大倭(タイワ)は魏志倭人伝上の用語で、邪馬台国連盟(女王国以下21か国)内で国々が交易をする市場のような物があり、それを監督する(「国々に市有りて、有無を交易す。大倭をして之を監せしむ」)のが、大倭であった。
この大倭を女王国による設置であると考える研究者が多いが、それは違う。もし、そうであるならば、女王国の官制「伊支馬」「彌馬升」「彌馬獲支」「奴佳鞮」という4等官に加えられていなければならない。(※私は最初の「伊支馬」を「イキマ=イキメ」と読んで、垂仁天皇の和風諡号「活目入彦五十狭茅」の「活目」がそれに当たるとした。垂仁は「大倭」から派遣されて、女王国を監督していたことがあったと考えた。)
この大倭こそは、「五十(イソ)国」すなわち糸島を足掛かりに崇神・垂仁の二代で大きく勢力を伸ばし、北部九州一帯を支配下におさめた「崇神五十王国」の発展したものであり、「北部九州倭人連合」とも言うべき勢力である。崇神の先祖が半島の「御間城(ミマキ)、後の任那(ミマナ)において大勢力となり、半島情勢の逼迫によってその王宮を糸島に移したと考えるのである。
しかし、あの半島を侵攻して公孫氏を打ち破り、魏による直接支配を招来した大将軍・司馬懿の記憶も新しく、あまつさえその孫の司馬炎が魏に代わって晋王朝を開いたと聞くと、半島からわずか三日の行程で到達可能なこの糸島「五十王国」はもとより、北部九州全域も司馬氏の侵入に耐えられるところではないと思うに至った。
そこで更なる安全地帯、すなわち、畿内大和を目指すことにしたのが「大倭の王」崇神であったと思われる。
古事記の「神武東征」は南九州から出発して16年余掛かって河内の日下(くさか)に到着したと書くが、それは一回目の南九州からの「投馬国東征」であり、その一方で日本書紀では、出発からわずか3年半で河内に到達しているが、こっちは二回目の東征「崇神東征」に他ならない。
この崇神東征は「大倭の東征」と言い換えられる。「大倭」を「北部九州倭人連合」と定義したことからすれば、こちらは北部九州からの東征ということになる。
【 先代旧事本紀に見える「大倭国」 】
この北部九州に「大倭」があったことを明示している史料がある。それは『先代旧事本紀』で、その第10巻目に「国造本紀」という全国各地(国)の国造に任命された134の国造の名が網羅されているのだが、その「まえがき」には国造と県主が定められた経緯が記されている。
次に「まえがき」の必要な部分を意訳して掲載しよう。
〈 天孫ニニギノミコトの孫(曽孫)イワレヒコは、日向より発して倭国(やまと)に赴いた。東征の時、大倭国において漁夫に出会った。(イワレヒコは)左右に「海の中に浮かんでいるのは何者だ」といい、忌部首の祖であるアメノヒワシノミコトに命じて見に行かせたところ、「人でした」と連れて帰った。「私は皇祖ホホデミノミコトの孫でシイネツヒコといいます。海路も陸路も熟知しております」と答えたので、道案内をさせた。
(中略)
橿原に都し、天皇位に就いたイワレヒコは、シイネツヒコを「大倭国造」に任命した。〉
この中に二か所の下線部に、「大倭国」「大倭国造」とあるうちの、最初の「大倭国」が北部九州にあった「大倭」を指している。
あとの「大倭国造」は「ヤマト国造」と読むべきなのは疑いないだろう。何しろ大和の橿原に王朝を開いたのであるから、最大の功臣であるシイネツヒコをそのおひざ元、つまり大和の国造にしたわけである。
ところが前者の「大倭国」は「ヤマト国」ではない。海の無い大和に漁夫がいるはずはないし、何よりも最終目的地が日向から出発して間もなくの場所にあるはずもない。
古事記も書紀も東征の最中に海の中で漁夫に出会ったのは、「早吸水門」(はやすいのと)という潮の流れの速い海峡だとしており、古事記はそれを吉備の高島宮の先とし、日本書紀は大分県と愛媛県境の「豊予海峡」とする。
古事記の説では「明石海峡」が早吸水門に該当しようが、しかしそこで初めて海路の道案内を見つけたとなると、それ以前の瀬戸内海の島々、海峡はどう通過したのか、ここまで来たら今さらもう必要ないだろうと考えられる。その一方で豊予海峡であれば、そこを過ぎたらもう瀬戸内海であり、その先は名うての瀬戸や海峡が待ち受ける。海路を案内するパイロットはどうしても必要になる。
したがってこの「大倭国」は豊予海峡を含む北部九州の領域にある国としか考えられない。とすればこの大倭国は「ヤマト国」ではなく「タイワ国」と考えてよい。すなわちこの「大倭国」は北部九州倭人連合である「大倭」のこととしてよいのである。
さて北部九州に「大倭(タイワ)」が存在したことは以上で判明したと思うが、では同じ「大倭」と書いて「オオヤマト」と読ませるのはなぜで、いつから「タイワ」が「オオヤマト」になったのだろうか。次にそれを考えてみたい。
【「欠史八代」に見える「大倭(おおやまと)】
天皇の事績が無いので、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までを一括して「欠史八代」と呼んでいる。しかし私は綏靖天皇紀には「その(綏靖天皇の)庶兄タギシミミ、行年すでに長けて、久しく朝機を歴たり」(南九州から神武天皇とともに東征したのち大和入りしたあと、タギシミミはもう高齢になっていたが、それまで長く天皇のハタラキをしていた)という決して看過できない記事があるゆえ、綏靖天皇は「欠史」ではないとしている。
したがって正確には「欠史七代」とすべきなのだが、さてこの七代のうち次の天皇の古事記における和風諡号には「大倭(おおやまと)」が付いている。
第4代 懿徳天皇 オオヤマト(大倭)ヒコスキトモ
第6代 孝安天皇 オオヤマト(大倭)ヒコクニオシヒト
第7代 孝霊天皇 オオヤマト(大倭)ネコヒコフト二
第8代 孝元天皇 オオヤマト(大倭)ネコヒコクニクル
日本書紀ではこの「大倭」はすべて「大日本」に置き換えられているが、「倭(やまと)」を「日本」にしている例は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)があり、これは倭国が日本に改称したあとに置き換えたものであり、「大倭」が古称であるのは論を俟たない。
さてでは「大倭」という和風諡号は何ゆえにそう付いたのであろうか。
「倭」とは勿論、魏志倭人伝中の用語であり、3世紀当時の大陸人が名付けた「倭人」に基づいている。半島や列島に繁栄していた今日の日本人の基になった種族である。
「旧唐書」にはよく知られるように、「倭国」と「日本」が同時に並列して書かれている。どちらも列島にある倭人国家を指していることは間違いないのだが、のちに「日本」という名称が単一で採用されるまでの間、列島内で王権が分裂していたかのように書かれている。
(※これはこれでちょっとした問題なのだが、日本呼称の起源とともに別の機会に論じたい。)
日本が通称化するまで「倭、倭国」が日本列島の国の名であった。この中で北部九州には崇神五十王国から発展した倭人連合「大倭」が成立した。西暦で言えば2世紀前後の事だと考える。ちょうど南九州からの「神武東征(実は投馬国王タギシミミの東遷)」があった頃で、この時期はまた九州北部で大きな争乱があり(後漢書と倭人伝にある倭人の乱)、卑弥呼の擁立で争乱が収まった頃でもあった。
この北部九州倭人連合の「大倭」が、南九州の「神武東征」の約100年後に大和への東征を果たし、崇神王権が成立した。このことを伝えているのが上に書き出した第4代、第6代、第7代、第8代の天皇の和風諡号に冠せられた「大倭(おおやまと)」の起源だろう。つまりこれらの天皇は崇神天皇の先祖だということである。
崇神天皇の先祖がまだ半島南部の「御間城(ミマキ)」(のちの任那)に王宮を築いていた頃に王であった5代くらい前の先王の名を、新しく大和に王朝を築いたのち、「万世一系の理念」に違わぬよう南九州由来の神武、綏靖、安寧三代の後に接合したのであろう。
これが大倭(タイワ)と書いて「おおやまと」と読ませるゆえんである。
(※大倭=大和を「やまと」と読ませるのだが、そもそも「やまと」の語源は何であろうか。「やまたいこく」から由来しているとは大方の認知だが、では「やまたい」とは何から来た名称なのだろうか。上で触れた「日本呼称の起源」とともに別論に挙げることにする。)
この大倭を女王国による設置であると考える研究者が多いが、それは違う。もし、そうであるならば、女王国の官制「伊支馬」「彌馬升」「彌馬獲支」「奴佳鞮」という4等官に加えられていなければならない。(※私は最初の「伊支馬」を「イキマ=イキメ」と読んで、垂仁天皇の和風諡号「活目入彦五十狭茅」の「活目」がそれに当たるとした。垂仁は「大倭」から派遣されて、女王国を監督していたことがあったと考えた。)
この大倭こそは、「五十(イソ)国」すなわち糸島を足掛かりに崇神・垂仁の二代で大きく勢力を伸ばし、北部九州一帯を支配下におさめた「崇神五十王国」の発展したものであり、「北部九州倭人連合」とも言うべき勢力である。崇神の先祖が半島の「御間城(ミマキ)、後の任那(ミマナ)において大勢力となり、半島情勢の逼迫によってその王宮を糸島に移したと考えるのである。
しかし、あの半島を侵攻して公孫氏を打ち破り、魏による直接支配を招来した大将軍・司馬懿の記憶も新しく、あまつさえその孫の司馬炎が魏に代わって晋王朝を開いたと聞くと、半島からわずか三日の行程で到達可能なこの糸島「五十王国」はもとより、北部九州全域も司馬氏の侵入に耐えられるところではないと思うに至った。
そこで更なる安全地帯、すなわち、畿内大和を目指すことにしたのが「大倭の王」崇神であったと思われる。
古事記の「神武東征」は南九州から出発して16年余掛かって河内の日下(くさか)に到着したと書くが、それは一回目の南九州からの「投馬国東征」であり、その一方で日本書紀では、出発からわずか3年半で河内に到達しているが、こっちは二回目の東征「崇神東征」に他ならない。
この崇神東征は「大倭の東征」と言い換えられる。「大倭」を「北部九州倭人連合」と定義したことからすれば、こちらは北部九州からの東征ということになる。
【 先代旧事本紀に見える「大倭国」 】
この北部九州に「大倭」があったことを明示している史料がある。それは『先代旧事本紀』で、その第10巻目に「国造本紀」という全国各地(国)の国造に任命された134の国造の名が網羅されているのだが、その「まえがき」には国造と県主が定められた経緯が記されている。
次に「まえがき」の必要な部分を意訳して掲載しよう。
〈 天孫ニニギノミコトの孫(曽孫)イワレヒコは、日向より発して倭国(やまと)に赴いた。東征の時、大倭国において漁夫に出会った。(イワレヒコは)左右に「海の中に浮かんでいるのは何者だ」といい、忌部首の祖であるアメノヒワシノミコトに命じて見に行かせたところ、「人でした」と連れて帰った。「私は皇祖ホホデミノミコトの孫でシイネツヒコといいます。海路も陸路も熟知しております」と答えたので、道案内をさせた。
(中略)
橿原に都し、天皇位に就いたイワレヒコは、シイネツヒコを「大倭国造」に任命した。〉
この中に二か所の下線部に、「大倭国」「大倭国造」とあるうちの、最初の「大倭国」が北部九州にあった「大倭」を指している。
あとの「大倭国造」は「ヤマト国造」と読むべきなのは疑いないだろう。何しろ大和の橿原に王朝を開いたのであるから、最大の功臣であるシイネツヒコをそのおひざ元、つまり大和の国造にしたわけである。
ところが前者の「大倭国」は「ヤマト国」ではない。海の無い大和に漁夫がいるはずはないし、何よりも最終目的地が日向から出発して間もなくの場所にあるはずもない。
古事記も書紀も東征の最中に海の中で漁夫に出会ったのは、「早吸水門」(はやすいのと)という潮の流れの速い海峡だとしており、古事記はそれを吉備の高島宮の先とし、日本書紀は大分県と愛媛県境の「豊予海峡」とする。
古事記の説では「明石海峡」が早吸水門に該当しようが、しかしそこで初めて海路の道案内を見つけたとなると、それ以前の瀬戸内海の島々、海峡はどう通過したのか、ここまで来たら今さらもう必要ないだろうと考えられる。その一方で豊予海峡であれば、そこを過ぎたらもう瀬戸内海であり、その先は名うての瀬戸や海峡が待ち受ける。海路を案内するパイロットはどうしても必要になる。
したがってこの「大倭国」は豊予海峡を含む北部九州の領域にある国としか考えられない。とすればこの大倭国は「ヤマト国」ではなく「タイワ国」と考えてよい。すなわちこの「大倭国」は北部九州倭人連合である「大倭」のこととしてよいのである。
さて北部九州に「大倭(タイワ)」が存在したことは以上で判明したと思うが、では同じ「大倭」と書いて「オオヤマト」と読ませるのはなぜで、いつから「タイワ」が「オオヤマト」になったのだろうか。次にそれを考えてみたい。
【「欠史八代」に見える「大倭(おおやまと)】
天皇の事績が無いので、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までを一括して「欠史八代」と呼んでいる。しかし私は綏靖天皇紀には「その(綏靖天皇の)庶兄タギシミミ、行年すでに長けて、久しく朝機を歴たり」(南九州から神武天皇とともに東征したのち大和入りしたあと、タギシミミはもう高齢になっていたが、それまで長く天皇のハタラキをしていた)という決して看過できない記事があるゆえ、綏靖天皇は「欠史」ではないとしている。
したがって正確には「欠史七代」とすべきなのだが、さてこの七代のうち次の天皇の古事記における和風諡号には「大倭(おおやまと)」が付いている。
第4代 懿徳天皇 オオヤマト(大倭)ヒコスキトモ
第6代 孝安天皇 オオヤマト(大倭)ヒコクニオシヒト
第7代 孝霊天皇 オオヤマト(大倭)ネコヒコフト二
第8代 孝元天皇 オオヤマト(大倭)ネコヒコクニクル
日本書紀ではこの「大倭」はすべて「大日本」に置き換えられているが、「倭(やまと)」を「日本」にしている例は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)があり、これは倭国が日本に改称したあとに置き換えたものであり、「大倭」が古称であるのは論を俟たない。
さてでは「大倭」という和風諡号は何ゆえにそう付いたのであろうか。
「倭」とは勿論、魏志倭人伝中の用語であり、3世紀当時の大陸人が名付けた「倭人」に基づいている。半島や列島に繁栄していた今日の日本人の基になった種族である。
「旧唐書」にはよく知られるように、「倭国」と「日本」が同時に並列して書かれている。どちらも列島にある倭人国家を指していることは間違いないのだが、のちに「日本」という名称が単一で採用されるまでの間、列島内で王権が分裂していたかのように書かれている。
(※これはこれでちょっとした問題なのだが、日本呼称の起源とともに別の機会に論じたい。)
日本が通称化するまで「倭、倭国」が日本列島の国の名であった。この中で北部九州には崇神五十王国から発展した倭人連合「大倭」が成立した。西暦で言えば2世紀前後の事だと考える。ちょうど南九州からの「神武東征(実は投馬国王タギシミミの東遷)」があった頃で、この時期はまた九州北部で大きな争乱があり(後漢書と倭人伝にある倭人の乱)、卑弥呼の擁立で争乱が収まった頃でもあった。
この北部九州倭人連合の「大倭」が、南九州の「神武東征」の約100年後に大和への東征を果たし、崇神王権が成立した。このことを伝えているのが上に書き出した第4代、第6代、第7代、第8代の天皇の和風諡号に冠せられた「大倭(おおやまと)」の起源だろう。つまりこれらの天皇は崇神天皇の先祖だということである。
崇神天皇の先祖がまだ半島南部の「御間城(ミマキ)」(のちの任那)に王宮を築いていた頃に王であった5代くらい前の先王の名を、新しく大和に王朝を築いたのち、「万世一系の理念」に違わぬよう南九州由来の神武、綏靖、安寧三代の後に接合したのであろう。
これが大倭(タイワ)と書いて「おおやまと」と読ませるゆえんである。
(※大倭=大和を「やまと」と読ませるのだが、そもそも「やまと」の語源は何であろうか。「やまたいこく」から由来しているとは大方の認知だが、では「やまたい」とは何から来た名称なのだろうか。上で触れた「日本呼称の起源」とともに別論に挙げることにする。)