8月22日(日)、史話の会8月例会を開催した。場所はいつものように東地区学習センターである。本来なら第3日曜日の15日だったのだが、旧盆の最中ということで一週間遅らせた。
さて、今回は「狗奴(クナ)国」を取り上げる。
① 狗奴国の位置
狗奴国の位置については、倭人伝に次のように記している。(※書き下し、かつ、現代文で意訳した。)
〈女王国より北側の国々(九州島への入口である対馬国から不彌国まで)はその概要を略載できたが、そのほかの連盟国21か国については詳細が得られないので国名だけを列挙する。
次に斯馬国あり、次に已百支国あり、・・・(以下、17か国省略)、次に烏奴国あり、次に奴国あり。この奴国は女王国(連盟)の境界の国である。
その南に狗奴国がある。男子が王と為っている。官に狗古智卑狗(クコチヒコ)がいる。女王国(連盟)には属していない。〉
(※この直後に、「帯方郡より女王国に至る行程は1万2千余里である」と記してある。このことから、九州島北端の末盧国(唐津)に水行1万里の後に上陸したあとは「2千里」しか残っていないのであるから、畿内説は成り立ちようがないことが分かる。)
以上の記述から、狗奴国は女王国連盟傘下21か国のさらに南側に存在することが分かる。「その南に狗奴国がある」という「奴国」はどこだろうか。この奴国は不彌国の直前にある戸数2万戸の奴国とは別の奴国である。私見では菊池川河口を領域とした「玉名国」だろうと考えている。
その南側に狗奴国があるという構図になる。おおむね菊池川を境として、その左岸以南が狗奴国の領域である。「官に狗古智卑狗(クコチヒコ)がいる」というそのクコチヒコとは「菊池彦」のことに違いない。菊池川流域(菊池市・山鹿市)の豪族であろう。
② 狗奴国と女王国との不和
狗奴国と女王国がどのような関係にあったかは、①で引用した倭人伝記事より大分後になって出て来る。次の通りである。
〈其(正始)の6年(西暦245年)、魏の3代目の斎王の詔勅により女王国からの使者である難升米(ナシメ)に「黄幢(コウドウ)」(魏王朝の戦旗)を賜うこととし、それを帯方郡において授けるようにした。其(正始)の8年(西暦247年)帯方郡太守の王頎が到着したので黄幢を持たせた。
倭の女王卑弥呼と狗奴国男王の卑弥弓呼はかねてから不和であった。女王は載斯烏越(サイシウエ?)たちを帯方郡に遣わし、狗奴国と戦闘状態になっていることを訴えた。〉
卑弥呼の国がかなり差し迫った状況に置かれていたことが読み取れる記事だが、その前に狗奴国王の名前について訂正しておきたい。
この記事では男王を「卑弥弓呼」と記すのだが、それだと「ヒミココ」としか読めず、倭人名の訓みとしてはちょっと有り得ない。これは「卑弓弥呼」とすべきであろう。すなわち「ヒコミコ」である。そうすれば卑弥呼の本来の倭名「ヒメミコ」と対応する。
さてこの狗奴国王ヒコミコと女王卑弥呼とはもとより不和であったと倭人伝は記す。すでに景初2(238)年に女王卑弥呼は魏へ朝貢の使者を送っているが、その貢納品は男女二人ずつの4名の「生口」と布が二匹二反だけという粗末なものであった。これはすでに南から狗奴国が侵入を開始していたため、言わば慌てふためいて魏王朝のお墨付きを求めた可能性が高い。
菊池国も元来は狗奴国とは独立していた王国であり、女王国とも親縁の国だったのだが、ついに狗奴国の傘下に入ったため、卑弥呼はおおいに危惧し、ために魏王朝の介入(援助)を求めたに違いない。
その結果の返納品は驚くべきものだった。何と「親魏倭王の金印」が返って来たのである。さらに使者たちにも「銀印」が授与されるという大盤振る舞いであった。
このことを知った狗奴国王ヒコミコは切歯扼腕したであろうことは想像に難くない。そしてこれが両国間の不和をさらに強める結果となり、上の記事にあるように、西暦245年以降、戦闘状態に入ったと考えられるのである。
其の2年後の247年に帯方郡から黄幢(コウドウ)が到着し、その威力が狗奴国との戦闘には有利に働き、女王国は何とか凌ぐことができたと思われる。ところが、帯方郡の使節団は戦争における差配において、女王では心もとないと強く卑弥呼をけん責したようである。
「卑弥呼、以て、死す」と倭人伝は記している。帯方郡からの使節団が到来してから日を置かずして、卑弥呼は死んだようなのだ。
その後は後継者をめぐって争いになり、結局、卑弥呼の一族の少女の台与(トヨ)が立って収まったのだが、帯方郡使節団が帰った後に狗奴国が攻めて来たかどうかの記事はない。
私は先の戦闘で狗奴国王ヒコミコ自身が戦死したためではないかと思っている。というのは台与(トヨ)が女王になった後、魏王朝では大将軍・司馬懿が魏の王室の曹爽を殺害する(249年)など専横が盛んになり、「東夷の蛮族」に関与する暇が無くなっていたにもかかわらず、狗奴国が戦争を仕掛けていないようなのである。
『晋書』の266年の記事に「倭女王が、使いを遣わして貢献して来た」というのがあり、これは女王台与の朝貢だと考えられ、してみると女王国は266年までは台与の時代が続いていたと考えて差し支えないだろう。
③ 狗奴国の女王国乗っ取りはあったか?
②で見たように、倭人伝からは狗奴国は女王国とは不和であり、西暦245年の頃には戦争状態に入っていたことが読み取れ、魏王朝からの黄幢(コウドウ)という「錦の御旗」のお墨付きを得て辛くも狗奴国との戦闘は収まった。卑弥呼は死ぬが後継の台与の女王就任で一応は平時を取り戻したようである。その期間は西暦266年、つまり台与が女王に就任から約20年ほどは平穏であった。
その平穏を支えていたのが、九州北部「大倭」の存在だったとも考えている。
「大倭」とは「北部九州倭人連合」と言い換えられるが、これは九州島に本拠地を移した辰韓の王「ミマキイリヒコ・イソニヱ」こと第11代崇神天皇のホームグラウンド糸島(五十=イソ)を中心として糾合した倭人連合であった。
この「大倭」はまた、同じ北部九州佐賀平野等を支配領域としていたオオクニヌシの国家「厳奴(イツナ)」を押しのけつつ、次第に九州北岸部から内陸へと侵攻して行った。この両者の最終決戦は筑後川中流域で行われ、結局、大倭の勝利となった。
邪馬台女王国はその結果、大倭に与することになり、都督とも言うべき「伊支馬(イキマ=生目)」を政権中枢部に置かれ、一種の保護国となった。被保護国化の方が、南からの狗奴国の侵攻に対抗するためには都合が良かったのである。
しかし、大倭こと崇神天皇の連合国家が大和への東征に出た270年頃、都督であった「イクメ(生目)イリヒコ(入彦)」こと若き日の垂仁天皇が大和への東征に参加してしまうと、邪馬台国は実質的に大倭の保護国から解放されるわけだが、そのため逆に狗奴国の北進を危惧せざるを得なくなった。
270年以降に狗奴国が八女の女王国を併呑したかどうかは、どの記録にもないので憶測でしかないが、12代の景行天皇の時代に見える「景行天皇のクマソ親征」説話によると、狗奴国は一度は八女邪馬台国を併呑していたが、その後、景行天皇の時代(西暦350年前後)には撤退しており、再び元の狗奴国すなわち今日の熊本県の領域(ただし、菊池川以南)に戻っていたようである。
④ 狗奴国はのちの「クマソ国」
狗奴国の狗奴(クナ)は熊(クマ)と置き換えられ、狗奴国は「クマソ国」と考えてよい。多くの倭人伝研究者もその点ではほぼ一致しており、私もその説を採用する。
古事記の「国生み神話」によると、九州島には4つの面(国)があるとしている。
1,筑紫国(白日別)
2,豊国(豊日別)
3,肥国(建日向日豊久士比泥別)
4,熊曽国(建日別)
であるが、カッコ内は国名の成り立ち(属性)を捉えた和名である。
1の筑紫国は、白日すなわち新羅を成り立ちの基としている。新羅は三韓時代の辰韓のことであり、倭人とともに辰韓を建設した遠く辿れば殷の王族である箕子の末裔の家筋である崇神天皇の大倭(北部九州倭人連合)が生まれたところであった。
2の豊国は、豊日すなわち邪馬台国の女王台与(トヨ)が狗奴国によって併呑されるのを避けて亡命し、そこで台与の王権をつないだゆえに「トヨ国」と名付けられたものだろう。
3の肥国の別称は「建日に向かい、日豊かなる久士比(くしひ)の泥別(ねわけ)」と読む。「建日に向かい」とは、4の熊曽国すなわち「建日」に向かい合っているということであり、「日豊かなる」は「心が豊かである」である。そして「久士比(くしひ)の泥別(ねわけ)」とは、「奇し日の根分け」と転換され、要するに「霊力に優れたその末裔」という意味である。
この「肥国」こそが「奇し日」を体得したヒミコ女王の治めた邪馬台国であろう。
最後の4熊曽国、が狗奴国であるが、狗奴国は実は熊曽国の一部に過ぎない。熊曽国の領域は大変広く、熊本県と鹿児島県および宮崎県を併せた領域である。
魏志倭人伝の国名でいうと、今話題にしている狗奴国と投馬国とを合わせた領域ということである。
狗奴国と投馬国は同じクマソ族(集団)として親和的であったが、北部九州の辰韓由来の大倭(崇神王権)とは融和的でなかった。12代の景行天皇は崇神天皇の孫に当たり、やはり親和性がなく、景行天皇の時代に「クマソが朝貢せずに反したので、征伐した」といういわゆる「景行天皇のクマソ親征」が行われたと説話は語っている。
この時に初めて「熊襲」なる部族名が使われたのだが、「熊」にせよ「襲」にせよ、おどろおどろしい漢字を使い、いかにも「暗愚で王権に従わない蛮族」という意味を込めてそう表したと捉えられている。
ところが私は同じクマソでも古事記の漢字を採り、「熊曽」とする。
「熊」とは「能」に「火(列火)」の合字で、「火を能くする」という意味であり、砕いて言えば「火を上手にコントロールする」ということである。
どういうことか。
まず、火は熊本県から南の九州に特有のカルデラ火山地帯を表していると考えるのだ。火山地帯に噴火はつきものである。このような過酷な自然環境の中で果敢に生きている、そういう属性を持っている人々の姿が浮かぶ。
要するに、「熊曽」とは、カルデラ火山群による火の洗礼を受けつつ果敢に生きる「曽人(そびと)」のことである。
「曽」を私は「背」からの転訛ではないかと考えるものである。古語では「背面」と書いて「そとも」と読ませている。「背」とはバックボーンのことでもある。それは「元つ」と言い換えることができるのではないだろうか。
「熊曽国」とは、「火の盛んな中を生きる元つ国」という九州の南半分の属性を体現した国名だと思うのである。
さて、今回は「狗奴(クナ)国」を取り上げる。
① 狗奴国の位置
狗奴国の位置については、倭人伝に次のように記している。(※書き下し、かつ、現代文で意訳した。)
〈女王国より北側の国々(九州島への入口である対馬国から不彌国まで)はその概要を略載できたが、そのほかの連盟国21か国については詳細が得られないので国名だけを列挙する。
次に斯馬国あり、次に已百支国あり、・・・(以下、17か国省略)、次に烏奴国あり、次に奴国あり。この奴国は女王国(連盟)の境界の国である。
その南に狗奴国がある。男子が王と為っている。官に狗古智卑狗(クコチヒコ)がいる。女王国(連盟)には属していない。〉
(※この直後に、「帯方郡より女王国に至る行程は1万2千余里である」と記してある。このことから、九州島北端の末盧国(唐津)に水行1万里の後に上陸したあとは「2千里」しか残っていないのであるから、畿内説は成り立ちようがないことが分かる。)
以上の記述から、狗奴国は女王国連盟傘下21か国のさらに南側に存在することが分かる。「その南に狗奴国がある」という「奴国」はどこだろうか。この奴国は不彌国の直前にある戸数2万戸の奴国とは別の奴国である。私見では菊池川河口を領域とした「玉名国」だろうと考えている。
その南側に狗奴国があるという構図になる。おおむね菊池川を境として、その左岸以南が狗奴国の領域である。「官に狗古智卑狗(クコチヒコ)がいる」というそのクコチヒコとは「菊池彦」のことに違いない。菊池川流域(菊池市・山鹿市)の豪族であろう。
② 狗奴国と女王国との不和
狗奴国と女王国がどのような関係にあったかは、①で引用した倭人伝記事より大分後になって出て来る。次の通りである。
〈其(正始)の6年(西暦245年)、魏の3代目の斎王の詔勅により女王国からの使者である難升米(ナシメ)に「黄幢(コウドウ)」(魏王朝の戦旗)を賜うこととし、それを帯方郡において授けるようにした。其(正始)の8年(西暦247年)帯方郡太守の王頎が到着したので黄幢を持たせた。
倭の女王卑弥呼と狗奴国男王の卑弥弓呼はかねてから不和であった。女王は載斯烏越(サイシウエ?)たちを帯方郡に遣わし、狗奴国と戦闘状態になっていることを訴えた。〉
卑弥呼の国がかなり差し迫った状況に置かれていたことが読み取れる記事だが、その前に狗奴国王の名前について訂正しておきたい。
この記事では男王を「卑弥弓呼」と記すのだが、それだと「ヒミココ」としか読めず、倭人名の訓みとしてはちょっと有り得ない。これは「卑弓弥呼」とすべきであろう。すなわち「ヒコミコ」である。そうすれば卑弥呼の本来の倭名「ヒメミコ」と対応する。
さてこの狗奴国王ヒコミコと女王卑弥呼とはもとより不和であったと倭人伝は記す。すでに景初2(238)年に女王卑弥呼は魏へ朝貢の使者を送っているが、その貢納品は男女二人ずつの4名の「生口」と布が二匹二反だけという粗末なものであった。これはすでに南から狗奴国が侵入を開始していたため、言わば慌てふためいて魏王朝のお墨付きを求めた可能性が高い。
菊池国も元来は狗奴国とは独立していた王国であり、女王国とも親縁の国だったのだが、ついに狗奴国の傘下に入ったため、卑弥呼はおおいに危惧し、ために魏王朝の介入(援助)を求めたに違いない。
その結果の返納品は驚くべきものだった。何と「親魏倭王の金印」が返って来たのである。さらに使者たちにも「銀印」が授与されるという大盤振る舞いであった。
このことを知った狗奴国王ヒコミコは切歯扼腕したであろうことは想像に難くない。そしてこれが両国間の不和をさらに強める結果となり、上の記事にあるように、西暦245年以降、戦闘状態に入ったと考えられるのである。
其の2年後の247年に帯方郡から黄幢(コウドウ)が到着し、その威力が狗奴国との戦闘には有利に働き、女王国は何とか凌ぐことができたと思われる。ところが、帯方郡の使節団は戦争における差配において、女王では心もとないと強く卑弥呼をけん責したようである。
「卑弥呼、以て、死す」と倭人伝は記している。帯方郡からの使節団が到来してから日を置かずして、卑弥呼は死んだようなのだ。
その後は後継者をめぐって争いになり、結局、卑弥呼の一族の少女の台与(トヨ)が立って収まったのだが、帯方郡使節団が帰った後に狗奴国が攻めて来たかどうかの記事はない。
私は先の戦闘で狗奴国王ヒコミコ自身が戦死したためではないかと思っている。というのは台与(トヨ)が女王になった後、魏王朝では大将軍・司馬懿が魏の王室の曹爽を殺害する(249年)など専横が盛んになり、「東夷の蛮族」に関与する暇が無くなっていたにもかかわらず、狗奴国が戦争を仕掛けていないようなのである。
『晋書』の266年の記事に「倭女王が、使いを遣わして貢献して来た」というのがあり、これは女王台与の朝貢だと考えられ、してみると女王国は266年までは台与の時代が続いていたと考えて差し支えないだろう。
③ 狗奴国の女王国乗っ取りはあったか?
②で見たように、倭人伝からは狗奴国は女王国とは不和であり、西暦245年の頃には戦争状態に入っていたことが読み取れ、魏王朝からの黄幢(コウドウ)という「錦の御旗」のお墨付きを得て辛くも狗奴国との戦闘は収まった。卑弥呼は死ぬが後継の台与の女王就任で一応は平時を取り戻したようである。その期間は西暦266年、つまり台与が女王に就任から約20年ほどは平穏であった。
その平穏を支えていたのが、九州北部「大倭」の存在だったとも考えている。
「大倭」とは「北部九州倭人連合」と言い換えられるが、これは九州島に本拠地を移した辰韓の王「ミマキイリヒコ・イソニヱ」こと第11代崇神天皇のホームグラウンド糸島(五十=イソ)を中心として糾合した倭人連合であった。
この「大倭」はまた、同じ北部九州佐賀平野等を支配領域としていたオオクニヌシの国家「厳奴(イツナ)」を押しのけつつ、次第に九州北岸部から内陸へと侵攻して行った。この両者の最終決戦は筑後川中流域で行われ、結局、大倭の勝利となった。
邪馬台女王国はその結果、大倭に与することになり、都督とも言うべき「伊支馬(イキマ=生目)」を政権中枢部に置かれ、一種の保護国となった。被保護国化の方が、南からの狗奴国の侵攻に対抗するためには都合が良かったのである。
しかし、大倭こと崇神天皇の連合国家が大和への東征に出た270年頃、都督であった「イクメ(生目)イリヒコ(入彦)」こと若き日の垂仁天皇が大和への東征に参加してしまうと、邪馬台国は実質的に大倭の保護国から解放されるわけだが、そのため逆に狗奴国の北進を危惧せざるを得なくなった。
270年以降に狗奴国が八女の女王国を併呑したかどうかは、どの記録にもないので憶測でしかないが、12代の景行天皇の時代に見える「景行天皇のクマソ親征」説話によると、狗奴国は一度は八女邪馬台国を併呑していたが、その後、景行天皇の時代(西暦350年前後)には撤退しており、再び元の狗奴国すなわち今日の熊本県の領域(ただし、菊池川以南)に戻っていたようである。
④ 狗奴国はのちの「クマソ国」
狗奴国の狗奴(クナ)は熊(クマ)と置き換えられ、狗奴国は「クマソ国」と考えてよい。多くの倭人伝研究者もその点ではほぼ一致しており、私もその説を採用する。
古事記の「国生み神話」によると、九州島には4つの面(国)があるとしている。
1,筑紫国(白日別)
2,豊国(豊日別)
3,肥国(建日向日豊久士比泥別)
4,熊曽国(建日別)
であるが、カッコ内は国名の成り立ち(属性)を捉えた和名である。
1の筑紫国は、白日すなわち新羅を成り立ちの基としている。新羅は三韓時代の辰韓のことであり、倭人とともに辰韓を建設した遠く辿れば殷の王族である箕子の末裔の家筋である崇神天皇の大倭(北部九州倭人連合)が生まれたところであった。
2の豊国は、豊日すなわち邪馬台国の女王台与(トヨ)が狗奴国によって併呑されるのを避けて亡命し、そこで台与の王権をつないだゆえに「トヨ国」と名付けられたものだろう。
3の肥国の別称は「建日に向かい、日豊かなる久士比(くしひ)の泥別(ねわけ)」と読む。「建日に向かい」とは、4の熊曽国すなわち「建日」に向かい合っているということであり、「日豊かなる」は「心が豊かである」である。そして「久士比(くしひ)の泥別(ねわけ)」とは、「奇し日の根分け」と転換され、要するに「霊力に優れたその末裔」という意味である。
この「肥国」こそが「奇し日」を体得したヒミコ女王の治めた邪馬台国であろう。
最後の4熊曽国、が狗奴国であるが、狗奴国は実は熊曽国の一部に過ぎない。熊曽国の領域は大変広く、熊本県と鹿児島県および宮崎県を併せた領域である。
魏志倭人伝の国名でいうと、今話題にしている狗奴国と投馬国とを合わせた領域ということである。
狗奴国と投馬国は同じクマソ族(集団)として親和的であったが、北部九州の辰韓由来の大倭(崇神王権)とは融和的でなかった。12代の景行天皇は崇神天皇の孫に当たり、やはり親和性がなく、景行天皇の時代に「クマソが朝貢せずに反したので、征伐した」といういわゆる「景行天皇のクマソ親征」が行われたと説話は語っている。
この時に初めて「熊襲」なる部族名が使われたのだが、「熊」にせよ「襲」にせよ、おどろおどろしい漢字を使い、いかにも「暗愚で王権に従わない蛮族」という意味を込めてそう表したと捉えられている。
ところが私は同じクマソでも古事記の漢字を採り、「熊曽」とする。
「熊」とは「能」に「火(列火)」の合字で、「火を能くする」という意味であり、砕いて言えば「火を上手にコントロールする」ということである。
どういうことか。
まず、火は熊本県から南の九州に特有のカルデラ火山地帯を表していると考えるのだ。火山地帯に噴火はつきものである。このような過酷な自然環境の中で果敢に生きている、そういう属性を持っている人々の姿が浮かぶ。
要するに、「熊曽」とは、カルデラ火山群による火の洗礼を受けつつ果敢に生きる「曽人(そびと)」のことである。
「曽」を私は「背」からの転訛ではないかと考えるものである。古語では「背面」と書いて「そとも」と読ませている。「背」とはバックボーンのことでもある。それは「元つ」と言い換えることができるのではないだろうか。
「熊曽国」とは、「火の盛んな中を生きる元つ国」という九州の南半分の属性を体現した国名だと思うのである。