鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

倭人と濊(ワイ)人

2021-08-12 16:28:28 | 邪馬台国関連
【縄文時代中期からある海上交易】

縄文時代の5000年前から3500年前(中期から後期)にかけて、南九州の海民は九州北部の黒曜石の産地である佐賀県伊万里市の腰岳や大分県の姫島まで航海していた、という事実が垂水市の柊原(くぬぎばる)貝塚から多量に出土した黒曜石製の矢じりによって判明している。

また同じ時期、いちき串木野市の市来貝塚出土の指標土器「市来式土器」は沖縄でも発見されている。

さらに鹿屋市の榎原遺跡などでは、岡山県倉敷市の船元貝塚出土の縄文中期の「船元式土器」と同じ胎土の土器片が出土している。

以上はここ30年くらいの考古学の著しい進展によって明らかにされてきたもので、「縄文時代人はすぐそこにある山や野原が生活の場で、そこで採れる植物性や動物性の食糧のみに依存した暮らししかしていなかった」というような縄文時代観は過去のものになった。

5000年前にはまだ「構造船」はないが、波除け板を取り付けた「準構造船」に近いものはあったし、丸木の刳り舟にしても二つを横に連結した単純な「双胴船」はあり、交易に活躍したと思われる。

 【朝鮮海峡の往来】

南九州から北部九州まで行けたのであれば、あと一息で朝鮮半島である。九州北部と朝鮮半島の間には名にし負う荒波の「玄界灘」(朝鮮海峡)が横たわるので危険は伴うが、上天気の日を選べば海峡渡海も可能だったであろう。

九州南部の縄文前期(6000年前)の標識土器「轟式土器」には胎土に「滑石」(ロウ石)が混入されており、滑石の産地は朝鮮半島に多く、その頃半島で製作されていた「櫛目文土器」に轟式土器の原型があるのではないかとみられている。

そうなると5000年前よりさらに1000年もさかのぼって、九州と朝鮮半島の間で船による交易(人流)があったと言えることになる。

しかし縄文時代の交流は極めて限られたものでしかなかった。玄界灘の荒波をかいくぐってまで交易品を獲得しようというほどの余裕はまだなかったはずだ。

 【弥生時代の朝鮮海峡航路は鉄交易の「定期航路」?】

それが弥生時代になると、大陸で金属器すなわち青銅器や鉄器が発明され普及し始める。その情報はやはり船による交易でもたらされたのだが、田んぼにおける湛水型の米作りが開始され、定着してくると、さらなる開田への意欲が大量の鉄器(主として鍬)を必須とするようになった。

弥生時代の半ばだったと思われるが、朝鮮半島南部に大規模な鉄山「伽耶(カヤ)鉄山」が発見されると、九州島の倭人はこぞって半島に渡り、鉄の交易に乗り出した。

魏志倭人伝の前には魏志韓伝があるが、そこに載る三韓(馬韓・弁韓・辰韓)の国々には、航海民に特有の「文身(入れ墨)」を施す者が多数いたと書かれている。

これらの航海民は後世、「宗像族」や「安曇族」と呼ばれる北部九州の海民が多かったが、その中に南九州の「鴨族」も参加していた。縄文中期に北部九州まで黒曜石の交易にやって来ていた南九州海民の子孫と言える人たちである。

南九州から半島までのルートは九州西岸ルートで、独自の航路を開拓していたはずである。

半島南部にはこのような倭人が多数おり、朝鮮海峡を渡るルートはいわば「定期航路」のような塩梅だったと思われる。

半島南部の伽耶鉄山の活況は目覚ましく、魏志韓伝には「韓・濊・倭、みなこれを取るに従う。諸市、買うにみな鉄を用う。中国の銭を用うるが如し。また、以て二郡に供給す。」とあり、韓(馬韓・弁韓・辰韓)と濊人、および倭人が鉄の採掘に従事していたこと、中国では売買に銅銭を使うがここでは鉄が使われていたこと、そして採れた鉄を帯方郡と楽浪郡に供給していたようである。

倭人が半島において伽耶鉄山の開発に一枚絡んでいたことが、ここに余すことなく描かれているのである。「鉄の時代」と言われる弥生時代の一つの証明がこの文書と言えるだろう。

 【倭人と濊人】

さて、この鉄資源の開発には九州島からの倭人および韓人のほかに「濊人」が関わっていたとあるが、この濊人について述べておかなくてはならない。

魏書の東夷伝には以上の倭人伝・韓伝のほかに、「夫余伝」「高句麗伝」「東沃沮(ヒガシヨクソ)伝」「挹婁(ユウロウ)伝」「濊伝」があり、全部で7種族の記載がある。夫余は南満州、高句麗は北朝鮮北部、東沃沮は高句麗より東の日本海寄り、挹婁は東沃沮よりさらに北方の沿海州寄り、そして濊は北朝鮮の東半分を占めている。

この濊は漢(前漢)が紀元前108年に楽浪郡を置く前までは現在の北朝鮮域を広く占めていた。この時に濊は国家の縮小を余儀なくされ、半島の東方へ押しやられた。そのため多くの濊人が他所に逃れたらしい。

半島南部はすでに人口が多かったのだろう、北部へ逃れ、高句麗やさらに北の夫余にまで行った者もいた。「夫余伝」には「夫余王の倉庫に<濊王之印>があり、古城があって<濊城>と名付けられている」という記事があり、それを裏付けている。濊の王族クラスが夫余の地に逃れたのだろう。

この濊人こそが紀元前5世紀頃の著作とされる『山海経(センガイキョウ)』の中で、「東海の内、北海の隅に国がある。名は朝鮮天毒。この国の人は水に住む。偎(ワイ)人、愛人がいる。」としてある偎(ワイ)人、愛(アイ)人に他なるまい。「水に住む」というのは「水辺に住み、漁撈をしている」という意味だろう。これらの「ワイ人」「アイ人」はほとんど同じ種族を指し、つまるところ「ワ(倭)」とも同種であろう。

 【倭人と濊人は「水」のつながりの「同種」】

このことを別の面から証明する説話が、『後漢書』の「檀石槐(ダン・セキカイ)伝」という鮮卑の首魁の伝記に記されている。

檀石槐は紀元136年の生まれだが、40歳の頃、満州地方から鴨緑江近くの烏侯秦水という川までやって来たが、そこで食料が尽き、川の中を泳ぐ魚を糧にしようとして、東に千里行った所に住む倭人を千家連行し、「秦水の上に置いて」魚を獲らせて飢えをしのいだというのだ。(※「秦水の上に置いて」という表現が奇妙だが、これは「秦水の川辺に住まわせて」ということだろう。)

烏侯秦水は鴨緑江の支流で、高句麗の版図に入る川だと思われるが、その東方に住んでいた「千家の倭人」とは実は濊人だろう。前漢時代に楽浪郡という漢の直轄地(植民地)を置かれたために北に落ち延びたて住み着いた濊人集落ではないかと思われる。

先に引用した『山海経』の中の「朝鮮天毒の人は水に住む」と書かれた「偎(ワイ)人」の生業が漁撈であるとすれば、九州島の海民の生業の海上交易とは「船を操る」点で重なって来る。鮮卑にとっては倭人と濊人とは見分けがつかなかったのかもしれない。それほど似た種族同士だったのだ。

この倭人集落があったという鴨緑江の支流は高句麗の版図だと説明したが、後の西暦400年代に高句麗は騎馬民化するが、100~200年代の魏志の時代はまだ騎馬の片りんはなく、「その国中の大家(支配者)は耕さず、下戸(被支配者)が遠くから米・食料・魚・塩を担いで来て供給する」(高句麗伝)という統治状況であった。「魚・塩」というところに注目すべきである。

以上から魏志倭人伝時代(100~200年代=弥生時代後期)の朝鮮半島には南部の三韓はもとより、北部の濊と高句麗まで倭人の同種がおり、しかも水に関したもの、直接的には漁撈、間接的には水上交易などで暮らしていたらしいことが分かる。

もちろん彼らは農業もしていたであろうが、魏志倭人伝等の中国側史料ではさして触れられていない。魏という中国北方の王朝にとって農業はごく当たり前の生業であり、触れるには値しなかったのだろう。何と言っても物珍しい水産・水運の方が特記事項なのであり、記録に残したのである。