これは先日書いたブログ「倭人語(日本語)のルーツ」の続きになるのだろうが、そこでは日本語が「古極東アジア語」(私の造語では「古縄文語」で、縄文時代早期にあったであろう倭人語)から始まり、それは朝鮮語のルーツともなった、と述べた。
この言語は縄文時代早期(10000年前~7500年前)に南九州(古日向)に現れた貝殻文土器や「縄文の壺」を発明した「古縄文人」の言語であり、さらにそのルーツをたどれば、最終寒冷期(15000年前~12000年前に中国大陸から南西諸島に伸びていた今は無き「大陸棚文明」だったと考えられる。(※「大陸棚文明」を詳しく言うなら「南シナ海大陸棚東南沿岸文明」となる。黒潮洗う沿岸地帯は寒冷期でも温暖であった。)
最終氷期が終わって温暖化が進み、大陸棚が後退してかろうじて残った南西諸島と古日向にまたがる古縄文人のうち、特に古日向域は火山の恵みによって暮らし易く、また土器作りに適した「胎土」が容易に得られたため、ここに定着した古縄文人によって特有の先進文化が育まれた。これが南九州の草創期から早期にかけての縄文文化であった。
その先進性も7500年前の「鬼界カルデラ大噴火」によって壊滅に瀕してしまった。古日向の縄文早期文明はいったんここで断絶し、次の前期の時代になると他の九州の縄文文化と変わらない様相を呈するようになる。古日向特有の先進性は失われ、現にその後「平底で筒型の薄型の土器群」及び「縄文の壺(壺型土器)」は見られなくなる。
しかし言語的に考えると、古日向に人が住み続けている以上、かつての古縄文語は持ち続けていたと考えるのが普通だろう。それまでの文化が顧みられなくなっても同じ言語を使い続けるのは、平安時代の日本人の文化が全く廃れても、やはり同じ日本語を現代でも使い続けているのと同じである。(※現代語(現代文)と古典の違いは歴然とあるが、言語学的には完璧に同じ言語である。)
さて、日本(倭)は663年に百済支援の水軍が白村江の海戦で完敗を喫してから、半島の権益をすべて失い、日本列島のみの統一国家を目指して天武朝から持統朝にかけて大急ぎで唐の諸制度(史書の編纂を含む)を取り入れるのだが、律令の法制にせよ仏教の経典にせよ、すべてが漢字によるものだった。
古来から日本にいる大陸や半島出身者及び遣隋使など、漢字・漢音に精通した者を登用して統一国家統治のための法整備にとりかかったわけだが、当時の朝廷ではおそらく多量の漢語・漢音が飛び交っていたはずである。
つまり飛鳥・奈良時代には為政者の周辺で「先端文化語」である漢語が使用されていたと考えても不思議ではないのだ。行政文書にしろ政令にしろすべてが「漢文」であったから、初めの頃はそのまま「漢語読み」にしていたはずである。その方が能率的であった。
漢語国家である唐の諸制度を全国に普及させていくのであれば、行政文書や政令を読まなければならない地方の「郡司」までは漢語・漢文に習熟していなければならない。
ところが実態はそうではなかった。郡司くらいのレベルで漢語・漢音を操れる者はほとんどいなかった。
例えば行政文書などはたとえ漢文であっても先例主義であるから様式さえ覚えてしまえば、読みこなすのにさほどの苦労は要らないし、仏教の経典も留学僧のような者以外は漢字・漢文の意味を知らずとも「門前の小僧習わぬ経を読む」でよかった。
日本語が漢語・漢音に置き換えられなかった決定打は、留学僧であった弘法大師(空海)の発明したとされる「いろは」仮名の存在だろう。これにより日本語の発音と文字が一致し、いわゆる「てにをは」を持つ日本語特有の表現が可能になった。
つまり「言文一致」ということに他ならない。記号である文字と発音とが「一対一対応」になったわけで、この威力は非常に大きかった。「物を語るという感覚で書き下ろせばよい」ので、平安時代半ばには「女流作家」が輩出することになった。これは日本特有の世界に誇れる「先進文化」と言ってよい。
漢文のままで「漢詩」は作れるが、和歌となるとそうはいかない。万葉集は漢字を一字一音(万葉仮名)として日本語に適用したのだが、同じ発音の漢字が多いことで、極めて解釈しづらい短歌集となっている。
記号である文字(スペル)と発音がおおむね一致しているのが欧米の言語だ。したがって過去の帝国主義的植民地化の中で、植民地の言語として使用され、植民地解放後もそのまま各国の公用語となっているものが多い。この「言文一致」は庶民レベルでも受け入れ易かったのだ。
日本語が「漢語」の強い影響を受けながらも、漢語化しなかったのは、以上のような話し言葉と書き言葉との一致(言文一致)が平安時代の早い時期に行われたからだろう。つまり「かな」が発明され、使われるようになったのが最大の理由だろう。
この言語は縄文時代早期(10000年前~7500年前)に南九州(古日向)に現れた貝殻文土器や「縄文の壺」を発明した「古縄文人」の言語であり、さらにそのルーツをたどれば、最終寒冷期(15000年前~12000年前に中国大陸から南西諸島に伸びていた今は無き「大陸棚文明」だったと考えられる。(※「大陸棚文明」を詳しく言うなら「南シナ海大陸棚東南沿岸文明」となる。黒潮洗う沿岸地帯は寒冷期でも温暖であった。)
最終氷期が終わって温暖化が進み、大陸棚が後退してかろうじて残った南西諸島と古日向にまたがる古縄文人のうち、特に古日向域は火山の恵みによって暮らし易く、また土器作りに適した「胎土」が容易に得られたため、ここに定着した古縄文人によって特有の先進文化が育まれた。これが南九州の草創期から早期にかけての縄文文化であった。
その先進性も7500年前の「鬼界カルデラ大噴火」によって壊滅に瀕してしまった。古日向の縄文早期文明はいったんここで断絶し、次の前期の時代になると他の九州の縄文文化と変わらない様相を呈するようになる。古日向特有の先進性は失われ、現にその後「平底で筒型の薄型の土器群」及び「縄文の壺(壺型土器)」は見られなくなる。
しかし言語的に考えると、古日向に人が住み続けている以上、かつての古縄文語は持ち続けていたと考えるのが普通だろう。それまでの文化が顧みられなくなっても同じ言語を使い続けるのは、平安時代の日本人の文化が全く廃れても、やはり同じ日本語を現代でも使い続けているのと同じである。(※現代語(現代文)と古典の違いは歴然とあるが、言語学的には完璧に同じ言語である。)
さて、日本(倭)は663年に百済支援の水軍が白村江の海戦で完敗を喫してから、半島の権益をすべて失い、日本列島のみの統一国家を目指して天武朝から持統朝にかけて大急ぎで唐の諸制度(史書の編纂を含む)を取り入れるのだが、律令の法制にせよ仏教の経典にせよ、すべてが漢字によるものだった。
古来から日本にいる大陸や半島出身者及び遣隋使など、漢字・漢音に精通した者を登用して統一国家統治のための法整備にとりかかったわけだが、当時の朝廷ではおそらく多量の漢語・漢音が飛び交っていたはずである。
つまり飛鳥・奈良時代には為政者の周辺で「先端文化語」である漢語が使用されていたと考えても不思議ではないのだ。行政文書にしろ政令にしろすべてが「漢文」であったから、初めの頃はそのまま「漢語読み」にしていたはずである。その方が能率的であった。
漢語国家である唐の諸制度を全国に普及させていくのであれば、行政文書や政令を読まなければならない地方の「郡司」までは漢語・漢文に習熟していなければならない。
ところが実態はそうではなかった。郡司くらいのレベルで漢語・漢音を操れる者はほとんどいなかった。
例えば行政文書などはたとえ漢文であっても先例主義であるから様式さえ覚えてしまえば、読みこなすのにさほどの苦労は要らないし、仏教の経典も留学僧のような者以外は漢字・漢文の意味を知らずとも「門前の小僧習わぬ経を読む」でよかった。
日本語が漢語・漢音に置き換えられなかった決定打は、留学僧であった弘法大師(空海)の発明したとされる「いろは」仮名の存在だろう。これにより日本語の発音と文字が一致し、いわゆる「てにをは」を持つ日本語特有の表現が可能になった。
つまり「言文一致」ということに他ならない。記号である文字と発音とが「一対一対応」になったわけで、この威力は非常に大きかった。「物を語るという感覚で書き下ろせばよい」ので、平安時代半ばには「女流作家」が輩出することになった。これは日本特有の世界に誇れる「先進文化」と言ってよい。
漢文のままで「漢詩」は作れるが、和歌となるとそうはいかない。万葉集は漢字を一字一音(万葉仮名)として日本語に適用したのだが、同じ発音の漢字が多いことで、極めて解釈しづらい短歌集となっている。
記号である文字(スペル)と発音がおおむね一致しているのが欧米の言語だ。したがって過去の帝国主義的植民地化の中で、植民地の言語として使用され、植民地解放後もそのまま各国の公用語となっているものが多い。この「言文一致」は庶民レベルでも受け入れ易かったのだ。
日本語が「漢語」の強い影響を受けながらも、漢語化しなかったのは、以上のような話し言葉と書き言葉との一致(言文一致)が平安時代の早い時期に行われたからだろう。つまり「かな」が発明され、使われるようになったのが最大の理由だろう。