は自分の会長就任当時『大隅』という会誌を出版するだけの会に成り下がっており、そのことは取りも直さず、「会誌出版が途切れたら、会も終わり」という会だったということである。

※自分で言うのもなんだが、この瀕死に近い状態だった大隅史談会において私の前に会長であった江口主計先生の会および会誌続行への強い想いを受け継いで今日に繋いだのは私だと思っている。

※今の大隅史談会の顧問である旧高山町最古参のK先生(女性で先生上がり。高山郷土誌の中世担当者。御年は95と聞く)からは、私が会を辞めてからも毎年年賀状を頂くが、必ず自筆の添え書きで「先生(松下のこと)がいなかったら史談会は続いていませんでした」と認めて下さっている。

 K先生は会長就任当時にお話に伺ったとき、「これまでに書くことは書いてしまったから、書くことがもう無いの」とおっしゃっていた。だがしかし私が就任してからは毎号一つ以上の論考を寄せられ、60号の巻末に創刊号からの著者と論考を一覧できるように編集してあるのだが、それを見ても一目瞭然、断トツの論文数である。驚くべし。

 この先生の持続性は、自分も見習いたいと思っている。頭も身体も常に適度に使うことだな、関心を持ち続けることだなと教えてくれているようだ。