「記紀点描⑨」では、日本列島に渡来した最初期の人物として、任那からのソナカシチ(ツヌガアラシト)と新羅からのアメノヒボコを取り上げたが、それでは列島から渡海して行った最初期の人物は誰なのか、記紀から抽出してみたい。
列島から渡海した最初期の人物は、実は、神武紀に登場した神武天皇の兄二人なのであった。
古日向に「天孫降臨」したニニギノミコトの2世代後はウガヤフキアエズノミコトだが、ウガヤフキアエズには4人の皇子が生まれている。長男を五瀬(イツセ)命といい、次男を稲氷(イナヒ)命といい、三男を三毛入野(ミケイリヌ)命といい、最後に神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)が生まれている。
最後の神武天皇を古事記では「ワカミケヌノミコト」としており、こちらの方が名称としては古いと思われる。
さてこの皇子たちの中で渡海して行ったのが、次男のイナヒと三男のミケイリヌである。
【稲氷(イナヒ)命の渡海】
イナヒノミコトは、古事記では渡海の時期をまだ古日向に居た時のこととするが、書紀では東征の途中の熊野に来てからであった。
なぜ渡海したのか。
その理由は、古日向からはるばる熊野まで来た時に海が大荒れになった時、イナヒノミコトは「自分の母は海神であるのに、海に難渋させられる」と嘆き、剣を抜いて海中に入り、「鋤持神(サイモチノカミ)」となった、とある。
海中に入っただけで「渡海」とは言い難いと思われるが、『新撰姓氏録』の第五巻「右京皇別下」によると、このイナヒノミコトの後裔が「新良貴」(シラギ)だとあり、イナヒノミコトは新羅国王の祖であるとしている。
そんなバカなことがあるものかと一蹴されてしまいそうだが、実は、朝鮮の史書『三国史記』の中の「新羅本紀」には初代の赫居世王の時に倭人の「瓠公(ホゴン・ほこう)が重臣に就任したという記事があり、また第4代脱解(トケ・タケ)王は倭人そのものだという。
前者の瓠公の渡海の由来は皆目分からないが、後者の脱解については「倭国の東北千里にある多婆那国で生まれた」と記す。そうなると『新撰姓氏録』の「新良貴」姓の始祖イナヒノミコトこそがまさにこの第4代脱解に当たるのではないかと思われるのである。
では、脱解の出身地「多婆那(タバナ)国」とはどこであろうか。
解説書の多くは京都の「丹波国」ではないかとするが、私見では九州の「玉名」である。
丹波では倭国(の中心)を播磨国あたりに比定しなければならないが、整合性は無い。そもそもこの時代の倭国の中心は九州にあり、九州でも後のクマソ国とされる南九州は西海岸航路を通じて半島とは深いつながりがあった。
玉名は魏志倭人伝に記載の「烏奴国」であり、玉名市を河口とする菊池川の中流域に所在する5世紀の「江田船山古墳」の被葬者ムリテは、出土した鉄刀に刻まれた銀象嵌文字によると、「典曹人(文官)」だったことからも、当時、そこに、半島を経由した文物に明るい人物がいたことが知られる。
(※一般には5世紀の頃、大陸の文物は畿内王権を経由して九州に伝えられたとされるのだが、九州の豪族が直接半島を経由して大陸由来のものを導入していた可能性の方が高いと思う。須恵器なども半島から九州島に直接到来したはずである。)
なお、不思議というか面白いのが、脱解王が新羅第4代の王に就任して二年目に、あの初代赫居世王によって重臣に取り立てられた倭人の「瓠公(ホゴン)を、再び重臣として「大輔」に任命していることである。同じ九州島出身の倭人ということで寵遇したのだろうか。
【三毛入野(ミケイリヌ)命の渡海】
ミケイリヌノミコトは、古事記では東征の前に「常世(とこよ)国に渡りましき」とあり、日本書紀では東征の途中の熊野で兄と同じく海に入ったと書かれている。その行き先は「常世」であった。
「常世」については垂仁記・垂仁紀ともに、三宅連(みやけのむらじ)の祖先であるタジマモリを常世国に派遣して「トキジクノカグノコノミ」を採って来させた—―という共通の記事がある。
この常世国のある場所について、古事記には記載がないが、書紀の方には、
〈遠く絶域に往き、万里の浪を踏みて、遥かに弱水(ジャクスイ=よわのみず)を渡る。この常世国はすなわち神仙の秘区にして、俗の至る所にあらず。往来する間に、自ずから十年を経たり。あに、独り峻爛(シュンラン)を凌ぎて、また本土に向はむことを期せめや。〉
と記述があるように、往来に10年もかかるような絶遠の地であり、行くのは良いが二度と帰って来られないような荒波の向こうであることが分かる。
往来の可否は別にして、三男のミケイリヌも次男と同様、海に入ったことに変わりはなく、どちらも列島を離れて海外に行ってしまったということである。
この記事にある「弱水」であるが、『延喜式』第8巻「神祇八 祝詞」の中に、「東文忌部献横刀時呪」(やまとのふみのいみきべのたちをたてまつるときのじゅ)というのに出て来るのだ。
これは帰化人である東文忌部が天皇を寿ぐために刀を献上する際の祝詞(シュクシ=のりと)であるが、その中の一節に、「呪して曰く、東は扶桑(日本列島)に至り、西は虞淵(西アジア)に至り、南は炎光(東南アジア)に至り、北は弱水に至る。千城百国、精治万歳、万歳万歳!」とあるが、「北は弱水に至る」がそれである。
天皇の統治領域を最大限に表したまさに「祝詞(シュクシ)」なのだが、はるか北の果てという時の固有名詞として登場するのが「弱水」である。
弱水は実は魏書東夷伝の「夫余伝」にも登場している。東夷にある「夫余、高句麗、東沃沮、挹婁、濊、韓、倭人」の7か国のうち、最も北にあるのが夫余で、当時の戸数は八万を数え、今日の南満州に当たる国である。その一節は、
〈夫余は長城の北、玄菟を去ること千里、南は高句麗と接し、東は挹婁と接し、西は鮮卑と接す。北に弱水あり。〉
秦の始皇帝がより堅固にしたという「万里の長城」の北側(満州)にあり、そこは玄菟郡(漢代の前108年に置かれた直轄地で遼東にあった)からは千里(徒歩であれば10日の行程)あり、南は高句麗と、東は沿海州の挹婁と、西は騎馬民の鮮卑(今の内蒙古)に接している。その北には弱水がある。
ここに出ている弱水はおそらく黒竜江(アムール川)に違いない。満州一の大河である。
夫余伝のこの弱水と、上の祝詞に出て来た弱水とは一致しているのではないか。アムール川なら北の極限として他の東西南の極限と同列に並べることが出来よう。
しかし書紀の説話の「タジマモリを常世に行かせ、そこからトキジクノカグノコノミという柑橘類の一種を採って来る」というのは不可能だろう。なぜなら、そんな北方で柑橘類の類が実ることはあり得ないからである。
そうなるとタジマモリが出かけたという常世国は、書紀の記事にあるように「神仙の秘区」であるとした方がよい。
しかし現実に、三宅連という豪族の祖先であるタジマモリはたとえ「神仙の秘区」であるにしても、海外のどこかへ行ってきて戻って来た。これは事実だろうと思われる。
そこがミケイリヌノミコトの渡ったという「常世国」と同じなのかどうかは定かではないが、神武天皇(私見では投馬国王タギシミミ)の時代の2世紀代に、九州島の航海系の海人が半島を往来していたことは「魏志韓伝」の記述からも間違いのないことである。
(※タジマモリの先祖は新羅からの最初期の渡来人「アメノヒボコ」であった。そのアメノヒボコを招来した(船に乗せて来た)のは九州島の航海系倭人であったことを見逃してはならない。)
【追記】
以上の論考は、記紀に描かれ、人物名が特定された個人の中で、最初期に海を渡った人は誰だったのか――というものであり、特定の人物でなく「倭人」という一般名称なら、そのような倭人は相当古くから渡海していた。
中国の史書『論衡(ロンコウ)』の中の「第八 儒僧編」には、〈周の時、天下泰平にして、越裳(エッショウ=越地方に住む非漢族)は白雉を献じ、倭人は暢艸を貢ず。〉とあり、また、「第五十八 恢国編」には、〈成王の時、越常(=越裳)、雉を献じ、倭人、暢を貢ず。〉と見えている。
後者に登場する「成王」は周王朝の二代目で、紀元前1000年から1050年頃に王位にあったことが分かっているから、倭人の誰かは勿論、その倭人が日本列島のどこから大陸に渡ったのかの特定はできないのだが、とにかく、倭人が紀元前1000年という古い時代に大陸に渡っていたのは事実である。
その経路はおそらく朝鮮半島経由であっただろう。半島西部に沿う「沿岸航法」によれば確実に到達できるからである。
列島から渡海した最初期の人物は、実は、神武紀に登場した神武天皇の兄二人なのであった。
古日向に「天孫降臨」したニニギノミコトの2世代後はウガヤフキアエズノミコトだが、ウガヤフキアエズには4人の皇子が生まれている。長男を五瀬(イツセ)命といい、次男を稲氷(イナヒ)命といい、三男を三毛入野(ミケイリヌ)命といい、最後に神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)が生まれている。
最後の神武天皇を古事記では「ワカミケヌノミコト」としており、こちらの方が名称としては古いと思われる。
さてこの皇子たちの中で渡海して行ったのが、次男のイナヒと三男のミケイリヌである。
【稲氷(イナヒ)命の渡海】
イナヒノミコトは、古事記では渡海の時期をまだ古日向に居た時のこととするが、書紀では東征の途中の熊野に来てからであった。
なぜ渡海したのか。
その理由は、古日向からはるばる熊野まで来た時に海が大荒れになった時、イナヒノミコトは「自分の母は海神であるのに、海に難渋させられる」と嘆き、剣を抜いて海中に入り、「鋤持神(サイモチノカミ)」となった、とある。
海中に入っただけで「渡海」とは言い難いと思われるが、『新撰姓氏録』の第五巻「右京皇別下」によると、このイナヒノミコトの後裔が「新良貴」(シラギ)だとあり、イナヒノミコトは新羅国王の祖であるとしている。
そんなバカなことがあるものかと一蹴されてしまいそうだが、実は、朝鮮の史書『三国史記』の中の「新羅本紀」には初代の赫居世王の時に倭人の「瓠公(ホゴン・ほこう)が重臣に就任したという記事があり、また第4代脱解(トケ・タケ)王は倭人そのものだという。
前者の瓠公の渡海の由来は皆目分からないが、後者の脱解については「倭国の東北千里にある多婆那国で生まれた」と記す。そうなると『新撰姓氏録』の「新良貴」姓の始祖イナヒノミコトこそがまさにこの第4代脱解に当たるのではないかと思われるのである。
では、脱解の出身地「多婆那(タバナ)国」とはどこであろうか。
解説書の多くは京都の「丹波国」ではないかとするが、私見では九州の「玉名」である。
丹波では倭国(の中心)を播磨国あたりに比定しなければならないが、整合性は無い。そもそもこの時代の倭国の中心は九州にあり、九州でも後のクマソ国とされる南九州は西海岸航路を通じて半島とは深いつながりがあった。
玉名は魏志倭人伝に記載の「烏奴国」であり、玉名市を河口とする菊池川の中流域に所在する5世紀の「江田船山古墳」の被葬者ムリテは、出土した鉄刀に刻まれた銀象嵌文字によると、「典曹人(文官)」だったことからも、当時、そこに、半島を経由した文物に明るい人物がいたことが知られる。
(※一般には5世紀の頃、大陸の文物は畿内王権を経由して九州に伝えられたとされるのだが、九州の豪族が直接半島を経由して大陸由来のものを導入していた可能性の方が高いと思う。須恵器なども半島から九州島に直接到来したはずである。)
なお、不思議というか面白いのが、脱解王が新羅第4代の王に就任して二年目に、あの初代赫居世王によって重臣に取り立てられた倭人の「瓠公(ホゴン)を、再び重臣として「大輔」に任命していることである。同じ九州島出身の倭人ということで寵遇したのだろうか。
【三毛入野(ミケイリヌ)命の渡海】
ミケイリヌノミコトは、古事記では東征の前に「常世(とこよ)国に渡りましき」とあり、日本書紀では東征の途中の熊野で兄と同じく海に入ったと書かれている。その行き先は「常世」であった。
「常世」については垂仁記・垂仁紀ともに、三宅連(みやけのむらじ)の祖先であるタジマモリを常世国に派遣して「トキジクノカグノコノミ」を採って来させた—―という共通の記事がある。
この常世国のある場所について、古事記には記載がないが、書紀の方には、
〈遠く絶域に往き、万里の浪を踏みて、遥かに弱水(ジャクスイ=よわのみず)を渡る。この常世国はすなわち神仙の秘区にして、俗の至る所にあらず。往来する間に、自ずから十年を経たり。あに、独り峻爛(シュンラン)を凌ぎて、また本土に向はむことを期せめや。〉
と記述があるように、往来に10年もかかるような絶遠の地であり、行くのは良いが二度と帰って来られないような荒波の向こうであることが分かる。
往来の可否は別にして、三男のミケイリヌも次男と同様、海に入ったことに変わりはなく、どちらも列島を離れて海外に行ってしまったということである。
この記事にある「弱水」であるが、『延喜式』第8巻「神祇八 祝詞」の中に、「東文忌部献横刀時呪」(やまとのふみのいみきべのたちをたてまつるときのじゅ)というのに出て来るのだ。
これは帰化人である東文忌部が天皇を寿ぐために刀を献上する際の祝詞(シュクシ=のりと)であるが、その中の一節に、「呪して曰く、東は扶桑(日本列島)に至り、西は虞淵(西アジア)に至り、南は炎光(東南アジア)に至り、北は弱水に至る。千城百国、精治万歳、万歳万歳!」とあるが、「北は弱水に至る」がそれである。
天皇の統治領域を最大限に表したまさに「祝詞(シュクシ)」なのだが、はるか北の果てという時の固有名詞として登場するのが「弱水」である。
弱水は実は魏書東夷伝の「夫余伝」にも登場している。東夷にある「夫余、高句麗、東沃沮、挹婁、濊、韓、倭人」の7か国のうち、最も北にあるのが夫余で、当時の戸数は八万を数え、今日の南満州に当たる国である。その一節は、
〈夫余は長城の北、玄菟を去ること千里、南は高句麗と接し、東は挹婁と接し、西は鮮卑と接す。北に弱水あり。〉
秦の始皇帝がより堅固にしたという「万里の長城」の北側(満州)にあり、そこは玄菟郡(漢代の前108年に置かれた直轄地で遼東にあった)からは千里(徒歩であれば10日の行程)あり、南は高句麗と、東は沿海州の挹婁と、西は騎馬民の鮮卑(今の内蒙古)に接している。その北には弱水がある。
ここに出ている弱水はおそらく黒竜江(アムール川)に違いない。満州一の大河である。
夫余伝のこの弱水と、上の祝詞に出て来た弱水とは一致しているのではないか。アムール川なら北の極限として他の東西南の極限と同列に並べることが出来よう。
しかし書紀の説話の「タジマモリを常世に行かせ、そこからトキジクノカグノコノミという柑橘類の一種を採って来る」というのは不可能だろう。なぜなら、そんな北方で柑橘類の類が実ることはあり得ないからである。
そうなるとタジマモリが出かけたという常世国は、書紀の記事にあるように「神仙の秘区」であるとした方がよい。
しかし現実に、三宅連という豪族の祖先であるタジマモリはたとえ「神仙の秘区」であるにしても、海外のどこかへ行ってきて戻って来た。これは事実だろうと思われる。
そこがミケイリヌノミコトの渡ったという「常世国」と同じなのかどうかは定かではないが、神武天皇(私見では投馬国王タギシミミ)の時代の2世紀代に、九州島の航海系の海人が半島を往来していたことは「魏志韓伝」の記述からも間違いのないことである。
(※タジマモリの先祖は新羅からの最初期の渡来人「アメノヒボコ」であった。そのアメノヒボコを招来した(船に乗せて来た)のは九州島の航海系倭人であったことを見逃してはならない。)
【追記】
以上の論考は、記紀に描かれ、人物名が特定された個人の中で、最初期に海を渡った人は誰だったのか――というものであり、特定の人物でなく「倭人」という一般名称なら、そのような倭人は相当古くから渡海していた。
中国の史書『論衡(ロンコウ)』の中の「第八 儒僧編」には、〈周の時、天下泰平にして、越裳(エッショウ=越地方に住む非漢族)は白雉を献じ、倭人は暢艸を貢ず。〉とあり、また、「第五十八 恢国編」には、〈成王の時、越常(=越裳)、雉を献じ、倭人、暢を貢ず。〉と見えている。
後者に登場する「成王」は周王朝の二代目で、紀元前1000年から1050年頃に王位にあったことが分かっているから、倭人の誰かは勿論、その倭人が日本列島のどこから大陸に渡ったのかの特定はできないのだが、とにかく、倭人が紀元前1000年という古い時代に大陸に渡っていたのは事実である。
その経路はおそらく朝鮮半島経由であっただろう。半島西部に沿う「沿岸航法」によれば確実に到達できるからである。