鴨着く島

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倭人語(日本語)のルーツ

2021-07-25 08:58:05 | 邪馬台国関連
タイトルでは「倭人語」としたが、この名称は一般的には使われない。「倭語」としてもよいが、魏志倭人伝では「倭人」が多用されており、それに沿ったネーミングにしてみた。

【魏志倭人伝から見た倭人語と、朝鮮半島南部の韓語】

魏志倭人伝には当時の倭人の言葉が散見される。

まずは「倭」。これは「ワ」と読む。倭人が自分のことを指してそう言ったのを、中国史官である陳寿が「倭」という漢字を当てたのだろう。これは今日でも十分に理解できる言葉(一人称)である。

他には「卑狗」(ヒク)、「卑奴母離」(ヒナモリ)が登場するが、これらは「彦」「夷守」と書けば、今日でも十分理解できる。

倭人の国々の名も倭人語の宝庫である。「対馬(ツイマ)」はそのまま今日の対馬であり、「一支(イキ)」も今日の壱岐である。「末盧(マツロ)」(松浦=唐津を含む)、「伊都(イツ)」(厳木)など、今日の地名を髣髴させるに十分だ。

「邪馬台(ヤマタイ)」を私は「アマツヒツギ」のことと考えており、中国史官が語頭の「ア」音に「Y」を添加して「ヤマ」となり、さらに「ツヒツギ」は略音化によって「タイ」となったとする。「アマツヒツギ」とは「天から由来の」という意味である。女王卑弥呼は天の声(具体的に言えば天照大神の神託)を聞くことができたのだろう。

邪馬台国連盟に属する「斯馬(シマ)」「伊邪(イヤ)」「都支(トキ)」「彌奴(ミナ)」など21の国々も、存在した場所については詳しくは分からないのだが、国名の多くは今日の日本語音に非常に近い。

邪馬台国連盟以外では「狗奴国」と「投馬国」が挙げられる。

「狗奴国」は「熊国」としてよく、今日の熊本県域に比定される。男王がいて倭人伝では「卑弥弓呼(ヒミココ)」とするが、これは「卑弓弥呼(ヒコミコ)」の誤記だろう。彦御子のことで、卑弥呼の「姫御子」と対を為す。また狗奴国の「官」に「狗古智卑狗(クコチヒコ)」がいると書くが、これは「菊池彦」のことに違いない。菊池は熊本県の北東部、菊池川流域に位置している。

また、「投馬国」は「ソツマ国」の「ソ」の脱落した当て漢字で、中国史官(記録者)が「ツ」という音の強勢に押されて書き落としたものと考えられる。この「ソツマ」の「ツ」は「~の」という助詞であり、「ソのマ」とは「マ」が場所や地域(国)のことであるから、「ソの国」となる。要するに「曽(襲)の国」であり、南九州人は自分の領域を「曽の国」すなわち「ソツマ」と呼んでいた。

魏志倭人伝に登場するこういった国名や地名・人名・官名は2世紀から3世紀の倭人たちの言葉であるが、多くは現代日本語でも何とか理解できる。もちろん倭人自身による書き言葉ではなく、その当時の中国史官の漢字による表記であるから、意味を取るうえで「隔靴掻痒の感」は免れないのだが、倭人の言語が今日の日本語と同族であることは証明されたと言ってよい。

ただ、いま「隔靴掻痒の感」と書いたが、倭人伝には以上のように当時の倭人語が数多く出て来るのだが、最も知りたい「文語(文章語)」は出てこないのである。例えば、魏の使いが帯方郡から末盧国に上陸し、道順を訪ねたら「ここからは・・・」というような倭人自身の話や、邪馬台国に到着して卑弥呼が挨拶に出て来てこう言っていたとかいうような、ある程度まとまった文章言葉は全く無いのである。

その点が非常に残念なのだが、しかし魏志では、倭人条の一つ前に書かれている「韓の条」に、やや文章に近い長い「称号」が残されている。それを紹介しよう。

韓の条を魏志倭人伝に倣って「魏志韓伝」とするが、魏志韓伝には「馬韓」「弁韓」「辰韓」という三韓が、今の韓国に相当する地域に展開していたのだが、馬韓の中の一国「月支(ツキシ・ツクシ)国」を統治している辰王(辰韓の王)のことを、現地の首長層たちが次のように呼びならわしているというのである。

 〈 臣雲遣支報、安邪踧支、濆臣離児、不例、狗邪、秦、支廉 之号 〉
 読み〈 シウクシフ、アヤシキ、ヒジリニ、フレ、クヤ、シン、シレ の号(称号)〉

本文には読点は無いのだが、意味を取りやすくするために入れてある。この「号」つまり「称号」もしくは「尊称」の意味は次のようだと考えている。

〈 辰王(臣雲)は偉大な奇し日(遣支報)、妙なる(安邪踧支)聖に(濆臣離児)降り(不例)、狗邪、秦(を)知る(お方=大王)〉

となるが、直訳過ぎるので以下のように補って訳してみると、

「辰韓を治めていた辰王は偉大な王、類い稀れな聖(ひじり=日知り)として降臨され、弁韓と辰(秦)韓を知ろしめす」大王

となる。

秦王朝が成立する時の混乱のさなかに、逃れて来た衛満によって半島の中央を治めていた辰王は駆逐されて、南の馬韓に入り、国を与えられたが、その国を「月支国」といった。そこからさらに東南に国を拓いて辰(秦)韓12国を統治し、さらに弁韓(狗邪)12国も派生した。

それらの史的経過をこの称号は凝縮しているのだが、ここで注目したいのが、「不例(フレ)」と「支廉(シレ)」である。これはどちらも動詞であるから、この称号は一文を形成している。主語は勿論「辰王」である。

この一文は、漢字をうまく万葉仮名風に当てて当時の「三韓」において話されていた言葉を写し取ったもので、非常に貴重な一文である。漢字を当てたのはおそらく中国史官だったろうが、見事に今日のいわゆる「アルタイ語」に属するとされる朝鮮語が2~3世紀にまでさかのぼれることを示している。

同じアルタイ語に属するとされる日本(倭人)語の話し言葉も、当時はこのような語順では使われていたと想像がつく。三韓の言語は倭人語とほぼ重なると言ってよい。三韓の国々の名も、上に紹介した倭人国家群の名に近似していることからもそのことが言える。

【倭人語(日本語)と韓語(朝鮮語)の共通語は?】

倭人の言葉と半島南部の韓の言葉は、言語学的には「アルタイ語」という北方アジアの言語を祖語(共通語)として生まれたという。

しかし、その「アルタイ語」が語源とされる日本語の根幹がアルタイ語と言い切れない、とされているのだ。『日本語の起源』(村山七郎・大林太良著=1973年刊 弘文堂)では、日本語も朝鮮語もウラル・アルタイ語に属するとしながら、そうは言い切れないとする(同書75ページ)。

そして日本語には「南島語的な要素が少なくない」(同書75ページ)ともいう。

ウラル・アルタイ語に属するトルコ語やモンゴル語などを例示して、日本語がいかにアルタイ語的かということを散々述べて来て、今度は南方的な要素も否定できない――というのである。

たしかに日本列島は朝鮮半島を通じてアジアの北方的な影響を受けているのは間違いない。そして黒潮ルートを通じて南からの影響も強かったであろうことは想像に難くない。

上記の『日本語の起源』ではこれが正解という結論は出していないが、おおむね日本列島では南島的な言語が基層としてあったところに、弥生時代以降、朝鮮半島経由で北方アジアのアルタイ系言語が流入して倭人(日本)語になったとしている。しかし南島語の基層よりもさらに古い縄文語のような存在があり得るのではないか、とも提起している。(同書226~7ページ)

実は邪馬台国論争でおなじみの安本美典氏は、言語学にも精通しており、氏が提示する日本語と朝鮮語のルーツとして「古極東アジア語」があったことを推論している。そこから5000年くらい前に日本語と朝鮮語は分裂して独自の発展を遂げたと考えている。

『日本語の起源』でも安本氏の「古極東アジア語」を取り上げているが、言語学的な捉え方としては物足りない、という風に言っている。

しかし私はこちらに与したいのである。

ただ、5000年前に存在した「古極東アジア語」がどこにあったのか、それがどのようにして列島や半島に広がったのかについては考慮されていない。

ここで私は次のように考える。

「古極東アジア語」の発祥の地は、今は海底にある中国大陸の大陸棚ではないか、と。

もちろん海の中に人が住み、そこで言語が生まれたわけではない。まだ大陸棚が陸地だった頃である。最後の氷河期(ヴェルム氷河期)が終わる約15000年前まで、中国大陸から張り出していた陸地は沖縄諸島の近くまで広がっていた。寒冷期のほとぼりはまだ覚めず、寒かった内陸に比べると、海岸地帯は比較的温暖で暮らしやすかった。(※与那国島の海底遺跡はこの頃の遺跡ではないかと思う>)

この温暖で海産物も豊富な海岸地帯で生まれて発展したのが「古極東アジア語」ではなかっただろうか。その範囲は南西諸島や九州島から四国南部に及んでいたと思われる。鹿児島の縄文時代でいえば、7500年前の縄文早期まではそれが使用されていたのだろう。だから別言すれば、「古極東アジア語」とは「古縄文語」と言えるのではないか。

しかし最終氷期が徐々に終わるにつれ、大陸棚はどんどん縮小して行った。当然そこに暮らしていた「古極東人」は四散して行った。その四散の先が北方アジアであったり、中国大陸の中だったり、南島だったりした。そしてこれにさらに追い打ちをかけたのが、7500年前に起きた鹿児島の縄文早期文明を壊滅させた「鬼界カルデラ」の大噴火だった。(※中国浙江省の河姆渡遺跡はこの時代の遺跡と思われる。)

同じ鹿児島でも北西部の一帯はカルデラ噴火の直接の被害は軽微だったが、やはり定住は難しい状況だったから、人々は九州の西海岸伝いに逃れて行ったであろう。その避難先に、北部九州はもとより朝鮮半島があったと考えても無謀ではあるまい。九州島と朝鮮半島との交流は思いのほか相当に古いと考えてよいだろう。

いずれにしても、古縄文語(古極東アジア語)は後の倭人語に繋がり、同時にまた韓語(のちの朝鮮語)に繋がっていたのである。

また日本語に南島語系の身体語などが数多く見えるのは、かつて大陸棚文化圏(仮称)が繫栄しており、それが大規模な海進によって定住地を失って移動した南島語族系の古族がいたことを物語ると思われるのだが、それが縄文人につながるのかどうかは今のところ不明である。